7 契約
「〈インペリアル〉か……」
と、そのみはコーヒーを飲みながら、言った。
「どうしてお母様がそうおっしゃられたのか、伺ってみたいですね」
と、佐《さ》竹《たけ》弓子は言った。
「〈インペリアル〉ねえ。ベーゼンのピアノのことでなきゃ、ウィーンのホテルかな」
と、そのみは言った。
「ああ。ムジークフェラインの隣の?」
「ウィーンに何度か行って、母はあそこが気に入ってたから」
そのみはジーパンの長い足を組んで、息をついた。
Kホールの真向いにあるレストラン。コンサート前の一時間ほどは混雑するが、こんな昼間の時間は空《す》いていて、ケーキがおいしい。
「一ついかが?」
と、ケーキのサンプルがワゴンで運ばれて来ると、弓子はそのみにすすめた。
「太っちゃうな」
と言いながら、そのみは中でも特別甘そうなのを選んだ。「じゃ、これ。——ピアノを弾いた分、エネルギー使ってるから大丈夫よね」
「そのみさん」
弓子の膝《ひざ》には、分厚いノートがあった。Kホールに関するスケジュール表である。
「やりましょうよ。あれだけ弾けて、ためらうことないわ」
そのみは、目を伏せた。——絶対にいや、と言わなければOKしたも同じ。そのみのことは、弓子もよく知っている。
「三か月先の週末がちょうど一つ空いてるの。この間、急に亡くなっちゃったでしょ、ロシアの巨匠が」
「ああ。びっくりしたわ。死にそうもない人だったけどね」
と、そのみは言った。
「その週末がまだ埋ってなくて。いい日だと思うわ。もしコンチェルトが良ければオケもどこか押えるけど。でもやっぱりソロリサイタルをやってほしい」
「そうね……」
と、そのみが曖《あい》昧《まい》に言う。
相当に「やる気」になっている証拠だ。
「じゃ、決りね! 良かった。絶対に満席にして見せる」
と、弓子は言った。
相手の気が変らない内に、どんどん話を進めてしまうに限る。
「やりたいわけじゃないのよ」
と、そのみは、まだ未練がましい。
「そのケーキで買収されたってことにするの。どう?」
弓子の言葉に、そのみはちょっと目を見開いて、それから笑った。
「じゃ、じっくり味わって食べるわ」
と、運ばれて来たケーキにフォークを入れる。
それがいわば契約のサインだ。——佐竹弓子はホッとした。
芸術家は、とかく子供っぽい一面を持っているものである。うまくおだてて、ご機嫌をとり、「のせる」のもプランナーの大切な仕事の一つだ。
「何をメインに弾きます?」
と、弓子が言うと、そのみは苦笑して、
「そこまですぐ決められないわよ」
と言った。
しかし、弓子には分っていた。そのみがここまで言うからには、すでに頭の中にプログラムはでき上っているはずだ。
「何も、全部でなくてもいいの。後で変えたって。ただ、上の方の頭の固いのに話を通すとき、〈曲目未定〉だとね、やりにくいんです。分るでしょ?」
「ええ……。まあたぶん……ラヴェル辺りね、後、ドビュッシーか」
「いいですね。このところ〈モーツァルト〉ばっかり聞かされて、みんな少し食傷気味だもの」
と、素早くメモする。
「〈展覧会の絵〉は弾かないわよ」
そのみは、少しいたずらっぽく言った。
「ラヴェルで充分。そのみさんのファンには大いにアピールしますよ」
「私のファン? そんな人、まだいるのかしら」
と、そのみは言って、「ともかく、やるしかなさそうね」
と、自分に向って言うように、付け加えた。
「そうですよ。すぐ情報流しちゃうから」
弓子はパチッとボールペンの芯《しん》を引っ込めて、「じゃ、契約書は事務所を通して?」
「そうね……。もう、あの事務所とは全然切れちゃってるの。担当の人もいないし」
「じゃあ、太《おお》田《た》さんにやってもらえば? とりあえずは、そのみさん個人との契約ということにしておきますから」
「太田さんか……。そうね、太ってる人って、あんまり好きじゃないんだけど」
「また、そんなこと言って」
と、弓子は笑った。
「でも、あいつも太ってるしな」
と、そのみは自分の言葉に苦笑いした。「いいわ。あなたに任せる」
「結構です。前の事務所の契約がどうなってるかも調べますから」
「お願いね」
こういう点、弓子は決して忘れたり手を抜くことがないし、他人任せにもしない。だからこそ信用されるのである。
「そうそう」
と、そのみは言った。「後半でもう一台ピアノを用意して」
「え?」
「デュオをやりたいの」
「二台のピアノ?」
弓子にも、これは驚きだった。そのみは個性の強いソリストだ。自分から二重奏を言い出すのは、珍しい。
「誰と弾くんです?」
と、弓子が訊《き》くと、そのみはちょっと微《ほほ》笑《え》んで、
「由利よ」
と、言った。
何があったのか、由《ゆ》利《り》には見当もつかなかった。
ともかく、自分に関係のある「何ごとか」で、社内が大あわてしている。それだけは確かだった。
課長の三《み》浦《うら》が帰って来たのは、もう夕方近くになってからだった。何を言われるかと覚悟していた由利にとっては、何とも意外なことに、三浦はチラッと由利を見たきりで、自分の席を素通りして、部長の席へ行った。
