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インペリアル05
日期:2018-06-26 12:54  点击:283
  5 離婚
 
 由《ゆ》利《り》は、母、影《かげ》崎《さき》多美子のマンションに来て、戸惑った。
 
 玄関のドアが、開いている。——誰が入ったのだろう。
 
 用心しながら、まさか空巣ということはないだろうが——玄関へ入ると、男ものの靴が脱いであり、室内も明りが点《つ》いていた。由利には分った。
 
「お父さん。——いるの?」
 
 と、呼んでみる。
 
「ああ。——由利か」
 
 居間から、父が顔を覗《のぞ》かせる。
 
「びっくりした。誰がいるのかと思って」
 
 由利はドアを閉め、反射的にロックしていた。女一人でアパート住いをしていると、ちょっと下までゴミを出しに行くだけでも、しっかり鍵《かぎ》をかけるのが習慣になる。
 
 母のマンションに来るのは久しぶりだ。
 
「——相変らずひどいもんだな」
 
 と、父、松《まつ》原《ばら》紘《こう》治《じ》が居間のとり散らかしようを眺めている。
 
「だって、お母さん一人だし……」
 
 と、由利は言った。「Kホールに行ったって?」
 
「うん」
 
 松原は、少し間を置いて、「どうだ、母さんは」
 
 と訊《き》いた。
 
「一応落ちついたみたい。小康状態っていうの?」
 
「そうか。——良かった」
 
 松原が、目を閉じて、息を吐き出す。「いや——あの女の人……。佐《さ》竹《たけ》さんか。一緒に病院へ、と誘われたんだが……。怖くてやめたんだ」
 
「分るよ」
 
「ここにいれば、いずれにしろ、お前かそのみが戻って来ると思ってな」
 
「入院に必要な物、取りに来たの」
 
 と、由利は言った。
 
「僕が来てたこと、母さんには言うなよ」
 
 と、松原は言った。「心臓に悪いだろ、カッカくると。それとも——」
 
 と、松原は苦笑して、「気にもしないかもしれないな」
 
 由利は、父の老け方に、ショックを受けていた。髪がこんなに白く……。
 
「もう帰る」
 
 と、松原は言って、息をついた。「お前……。今、何してるんだ」
 
「OLよ。電話、教えとくね」
 
 由利はメモ用紙を見付けて(母の部屋では、それも容易でない)、勤め先とアパートの電話番号を書いて渡した。
 
「一人でいるのか。——そのみは?」
 
「恋人と。音楽家向きのマンションにいる」
 
「あいつは相変らずか」
 
 と、松原は笑った。「どっちに似たのかな」
 
「お父さん——」
 
「由利。長くなるのか、入院」
 
 松原の問いに、由利はちょっと肩をすくめた。
 
「たぶん……。検査してからでないと、はっきりしたことは……」
 
「そうか。大丈夫なのか、費用は」
 
「事務所の方で、当面はみてくれるわ。でも、それだけじゃ足らないでしょ。お母さん、ああいう風だから」
 
「そうだな」
 
 松原は肯《うなず》いて、「グランドピアノつきの病室にしろ、と言い出さなきゃいいが」
 
 二人は一緒に笑った。——父と笑ったのは何年ぶりだろう、と由利は思った。
 
「何かあったら、会社へ電話をくれ」
 
 松原は名刺を由利に渡した。
 
「仕事……大変?」
 
「まあな。しかし、そんなことも言っておられんよ」
 
 父が玄関へ出て行く。
 
 靴をはくのを見ながら、
 
「彼女、元気?」
 
 と、訊く。
 
「ああ。——近所の子にピアノを教えているよ」
 
「赤ちゃん——何てったっけ」
 
「早《さ》苗《なえ》だ。もうすぐ三つだ。赤ちゃんでもないさ」
 
 父は確か四十九だ。三歳の娘。三十になるかならずの妻は、ずいぶんと若い。
 
「頑張んなきゃね」
 
「ああ」
 
 松原が、ホッとしたような笑みを浮かべて、
 
「じゃあ……」
 
 と、ちょっと手を上げて見せ、出て行こうとした。
 
「鍵あけて」
 
「そうだったな」
 
 と、松原は笑った……。
 
 一人になると、由利は、あまり時間をむだにしなかった。
 
 何といっても、由利はOLで、明日も仕事があるのだ。それに、入院手続で、どうしても遅刻して行かなくてはならない。その分、一日の仕事はきつくなるのである。
 
 久しぶりにこのマンションへ来た感慨にふける余裕もなく、由利は、旅行用のボストンバッグに、母の着がえや寝衣《ねまき》を詰めた。
 
「——これでいい、と」
 
 病院でもらった紙を取り出して確認すると、由利は肯いて、口に出して言った。
 
 もう、行こう。一《いつ》旦《たん》病院へ行って、容態次第でそばに一晩中いるか、それともアパートへ帰るか、決めることになる。
 
 居間を出ようと明りのスイッチへ手を伸したとき、電話が鳴るのが聞こえた。——どこ?
 
