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インペリアル06
日期:2018-06-26 12:55  点击:297
  6 才能
 
「遅くなりまして」
 
 由《ゆ》利《り》は課長の三《み》浦《うら》の机の前へ行って頭を下げた。
 
「ああ」
 
 三浦は、チラッと見上げただけで、それきり何も言わない。由利も別に何か言ってほしかったわけではなく、一礼して席へ戻って行った。
 
 銀行へ寄り、入院手続をして、担当の医師に話を聞くので、一時間以上待たされて……。
 
 結局、出社は午後になってしまった。
 
 寝不足で少し頭痛がする。——今日も帰りに病院へ寄らなくてはならない。姉が行くとはとても期待できないからである。
 
 たぶん、マネージャーの太《おお》田《た》が寄ってはくれるだろうが、アイドルタレントのマネージャーとは違って、クラシックの演奏家の場合、一人のマネージャーが何人もを受け持っているから、もちろん太田も、影崎多美子一人に係《かかわ》り合っているわけにいかないのである。
 
 ともかく、机の上に積み上げられた仕事を片付け始めると、
 
「はい、お茶」
 
 と、同じ年齢の後輩、沢《さわ》田《だ》千《ち》加《か》子《こ》が由利の茶《ちや》碗《わん》を置いてくれる。
 
「ありがとう」
 
 由利はホッとして言った。
 
「お母さん、倒れたんですって?」
 
「うん。もともとね、心臓が……」
 
 沢田千加子は、明るく、屈託のない二十一歳である。——何でも重役の親《しん》戚《せき》とかで、もちろんコネの入社だが、気持のいい子だった。
 
 千加子はチラッと三浦の方へ目をやって、
 
「何だか、三浦課長、ご機嫌良くないのよね」
 
 と、低い声で言った。
 
「そう?」
 
「ねえ、私、昨日は休みとってて、知らなかったんだけどさ、凄《すご》かったんだって、由利?」
 
「何が?」
 
 由利は当惑していた。
 
「ピアノ。凄い腕前だった、って。その話でもちきり」
 
「ああ……」
 
 すっかり忘れてしまっていた。「そんなのオーバーよ」
 
「でも、呆《あつ》気《け》にとられたって。私、悔しかったなあ、聞けなくて」
 
 由利はちょっと笑って、
 
「お聞かせするほどのもんじゃないわ」
 
 と言った。
 
「今度、聞かせてよね。じゃ」
 
 沢田千加子がサンダルをカタカタいわせて行ってしまうと、由利は改めて、少し気が重くなった。
 
 ゆうべのカラオケバーでのピアノ……。
 
 思い出すのも辛《つら》い。確かに、お昼休みの話題にはなったかもしれないが、しかし、そんなものは三日と続くまい。早く忘れてしまってほしかった。
 
「——松原」
 
 と、三浦課長が呼んだ。
 
「はい」
 
 と、立ち上ると、三浦は席を立って来て、「ちょっと会議室へ来い」
 
「はい……」
 
 何だろう。——課長に一人だけ呼び出されるというのは、あまり嬉《うれ》しいことじゃないのである……。
 
 空いた会議室に入ると、
 
「座れ」
 
 と、三浦はぶっきらぼうに言った。
 
「はい」
 
 椅《い》子《す》をガタつかせて引き、腰をおろす。三浦は立ったままだった。
 
 いつも、酔うとひどく絡む課長である。アルコールのだめな由利にも、無理やり飲ませる。飲むまでそばを離れないのだ。
 
 同年代の中では出世が遅れ、ポストからいっても、あまり先の見込みはない。屈折したものを抱えているのは、由利にも分るのだが、それを下へぶつけるやり方は、好きになれない。
 
