11 妬《ねた》み
「多美子、君か」
——不意に、由利は思い出した。
母のマンションにかかって来た電話。男の声で。そして母が入院していると言うと、切ってしまった。
あの後、あまりに色んなことがありすぎて、すっかり忘れていたのである。
どうしてお昼を食べてるときなんかに思い出したんだろう?
「どうかしたの、由利?」
と、沢《さわ》田《だ》千《ち》加《か》子《こ》が心配そうに、「急に黙り込んじゃって」
「あ、ごめん、何でもないの」
と、由利は首を振って、「何かデザート食べようか」
「うん」
OL生活にとって一番楽しいのは、このひとときである。——それも、一人でいるしかないと、辛《つら》いこともある。
由利は、後輩とはいえ、千加子がいて、助かっていた。
「『何だ、君か』ですもんね。頭に来るわよね。そう思わない?」
千加子がボーイフレンドの悪口を続ける。
そうか、と由利は思った。「何だ、君か」という言葉を聞いて、反射的にあの電話を思い出したのだ。
すっかり忘れていたが……あの電話は誰からだったのだろう?
聞き憶《おぼ》えのない声だった。それに、母のことを「多美子」と呼び、「君」という口をきくのは……。
恋人? 由利は、思いもかけない考えに、我ながらびっくりした。
いや、母もまだ四十七だ。恋人がいて、おかしくはない。しかし、もしそんな男ができたら、由利にも何となく分るような気がする。何といっても、姉のそのみと違って、家は出ても、ときどき連絡くらいはとっていたのだから。
太《おお》田《た》。——そう、マネージャーの太田に訊《き》いてみよう。何か分るかもしれない。
「——男なんて、みんな同じね」
と、千加子が恋のベテランらしき口をきいた。
「口じゃ何だかんだカッコつけても、いざ女の方が稼ぎが良かったりすると、機嫌悪くしてさ」
むくれて、デザートに当っている。由利はちょっと笑って、
「可《か》愛《わい》いもんじゃない。その辺を、うまくおだてて、自分のいいように持ってけば?」
千加子が愉快そうに、
「やったことあるの、由利?」
「ないけど」
「だと思った」
二人は一緒に笑った。
「——楽しそうだね」
ことさらに暗い声でくさびでも打ち込もうというのか……。
「課長……」
由利は、三《み》浦《うら》の引きつったような笑顔を見上げた。「ご用ですか」
「お昼休みですよ」
と、千加子が口を挟む。
「分ってる」
三浦は、二人のテーブルのわきに立った。明りを遮っている。
「ま、長いことご苦労さん。——才能のある奴は羨《うらやま》しいね」
由利には分った。あの中《なか》山《やま》という「部長」が、由利を引き抜く話を、社長へ言って来たのだ。
そして三浦もたった今、社長からそれを聞いた。
「今週一杯で君はあの部長と『契約』した身になるわけだ」
と、三浦は肩を揺すって、「しかしね、水くさいじゃないか。辞めるときは、せめて一言、俺《おれ》に先に言っといてもらいたいね」
千加子が、由利を見て、
「辞めるの?」
と、訊いた。
「お話はありましたけど、確定的じゃなかったんです」
と、由利は言いわけした。「それに、いつになるかも、私は聞いていません」
「まあいいさ。成功を祈るよ。——俺を追ん出した後で、中山部長と、そういう話になってたのか」
三浦は唇を歪《ゆが》めて笑うと、「ついでに愛人の契約でも結んだのか」
由利は呆《あき》れた。腹を立てるのも馬鹿らしかった。
しかし、千加子の方がカッとして、
「失礼じゃありませんか。いくら課長でも!」
「おっと、怖い怖い」
と、三浦は笑って、「こちらはコネつき、と来てるからな。こっちの首が飛ばないように用心しないとね」
ブラッと店を出て行く。
「——いやな奴!」
と、千加子はまだ怒っている。「由利、ぶん殴ってやりゃ良かったのに」
由利は黙って肩をすくめた。
あんな人間はいくらもいる。成功したら、とたんに名のり出てくる「恩人」の類《たぐい》である。
「でも、由利、どういうことなの?」
「うん……」
由利が中山からの提案を話して聞かせると、千加子の方が興奮してしまった。
「凄《すご》いじゃない! 人気ピアニストになれるかもよ」
「やめて、そんな気ないわ」
と、由利は言って、「すみません、コーヒー二つ」
と、注文する。
「でも、きっとすてきなCFになるわ。私、絶対見るからね!」
千加子の気持はありがたい。
しかし……。由利は、コーヒーをゆっくりブラックで飲みながら、思った。できることなら、そこそこにうまく行って、CFが二、三本つづいてくれたら。
