1 中断
〈展覧会の絵〉は、力強い「プロムナード」で始まった。
ともかく、始まったのである。
「やれやれ……」
太《おお》田《た》はステージの袖《そで》で汗を拭《ぬぐ》った。
太ってもいて、汗っかきだが、今拭《ふ》いたのは八割方冷汗であった。
始まってくれれば大丈夫。いくら何でも、二千人の聴衆を前にして、曲の途中で、演奏をやめることはないだろう。
もっとも彼女——女性ピアニストとして、すでに三十年のキャリアを持つ、影《かげ》崎《さき》多《た》美《み》子《こ》は、ある地方の小都市でのコンサートのとき、客席で何とお弁当を広げて食べている客を見付け、ショパンを唐突に終らせてしまうと、
「猫に小判」
の一言を残して、ステージから引っ込んでしまったことがある。
しかし、今夜は違う。何といっても、日本のコンサートホールの中でも、一、二を争う美しい響きで知られるKホール。音楽評論家の顔もいくつか見えて、客席も九割方埋っている。
決して若くない影崎多美子のリサイタルで、これだけの客が入るというのは、なかなかのものだ。今は、演奏家も、「若く、美しい」ことが求められるのである。
それでも今夜これだけの客が集まったのは、開演前に太田がマネージャーとして何度も影崎多美子に強調した通り、三年ぶりの多美子の演奏を聞きたいというファンが多いこと。それから、これは当人には言っていないが、今夜たまたま東京都内で、大きなピアノのリサイタルが他にない(コンチェルトも含めて)ことも幸いしただろう。
ともかく、客が多いということは、悪いことではない。——実際、もしこれでホールの半分ほどしか埋っていなかったとしたら、多美子はキャンセルしてしまいかねなかった。
ムソルグスキーの〈展覧会の絵〉がプログラムに入っているのが、気に入らなかったのである。
これは、当人がいやがるのを承知で、太田が入れさせたものだ。こうでもしなければ、多美子は、ほとんど現代物ばかりでプログラムを埋め尽くし、客はほとんど寄りつかなかっただろう。
太田は多美子をなだめすかし、スタンダードな曲をどう弾くか、それも立派に個性の主張だ、と説得した。
——曲は順調に進んでいる。
力強い音が、ホールの空間へしみわたって行く。——よしよし。本人ものっている。
当人だって嫌いじゃないのだ。通俗名曲といわれる曲を、実際、プロは意外なほど愛しているものである。
ただ、「これを弾かなきゃ客が来ない」と思われることが、面白くない。その多美子の気持を、太田はよく知っていた。
最終的に彼女に承知させる決め手になったのは、「芸術的理由」でなく、
「これで入りが悪かったら、後のコンサートができなくなる」
という、経済的脅迫(?)だった。
その代り、普通なら最後に弾く、この大曲を、多美子は前半に持って来てしまった。それがせめてものレジスタンスだったのだろう。
太田はそこにはこだわらなかった。後半の難解なプログラムを敬遠して、途中で帰る客もあるかもしれないが、入場料はちゃんと払ってくれている。
それに、前半でこの調子を見せていれば、後半も聞いてみよう、ということになるに違いない。——マネージャーとしての経験で、太田は知っていた。
太田は、袖の椅《い》子《す》に腰をおろした。スチールパイプの折りたたみ椅子は、太田の重みでギッと鳴った。太田は一瞬肝を冷やした。音楽家の耳は信じられないほどいい。
冷たいジュースを入れたコップが差し出された。
太田は、
「どうも」
と、低い声で言った。
「いいえ」
このホールのチーフプランナーである佐《さ》竹《たけ》弓《ゆみ》子《こ》は、やはり小声で言って、「いいですね、影崎さん」
「やりゃできる人なんだ。しかし、何しろあの気性で……。——うまい」
ジュースを一気に飲み干して、コップを返す。佐竹弓子はそれを受け取って、すぐに事務の女の子へ渡した。
落として大きな音をたてるような物を、いっときでもそばに置きたくはなかったのである。
佐竹弓子は、そばに置いてある小テーブルにちょっと腰をかけると、
「体の具合は?」
と、小声で訊《き》いた。
太田は、ちょうど視線の高さに来る、佐竹弓子の腰の曲線に目をやって、
「魅力的だよ」
と、言った。
弓子は苦笑して、
「何を言ってるの」
と、太田をにらんだ。
四十八歳の太田は、相当の肥満体、弓子の方は今年三十六だが、正に「女盛り」の匂《にお》い立つような体つきをしている。
こうして気楽に言葉を交わせるのは、実のところ、二人はごくたまにだが、ベッドを共にすることのある仲だから。
もっとも、主導権を握っているのは専ら弓子の方で、彼女がその気にならなければ、太田は何か月も待ち呆《ぼう》けを食わされることになる。
——曲は「ビドロ」に移っていた。牛が引く荷車のことだ。
ぬかるみの道を、喘《あえ》ぎ喘ぎ車を引く牛の哀《かな》しみが、重い、引きずるようなリズムで表わされている。
「——凄《すご》いな」
と、佐竹弓子が言った。「描写的に弾いてるじゃない、彼女」
聴衆の誰もが、その情景を思い浮かべ、圧倒されていることが分る。客席の空気というものは、伝わって来るものなのである。