「ゆうべのことだ」
 
 と、三浦は言った。「言わなくても分ってるだろ」
 
 由利は、戸惑った。
 
「何のことでしょうか」
 
「決ってるだろ! 歌えと言われて断っといて。お前は何で月給をもらってるか、分ってるのか?」
 
 三浦は、苛《いら》々《いら》と歩き回っていた。
 
「すみません。でも、歌えないんです。本当に——」
 
「ピアノは弾けてもか」
 
 と、三浦は顔をしかめた。「自分はあんな低俗なことはやれません、ってわけか」
 
 由利は絶句した。とても大人の言うこととは思えない。
 
 しかし——逆らってもむだなことは、よく分っている。
 
「そんなつもりじゃありませんでした。すみません」
 
 と、頭を下げる。
 
「俺《おれ》がな、文句を言われるんだ。どういう教育をしてるんだ、ってな」
 
 三浦は、机の端に腰をかけて、「あの部長から、呼び出されてる。行って来なきゃならん」
 
「そうですか」
 
「そうですか、だと? お前のわがままの尻ぬぐいをするんだぞ、こっちは!」
 
 三浦の怒鳴り声は、廊下にもたぶん聞こえているだろう。
 
 由利は顔を伏せた。
 
「いいか。今度、あんな真《ま》似《ね》をしたら、許さんからな!」
 
 吐き捨てるように言って、三浦は出て行った。——由利は、息を吐いて、机に肘《ひじ》をつき、両手で顔を覆った。
 
 ——何やってるの! この怠け者! またさぼってたのね! 私がコンサートツアーに出てる間、何時間弾いたの? 五時間? 六時間? 素人芸じゃないの、それじゃ! そんなものでピアニストと呼べないわよ!
 
 耳の奥で今も反響するあの声。
 
 あれに比べれば……。そう、三浦に怒鳴られるくらいが何だろう。
 
 ドアがそっと開いた。
 
「由利……」
 
「——千加子」
 
 沢田千加子が、そっと顔を覗かせている。
 
「大丈夫?」
 
「うん……。聞こえた?」
 
 と、由利は微《ほほ》笑《え》んだ。
 
「会社中に轟《とどろ》きわたった」
 
「オーバーね」
 
 と、由利は笑った。
 
「何なの、一体?」
 
「何でもないのよ」
 
 と、由利は立ち上った。
 
「もうちょっと待ってる方がいいわ」
 
 と、千加子が言った。「今、三浦課長、出かけるとこだから」
 
 千加子が入って来て、ドアを閉める。「ね、由利。——新聞で見たけど、ピアニストの影崎多美子って人、演奏中に倒れたって。あれ、もしかして……」
 
 由利は、ちょっとためらったが、
 
「ええ。母なの」
 
 と言った。
 
「やっぱりね! 何となく違うと思ってた」
 
 千加子は、椅子にかけると、「影崎って、ステージネーム?」
 
「ううん。私が、勝手に父の方の姓を名のってるの。父と母、離婚してるから」
 
「そうだったのか……。ピアノ、うまいわけだね」
 
 と、千加子は言った。「私もピアノ、習ってたのよ。——ハイドンのソナタとか弾くとこまで行って、挫《ざ》折《せつ》したけど」
 
「そう」
 
「一度、聞いたことがあるの。あなたのお母さんの演奏。——小さいころで、よく憶《おぼ》えてないけど」
 
 由利は、ちょっと肩をすくめて、
 
「私も落ちこぼれ。——母に年中怒鳴られてたの」
 
「でも……。大変ね。重いんでしょ、病気」
 
「病気もだけど——何しろ、芸術家はわがままで」
 
 と、由利は苦笑した。「もう仕事しなきゃ。残業できないの。母の所へ寄らなきゃいけないからね」
 
「帰っちゃえばいいのよ。三浦課長の言うことなんか、気にすることない」
 
「そうもいかないわ」
 
 そう。——母の入院が長びけば、ここの給料だけでは足らなくなる。
 
 姉が弾く気になってくれれば……。
 
 由利は、席に戻ると、仕事を始めた。
 
 オフィス内の目が、こっちをチラチラと見ているのが感じられて、しかし、あえてそれは無視している。
 
 三浦の席は空いていた。——あの得意先の「部長」に呼ばれて出かけて行ったのだ。
 
 何を言われて帰って来るか。それ次第では、また怒鳴られる覚悟をしておいた方が良さそうだ……。
 
 
 