 あわてて捜して、やっと戸棚の中にしまい込んだ電話を見付ける。
 
「——はい。もしもし?」
 
「多美子、君か」
 
 男の声が飛び出して来て、由利は面食らった。
 
「あの……どなたですか」
 
 と由利が言うと、今度は向うがびっくりした様子で、
 
「影崎さんのお宅では?」
 
「そうですけど、母は入院しています」
 
 少し間があった。
 
「娘さん?」
 
「そうです。どなた様ですか」
 
 向うは答えなかった。プツッと、切れてしまう。由利はムッとして、
 
「何よ!」
 
 と文句を言うと、ちょっと乱暴に受話器を戻してやったのだった……。
 
 
 
 由利は、アパートの階段をそっと上った。
 
 足音を忍ばせて、まるで空巣か何かのように。——何しろもう午前二時を回っているのだ。
 
 ドタドタ足音でもたてようものなら、たちまちアパート中から苦情が殺到するだろう。
 
 由利は、それでも体重をゼロにはできないので、古びた階段や、廊下の床板がギイギイ音をたてる度に、ヒヤリとした。
 
 やっと自分の部屋へ辿《たど》り着く。自分の部屋といっても——六畳一間と台所、そして小さなお風呂……。
 
 部屋へ入り、鍵をかけ、チェーンをかけて、やっと息をつく。
 
 上って畳の上にペタッと座り込むと、急に疲れが出て来た。
 
 色んなことがあったし、それに、母のことで、やはり神経が参っているようだ。一応病状が安定しているというので、一旦帰って来た。
 
 明日の朝、銀行へ行って、少しお金もおろして来なくては、そして病院で手続。
 
 早くすむといいけれど。——会社へ行くのは何時ごろになるだろう?
 
 遅刻や早退に、やかましい会社である。中小企業の常で、
 
「一番安いのは人間」
 
 というのが、上の方の基本的な考え方である。
 
 こうしていても始まらない。今からお風呂へ入るわけにはいかない——音がうるさいからだ——ので、せめてサッとシャワーだけでも浴びよう。そうでもしないと、眠れそうもない……。
 
 立ち上ったところへ電話が鳴り出し、飛び上るほどびっくりした。
 
 こんな時間に——。母の容態でも急変したのだろうか?
 
 急いで出ると、
 
「もしもし」
 
 と、意外な声がした。
 
「工《く》藤《どう》さん。どうしたの、こんな時間に?」
 
「いや、ごめん」
 
 同じ会社の営業にいる工藤県《けん》一《いち》は、早口に言った。「今、大阪でね。ちょっと課の奴に電話したら、君、お母さんが倒れたって聞いて……」
 
「それで大阪から、かけて来たの?」
 
「うん。どうなんだい?」
 
「今のとこ、大丈夫。心臓がもともと悪かったの。当分入院だと思うけど」
 
「そうか……。起しちゃったかな」
 
「いいの。今、帰ったところ」
 
 由利も、少し気持が落ちついて来た。
 
 今、必要なのはこんな心を許せる会話なのかもしれない。
 
「じゃ、もう寝なきゃ。悪かったね」
 
 と、工藤が気をつかって切ろうとするのを、
 
「待って」
 
 と、止めた由利は、「あの——出張、どうだったの?」
 
「仕事? うん、まあ……どうってことはないよ。いつもの調子。少し飲んで、十二時ごろ、ホテルに戻って来た」
 
「そう。——体、こわさないで」
 
 何か他に話すことがあるはずだ。そう思うのだが、何も出て来ない。
 
「いつ、帰るんだっけ」
 
「明日。夕方は会社へ顔を出すよ」
 
 と、工藤は言った。
 
「そう。じゃあ……明日会えるね」
 
 当り前のことを言って——でも、少なくとも、工藤のとりたてて「いい声」ともいえない声の響きを聞いているのが、快い。
 
「ともかく、無理するなよ」
 
「うん。ありがとう」
 
「じゃあ……」
 
「じゃ……おやすみなさい」
 
 向うが切るまで、待っていた。——たっぷり十秒近くもあったろうか。
 
 プツッと音がして、電話が口をつぐむ。
 
 由利は、胸の辺りに重くのしかかっていたものが、少しとれたようで、大きく息をついた……。
 
 手早くシャワーを浴びて(できるだけ音をたてないように)、布団へ潜り込む。
 
 あまり干す暇もないので、冷たい布団だけれど、少なくともそこは自分だけの「小さな世界」である。
 
 ——工藤県一とは、一応の付合いはあるにせよ、「恋人」という仲ではなかった。工藤は少々単純だが気のいい青年で、二十五歳。由利より四つも年上だが、由利の方が何となく「姉さん」のようだ。
 
 不器用で、およそ女の子にもてようと努力するタイプではないのが、むしろ爽《さわ》やかである。——恋しているというわけでもなく、由利としては「気をつかわなくてすむ」相手、というところだった。
 
 目を閉じると、疲れのせいか、じきに眠気がさして来る。
 
 チラチラと視界に白い光の破片が踊って……それは父の顔になった。
 
 老け込んで、疲れた父の顔。——三つの子供が、成人したとき、一体いくつになっているのか。
 
 しかし、そんな先のことなど、今の父には考えていられまい。母と別れ、今の妻と再婚したときも、未来など考えている余裕はなかったはずだ。
 
 ふと、由利は、父の家へ行ってみたいと思った。——意地悪でなく、父が、三つの子の相手をしているところを、見てやりたかったのだ。
 
 和《わ》田《だ》宏《ひろ》美《み》。——それが父の今の妻である。
 
 かつて、母の弟子だった、若手のピアニスト。才能の豊かな人で、母も可《か》愛《わい》がっていた。
 
 あの気難しい母が——めったに弟子をとらず、大体、弟子の方で逃げ出してしまうのだったが——ただ一人、家族同然にしていた……。それが、裏目に出た。
 
 いつしか、和田宏美と父は愛し合うようになっていたのだ。
 
 もういい。——すんだことだ。
 
 忘れよう。忘れよう。
 
 由利は力一杯目をつぶって、眠りが訪れるのを待った。
 
 由利が眠ったのは、一時間近くもたってからのことだった……。
 

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