何か小声でのやりとりの後、あわただしく、幹部が集められ、会議となった。もう三十分以上たつ。
「——どうしたのかしら」
と、書類を持って来た沢《さわ》田《だ》千《ち》加《か》子《こ》がそっと言った。「何も言ってなかったの?」
「全然」
と、由利は首を振った。「会議って、社長も出てるの?」
「出てる。副社長も。お偉方総出って感じよ」
「どうしたんだろ……」
由利も、仕事はしているものの、気が気でない。
「あなたの名前が出てたのは確か。でも、秘書の子が、お茶出しましょうか、って覗《のぞ》いたら、『いらん!』って怒鳴られたって。そのとき、『ともかく松《まつ》原《ばら》は——』って、誰かが言ってたらしいわよ」
「そう……。いやだなあ」
クビだろうか? 自分が一体何をしたというのだろう。
誰だって、勤務以外の時間、場所で、「したくないことを断る」権利くらい持っているんじゃないだろうか。
クビならクビでもいい。——しかし、たかが由利一人をクビにするには、少々騒ぎが大げさだ。
「——ただいま!」
元気のいい声が、会社の中に響きわたった。顔を上げると、工《く》藤《どう》県《けん》一《いち》がボストンバッグをさげて入って来たところだった。
由利はホッとすると同時に、ふっと胸が熱くなって、工藤に向って微笑むと、手を上げて見せた。
「やあ、何だ。——課長連中は? 部長もいないのか。みんな食当りかい?」
工藤の明るさは、この会社の中でも目立っている。「他に目立つ点がない」と言っては、工藤が可《か》哀《わい》そうかもしれないが。
「何だか緊急会議ですって」
と、女の子の一人が教えてやると、
「へえ。僕の給料を倍にしてくれる相談かな」
と、笑わせておいて、「これ、お菓子。配ってくれ」
「ごちそうさま!」
工藤は、自分の机の下にボストンバッグを置くと、由利の方へチラッと目をやった。
由利と工藤が付合っていることは、女子社員の間では知られている。こういうことを隠しておくのは、至難のわざなのである。
それに——特別隠さなくてはいけない理由もない。
工藤は、女の子がいれてくれたお茶を一口飲んで息をつくと、みやげに買って来たお菓子を持って、由利の机までやって来た。
「お帰り」
と、由利は言った。
「これ。——変り映えしないけどな」
「ありがとう」
「お母さん、どうだい」
「ええ、今のところ……。帰りに病院へ寄るわ」
「そうか。お大事にね」
本当なら、二人でおしゃべりしたいところだ。しかし、そんな余裕は今の由利にはない。いや、今の「会議」次第では、それどころではなくなるかもしれない……。
「何の会議なんだ? 聞いてる?」
と、工藤は不思議そうに言った。
由利自身からは話しにくい。しかし、説明する必要もなかった。
課長の三浦を始め、会議に出ていた面々がゾロゾロと席に戻って来たのだ。
「おっと。こっちも席に戻らないとやばいや」
と、工藤は言った。「今夜でも、電話するよ」
「ええ」
と答えながら、由利は苦虫をかみつぶしたような(いつものことだが)三浦の方をチラッと見ている。
三浦は、由利の方へ目も向けなかった。
——何だったのだろう? 見当もつかない。
机の上の電話が鳴った。
「はい。——あ、佐竹さん、どうも。——え?」
佐竹弓子の話に、由利はびっくりした。
「じゃ、姉がリサイタルを? 本当ですか」
「そうなの。Kホール独占! さっき、Kホールへみえてね。少し弾いたのよ」
「そうですか……」
由利はホッとした。「良かったわ。でも——」
気がかりなのは、同居している今《いま》井《い》との間だ。妙にこじれたら、姉はリサイタルどころじゃなくなるだろう。
「一つ、そのみさんの希望があるの」
と、佐竹弓子が言った。
「姉の?」
「最後に、由利さんとデュオをやりたいって」
由利は絶句した。——そこへ、社長秘書の女の子がやって来て、
「社長がお呼び」
と言った。「すぐ来て」
「はい。——あの、佐竹さん、また後で——あの——」
「夜でも連絡するわ。ぜひ実現させたいの、そのみさんのリサイタル」
「ええ、それは……」
「協力して。お願いよ。それじゃ」
忙しい人である。言うだけのことを言って、パッと切ってしまう。
由利は混乱した気分のまま、立ち上った。
え? どこへ行くんだっけ、私?
「社長がお呼び」
そう言われたような——。間違いかしら?
でも、課長は下を向いて、何か書いている。——それに呼びに来たのは社長の秘書だし。
そう。社長に呼ばれているんだわ、私。何の用事か、見当もつかないけど。
由利が歩いて行くと、心配そうに目で追っている工藤と、目が合った。由利は小さく首を振って、社長室へと歩いて行った。
——社長室のドアを叩《たた》くのは、初めてのような気がする。いや、たぶん、初めてだろう。
「入れ」
と、返事があった。
クビかしら。でも、そんなことで、いちいち社長が直接呼んだりするだろうか?
由利は、ちょっと呼吸を整えて、ドアを開けた。