 佐竹弓《ゆみ》子《こ》は、ホールへ入って、ホッと息をついた。
 
 ここは「自分の城」だ。この中では、落ちついていられる。音楽のことだけ、考えていればいいのだ。
 
 赤字のことも、支配人の叱《こ》言《ごと》も忘れて。
 
 しかし——いつまでもここが「自分の城」でいられるかどうか。
 
 弓子も少々自信を失いつつあった。
 
 ポーン、ポーン、とピアノを叩《たた》く音。
 
 調律師が、今夜のコンサートに備えて調律している。
 
「どうも」
 
 と、弓子が客席の間をやって来るのを見て、調律師が顔を上げた。
 
「ご苦労様」
 
 と、弓子は言った。
 
「大変でしたね、ゆうべは」
 
「ええ。今朝もそれで大騒ぎ」
 
 と、弓子は笑ってステージに上った。「でも、今夜もコンサートはあるのよ」
 
「そうですな。影崎さん、良かったらしいじゃないですか」
 
「凄かったのよ。あのまま行ってればね……」
 
 と、弓子はため息をつく。「ピアニストも人間だから」
 
「影崎さんですらね」
 
 と、調律師は笑った。「——今夜はヴァイオリンソナタでしたね」
 
「そう。ソロはないわ」
 
「じゃ、そのようにやっときます」
 
 ピアノソロの場合と、ヴァイオリンに合せる場合、調律は微妙に違う。
 
「——いいピアノだ。当りですよ」
 
 と、調律師が言った。
 
 ピアノも手作り。一台一台、個性を持っている。
 
「ねえ」
 
 と、弓子が言った。「〈インペリアル〉、知ってるでしょ」
 
「ベーゼンドルファーの、あの一番でかい奴でしょ?」
 
「そう。調律したこと、ある?」
 
「いや、私の受持の人にはね、あれを弾く人、いないんです。どうしてです?」
 
「いいの」
 
 弓子は首を振った。
 
〈インペリアル〉は、通常のコンサートグランドピアノより一オクターブ下までのびた、巨大なピアノだ。
 
 あのとき、影崎多美子が言った、
 
「インペリアル」
 
 とは、その意味なのだろうか?
 
 それとも、何か別のことか。——弓子の知っている限り、彼女が〈インペリアル〉を使ったことはない。
 
 コツコツと靴音がした。
 
「どなた?」
 
 と、声をかけて、「——まあ! そのみさん!」
 
 弓子はステージからスカートを翻して飛び下りた。
 
 そのみはジーパン姿で、のんびりとやって来ると、
 
「母が倒れた所を見に来たの」
 
 と、言った。「ごめんなさい。続けて」
 
「弾きますか」
 
 と、調律師が言った。「ヴァイオリンと合せるようにしてあるけど」
 
「いえ、結構」
 
 と、そのみは首を振った。
 
「お母様の具合——」
 
「知らないわ。妹任せ」
 
 そのみはステージに上った。「このホールに来るの、久しぶり」
 
 ポンと手を打って、反響を聞くと、「良くなったみたいね」
 
「おかげさまで」
 
 弓子はそのみを追って、またステージに上った。「——そのみさん。ぜひ、ここの自主企画で弾いて下さいな」
 
 即座にはねつけられるかと思っていた弓子は、そのみが返事をしないので、却《かえ》ってびっくりした。
 
 そのみは、ゆっくりとステージの上を歩き回った。——まるで、陸上の選手がトラックを点検している、という様子だ。
 
 弓子は、あえて押さなかった。そのみに、やる気があることは、分ったからだ。
 
「でもね……」
 
 と、そのみは言った。「いつも私は母と比べられるわ。あんな化物と一緒にされたくないもの」
 
「あなたはあなたでしょう」
 
「気楽に言わないで」
 
 と、そのみは苦笑した。「弾くのはこっちよ」
 
 そのみは不安なのだ。
 
「母親には遠く及ばない」
 
 と言われることが怖い。
 
 弓《ゆみ》子《こ》には意外なことだった。しかし、あんな親を持ったことが、同じピアニストとして、どんなに辛いか……。弓子には想像することしかできない。
 
「終りました」
 
 と調律師が言った。
 
「——弾いてもいい?」
 
 と、そのみが言った。
 
「どうぞ。狂ったら、また直しますよ」
 
「じゃ……」
 
 そのみはピアノに向った。——一瞬の沈黙。
 
 意外に、そう構えることもなく、そのみの手は鍵《けん》盤《ばん》を捉《とら》えていた。

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