「——僕への当てつけさ。分ってる」
「当てつけって?」
「自分が、こき使われてる牛と一緒だと言うんだ。冗談じゃない。こっちが牛だよ」
「確かに体つきではそうね」
と、弓子が笑いをかみ殺して言った。
「おいおい……」
太田が苦笑する。
「もう心配ないわね」
と、弓子が言った。「曲は進んでるわ、順調に」
「うん……」
太田の眉《まゆ》が少しくもった。
「心配ごと?」
「体のことさ。彼女の」
「元気そうよ」
「確かに。しかし、医者には要注意と言われてる。——もちろん、コンサートをやめたら、それこそストレスになるから、適度なコンサートはいい、と言ってた」
太田は首を振った。「〈適度な〉コンサートなんてものをやったら、演奏家は命とりだ。分るだろ?」
「それは仕方ないわよ。お医者さんは、悪気で言ってるわけじゃないんだから」
「そりゃそうだが……。彼女には大したことないと言ってあるんだ。ああ見えても、結構気にするたちだからね」
「誰でもそう。あの人だって、人間なんだから」
太田には、演奏家というものが、何千人の目の前で、演奏に集中するために、どれだけのエネルギーを要するか、よく分っている。それを知っているのは、身近にいる人間だけだろう。
「——どうだい」
と、太田が、そっと佐竹弓子の腰に手をのばす。
「もうずいぶんごぶさただ」
「人目があるのよ」
と、弓子はにらんだが、本気で怒ってはいない。
太田は、脈あり、と見た。
「——今夜、彼女がすんなりと家へ帰ったらね」
と、弓子は言った。
「OK。何とか寝かしつける」
「私のマンションでもいい?」
「文句ないよ」
——もちろん二人の会話は、ほとんどささやくような声で交わされていたのである。
曲は後半に入って来ている。「リモージュの市場」。女たちの大騒ぎが、にぎやかに描写されている。
「——由《ゆ》利《り》さんは、どうしてるの?」
と、弓子が言った。
「由利? そのみさんじゃなくて?」
「そのみさんのことは私も知ってるわよ。男と同《どう》棲《せい》して——」
「もう別れた」
「そう。じゃ、家に?」
「次を見付けた」
弓子はため息をついて、
「こりないのね」
と、言った。
「そのみさんばかりが悪いんじゃない」
と、太田はステージの方へ目をやった。「母親のせいもあるんだ」
「それにしても……。自分をだめにするのが、仕返しになるとは思えないわ」
と、弓子は言った。「まだ弾いてるの、少しは?」
「どうかな。今度の男が、ろくに働かないらしいから、少しは弾かないと、食べて行けないかもしれない」
と、太田は考えながら、「声をかけてみるかな。向うからは言い出しにくいだろう」
「プライドの高いところは母親譲りね」
「そう。——人間的には、由利さんの方が、はるかにできてる」
「でも、もう彼女、全然……」
「ああ。由利さんにとっちゃ、ピアノは『敵』なんだ。憎悪の対象とでも言うかな」
「OLをしてるんですって?」
「うん。——松《まつ》原《ばら》由利の名前でね。安アパートで一人暮し。会社でお茶くみをやったり、コピーをとったり……」
「よく知ってるわね。調べたの?」
「必要さ。いつ、母親が倒れるかもしれないんだ」
「それもそうね」
と、弓子は肯《うなず》いて、「結構働いてるのね、あなたも」
「言ってくれるね」
と、太田は苦笑いした。
「でも——もったいない。二人とも、あんな腕を持ってて」
「仕方ないさ。人生は人それぞれだ。親だって、それを押し付けるわけにはいかない」
「まあね」
と、弓子は肩をすくめ、「子供なんて、いらないわ。厄介なことばっかり」
「君に母親は似合わないかもしれないね」
と、太田は言った。「影崎多美子も、ピアニストとしては一流だが、妻、母としては、とても水準にも達してないね」
「音楽家は家にいないもの。普通の母親でいろって方が無理よ」
「うん。まあ、それでも——」
異変に気付いた。
客席がざわついている。太田はパッと立ち上った。
「どうしたの?」
「具合が悪そうだ」
太田は、影崎多美子が、ピアノの鍵《けん》盤《ばん》に突っ伏すようにしているのを見た。そして、愕《がく》然《ぜん》としている太田の目の前で、多美子の体はゆっくりと傾き、床へ音をたてて倒れた。
「救急車!」
と一声叫んで、太田はステージへ飛び出した。
佐竹弓子が電話へ飛びつく。ホールの係が二人、太田を追って駆けつけると、影崎多美子の頭と足を持って、袖へ運んで行く。
客席は騒然としていた。
「——今、救急車が来るわ」
と、弓子が言った。「どう?」
「君は客席にアナウンスだ」
「分ったわ」
弓子が、内線の電話で指示を出す。
「——影崎さん。聞こえますか?」
太田が、多美子の耳もとで言った。「聞こえたら、返事して下さい!——え? 何です?」
ピアニストは何か呟《つぶや》いた。——ほとんど意識はない様子だが、目はかすかに何かを見ている。
「影崎さん。——何て言ったんです?」
多美子の目が、ゆっくりと太田を見る。そこには、はっきり相手を見分ける力があった。
大丈夫だ。この元気があれば。
すると——多美子の唇が動いて、はっきり聞きとれる声で言った。
「インペリアル……」
と。