9 虎《とら》と狐《きつね》
「どうも遅くなりまして」
課長の三浦が、ペコペコ頭を下げているのを、由利はしらけた表情で眺めていた。
「おお、来たか。まあ座れ」
その〈部長〉は、ゆうべカラオケのマイクを握ってはなさなかった男とは別人のようだった。
大きなデスク、革ばりの立派な椅《い》子《す》。
傍に美人の秘書を従えて、その貫《かん》禄《ろく》は大変なものだ。もちろん、企業自体、由利の勤め先とは比較にならない大企業なのである。
「君だ、君だ」
と、その部長は由利の方へやって来た。「まあかけてくれ」
「ゆうべは失礼いたしました」
と、由利は頭を下げた。
「いやいや。君こそ、いやなものを押し付けられて気の毒だったな。何しろマイクを持つと人格が変るんでね、私は」
と、笑って、「君は——三《み》田《た》君だったか」
「三浦でございます」
「おお、そうか。君がこの子の上司か」
「はあ。色々至りませんで」
「ま、かけろ。——おい、コーヒーか何か……。何を飲むね?」
「あの——では、コーヒーを」
「うん、コーヒー三つだ」
「はい」
と、スラリとした長身の秘書が立って出て行く。
大きな窓から、明るく日が射《さ》し込んでいる。
「君のとこの社長から、話は聞いたかね」
と、部長は言った。
「あの……よく意味が分りませんでした」
と、由利は正直に言った。
「そうか。あいつは大体回りくどい。同じ話を何回もしたりな。——君は何といった?」
「あの……名前でしょうか」
「そうだ」
「松原です。松原由利と申します」
「松原由利か。——ピアノは誰に習ったんだね」
「は?」
由利は面食らった。「あの——母からです」
「ほう。そうか。しかし大したもんだな。私はよく分らんが、音楽のことは。しかし、あの腕前は相当なもんだ」
「いえ、とんでもない」
と、由利は目を伏せた。
由利は、社長の言いつけでここへ来ている。しかし、何の用事か、実際よく分らないのだった。
分っていることは、ただゆうべのことで、この部長が由利を気に入ったということ。何か由利にさせたいことがあるということ……。それくらいだった。
「中《なか》山《やま》部長は、しかし、多才でいらっしゃいますから」
と、三浦が口を出した。「評判はうかがっております。小《こ》唄《うた》からカラオケまで、ともかくどんなことでも——」
「下らん」
と、中山(初めて由利は〈部長〉の名前を知った)は遮って、「俺《おれ》のは素人芸だ。自分でもそれくらいのことは分っとる」
「はあ、しかし……」
三浦は口ごもって、黙ってしまった。
由利は笑いをかみ殺していた。——三浦の「お世辞」も、通じないと惨めなものだ。
「——コーヒーが来た。まあ飲んでくれ」
中山は、由利の方にだけ目を向けている。三浦が面白くなさそうにしているのが、おかしかった。
「実は、君のとこの社長に話したのはこういうことだ」
と、中山は自分のコーヒーを一口飲んで言った。「今、うちのグループ全体のイメージ戦略を立てている。分るかね」
「はあ、何となく」
「特定の製品の宣伝というのでなく、企業グループ全体のイメージ作りに、何かふさわしい広告を、と考えてたんだ。うちのグループは今、三十五社ある」
「そんなにですか」
由利は正直、びっくりした。
「うん。だからどの一社にも、偏った宣伝は打てない。——分るかね?」
「はい」
「それで頭を悩ませてたんだ。ゆうべ、君がピアノを弾くところを見ていてピンと来た。——ピアノを弾く少女と美しい自然。これがいい、とね」
「はあ……」
「で、君のとこの社長に今朝電話を入れたんだ。うちのイメージ広告に、君を使いたい」
由利は、それこそ呆《ぼう》然《ぜん》として、中山を眺めていた。いや、そのときには「中山」という名前すら、どこかへふっとんでしまいそうだった。
「あの……」
「聞いてなかったのかね、何も」
と、中山は眉《まゆ》をひそめて、「おい、君のとこは何をしとるんだ? あんな簡単な話がどうしてちゃんと伝わらんのだ?」
三浦は、まずいときだけ自分の方へ話が来るので、顔をしかめたが、
「いえ、その——お話の内容について、色々と当方で話し合っておりまして……」
「話し合う? 何をだ?」
「いえ——つまりその……」
「ともかく、今は分るな」
と、中山は由利に言った。
「はあ……。広告に——出るんでしょうか、私が」
「そうだ」
「あの——ポスターとか、新聞広告とかですか」
「検討はこれからだ。しかし、私の考えでは、TVのCFから、新聞、雑誌、あらゆるメディアに使いたいと思っている」
「私は……あの……。こんなことを申し上げては変ですけど、美人でも何でもありません。もっと可《か》愛《わい》い人とかスターとか——」
「いや、手《て》垢《あか》のついたタレントは困る」
と、中山は首を振って、「素人でいいんだ。その方がイメージに合う。しかし、一方で、ちゃんとピアノが弾けてほしい。そうだろう? 格好だけつけても、見る人間にはすぐ分るもんだ。君なら正にうってつけだ」
由利は、そっと自分の膝をつねってみた。——痛かった!
「もちろん、君の了解をとるのが第一だ」
と、中山は言った。「その上で、こっちとしても計画を進めたい」
三浦が、座り直して、
「いや、大変すばらしいご計画で。うちの社員をお使いいただけるというのは、光栄の至りでございまして——」
「誤解するな。私はこの子、個人に話をしてるんだ。おい三浦といったか。ちょっと外で待ってろ」
「はあ?」
「外の受付で待っているか、それとも、帰ってもいいぞ、先に」
三浦の顔がサッと赤くなったが、もちろん〈部長〉に逆らうわけにはいかない。
「では……。受付で待たせていただきます」
と、腰を上げた。
三浦が出て行くと、中山は、
「うるさい奴だ」
と呟いた。「君はあいつの下にいるのか」
「そうです」
「口やかましいだろう」
由利は、何と答えたものか、迷ったが、
「みんな、疲れてるんだと思います」
と言った。
「疲れてる、か。——確かにそうだ」
中山は笑った。「君の気持はどうだ」
「はあ……。思いもかけなかったので。……でも、これはたぶん上からの業務命令になりますね」
「うむ。しかし、いやいややってもらってもこっちも後味が良くない。——君の方で望めば、こっちの社へ引き抜いてもいい」
「引き抜く?」
「それとも、君が独立してもいいじゃないか。あの腕なら、プロでやれる」
とんでもない、と言いかけて、何とかこらえる。
「私は——上手な素人の域を出ていません。とてもプロには……」
「そんなものかね。私にゃ大した腕前に聞こえるが」
と、中山は言った。「で、どうかね、君の気持は。まずやる気があるかどうかだ」
もちろん、とんでもないことだ。断るべきだろう。母が知ったら何と言うか……。
由利は普通のOLとして暮すと決めたのだ。
しかし——母の入院のことを考えると、そう即座に断ることもできかねた。
「あの……」
と、少しためらいながら、「仕事ということでしたら、当然お金は出ませんね」
「金のことなら、相談には応じる。何億ってギャラは出せんが」
「そんな……。母が入院していて、多少お金が入れば、と思ったものですから」
「そうか。——ゆうべ急いで帰ったのは、そのことか?」
「そうです」
「なるほど。——たぶん、君が今の会社にいたら、一銭も出んだろうな。しかし、うちの——たとえば契約社員という扱いで、どうだ? 契約金は上のせするということで。いや、いずれにしても、名のあるタレントを使うより、ずっと安く上るし、フレッシュだ。君の気持一つだ」
——由利は、少し落ちついて来ると、この中山の申し出に、びっくりした。いや、話の中身にはもう驚きずみ(?)である。
中山が、由利の意志を尊重しようとしてくれていることに、びっくりしたのだ。
本当なら、「出ろ」の一言ですむ話である。——ゆうべ、カラオケでしつこく歌い続けていたのとは別人のようだ。
逆に言えば、もちろん向うも何かのメリットがあって、由利を、と考えている。それだけの考えがなければ、とても部長をやってはいられまい。
現実的に考えよう、と思った。
姉がリサイタルをやる。しかし、それは何か月も先のことで、しかも、クラシック音楽のプレイヤーのギャラは、新人のポップス歌手並に安い。それが母の入院費用の内、どれくらいの足しになるか。
由利はいくらか貯金もあるが、それだけでは母の入院が一か月以上になったら、とてももつまい。助けてくれる人もいない。
太田が頑張ってはくれるだろうが、事務所だって、台所は苦しいはずだ。いつまで面倒をみてくれるか。
姉が貯金しているとは考えられない。由利にはよく分っている。
——由利は、ちょっと息をつくと、
「分りました」
と、言った。「お言葉に甘えて……。こちらの契約社員ということにさせていただけますか」
「よし。決りだ」
と、中山はニッコリ笑って肯《うなず》いた。
「で——あの——こんな図《ずう》々《ずう》しいことを申し上げて……」
「構わんよ。お母さんの入院費用ということなら、少し準備金を出そう」
「そうしていただけると……」
「で、いくらにする? 契約金だが」
それこそ、由利には見当もつかない。
「あの……いかほどでも」
と答えて、中山を大笑いさせてしまった。
会社へ戻るタクシーの中で、三浦の機嫌のいいのに、由利は面食らった。
あんな風に部長室を追い出されて、さぞ怒っていると思ったのだ。
「社長もご満悦さ」
と、タクシーの中でタバコをふかしながら言った。「何しろ、あの中山部長は、あの会社でも事実上のトップだ」
「そうなんですか」
「あの会社の社長とか専務は全部創業者の一族だ。どれも大したことないんだよ。あの部長がいなかったら、とっくにどこか人手に渡っていただろうな」
大したことない、なんて「大したことのない」人間が言うと、おかしい、と由利は思った。
「あの部長と特別のつながりができるってのは、大したことなんだ。——社長も感心してくれる」
由利は、少々戸惑ってはいたが、やっと三浦がどうして喜んでいるのか分った。
中山は由利個人を気に入って、使いたいと言っているわけだが、それも三浦にとっては、「自分の功績」の内なのだろう。
もちろん、由利は、今の会社を辞めて、あの会社の契約社員になるなどとは、三浦に話していない。中山が自分から社長へ連絡してくれることになっているのである。
辞める、となったら、ずいぶん気が楽になった。三浦の上機嫌ぶりも、おかしくなる。
しかし——とんでもないことになったものだ。
ピアノを弾くところを、TVとか新聞に出される。——母は怒るだろうし、姉も、そういうことは嫌う人である。
でも、どうせこのまま行ってもプロになれるわけではないのだ。一度だけ出て、それで母の入院のお金が出れば……。
由利は、簡単に考えていたのである。
「あ、そうだ」
と、思わず口に出していた。
「何だ?」
と、三浦が由利を見る。
「いえ——何でもありません」
姉のリサイタルのことでの、佐竹弓子の電話! 忘れていた!
姉と一緒に出ろって? 冗談じゃない! そんなこと、とても……。
「おい、松原」
「はい?」
「何か、甘いもんでも食べてくか。俺はな、一人のときはよくフルーツパフェを食べるんだ」
これが、昼間自分を怒鳴りつけた同じ人間だろうか? 由利は呆《あき》れて、腹も立たなかった……。