そしてそれで充分だ。
心配するまでもないだろうが、ピアニストに限らず、結局、人気は実力相応にしかついて来ないものだ。
由利も、ピアニストのはしくれである。コマーシャリズムにのせられて、「商品」として売り出され、実力が伴わずに、やがて消えて行った演奏家を何人も見て来た。
なまじ「人気」が先行すると、それにふさわしい力を身につけるのが、人一倍大変なのだ。もちろんそれを克服して「本物」に育って行く者もいるが、消えて行く数に比べれば取るに足りない。「プロ」であることは厳しいし、「芸術家」であることは、もっと厳しい。
——少し重苦しい気分で会社へ戻った由利の机に、メモがたたんでのせてあった。
〈今夜の都合は? 僕の方は、何とかやりくりした。君もぜひ! 工藤〉
工《く》藤《どう》県《けん》一《いち》の、あまり上《う》手《ま》いとは言いかねる字である。
それを見て、由利は微《ほほ》笑《え》んだ。やっと心が軽くなったような気がした。
「きれいになったのね」
と、松《まつ》原《ばら》宏《ひろ》美《み》はTホールの、小ホールの中へ足を踏み入れて、思わず言った。
ステージにはスタインウェイのグランドと、弦楽奏者のための椅《い》子《す》が四つ。
ヴァイオリンの音が袖《そで》から聞こえていたが、宏美の声を耳にしたのか、ピタリと止って、
「やあ、和《わ》田《だ》さん」
と、今《いま》井《い》が姿を見せた。
「今井君。久しぶり」
と、手にした譜面を振って見せる。「私、今は松原宏美」
「あ、そうか。失礼」
今井は、ずいぶん太って見えた。あまりいい太り方ではない。肌につやが感じられなかった。
「お招き、ありがとう」
と、宏美は言って、空の客席から、ステージへ上った。「役に立たないと思ったら、そう言ってね」
「安心してるよ」
と、今井は笑った。
タオルを腰にぶら下げていて、それで顔を拭《ふ》いている。
「よく汗かくんだ。何しろ太っちゃって」
「どこの部屋へ入門するの?」
「おや、厳しいね」
と、今井は目を見開いて、「ヴァイオリニストはデブが多いんだ。スターンもオイストラフも」
気楽にポンポン言葉を投げ合える。学生のころのような楽しさがある。
「——子供さん、いるんでしょ」
と、今井が訊く。
「ええ。もう三つ。今日はご近所の奥さんに預けて来たわ」
本当なら、母の所へ置いてくるのが、宏美としては一番気楽なのである。それに母の涼《りよう》子《こ》は、宏美がこの仕事を引き受けたので大喜びしている。
実際、何も宏美が言わないのに、
「早《さ》苗《なえ》ちゃん、みてようか?」
と言い出したほどだ。
しかし、肝心の早苗が、「おばあちゃん」を嫌っている。嫌い、と言うときつすぎるかもしれないが、ともかく行きたがらないし、もし連れて行っても、一人で残るとなれば泣き出すだろう、と宏美にも分っていた。
「——後の三人が、まだ来てないんだ。悪いね」
と、今井が言った。
「いいのよ。こっちも久しぶりだから、少し慣れておきたい」
椅子の高さを調節して、宏美はピアノに向った。
「——夕方四時には出たいの。娘を迎えに行く約束だから」
「分った。それまでには充分終るよ」
と、今井は肯《うなず》いた。「もし暇なら、晩飯でも、って誘うところだけどね」
宏美は譜面をめくりながら、
「私は夕食を作らなくちゃいけないの。——今井君、そのみさんと一緒なんですって?」
今井はちょっと目をそらして、
「まあ……。一緒っていうかね……」
と、曖《あい》昧《まい》に首を振った。
「あら、照れてるの?」
宏美が笑うと、
「そうじゃないんだ」
と、今井がため息をついた。「今、ほとんどマンションにいないんだよ。——たまにいても、練習室に閉じこもってる」
「そのみさんが?」
「リサイタルなんだ。久しぶりの」
宏美は今井の方へ向いた。
「リサイタル?」
「そう。で、僕のことなんか、まるで空気と同じさ。目の前にいても、全然気付かないこともあるくらいだ」
「そう……。そのみさんがね」
「お母さんが倒れたろ。入院のお金とか、大変なんだよ、きっと」
と、今井は大きく息をついて、「さ、ドヴォルザークがぐちっぽくなるな、こんなことやってちゃ」
「そうね」
宏美は微笑んだ。「テンポの設定は? 今井君、決めてね。私、他の人たちはよく知らないから」
少し、開いたページから弾いてみる。指が固い。なめらかなレガートが、どうしてもむずかしい。
まあいい。今日が本番というわけではないのだ。その内には手が慣れてくるだろう。
——そのみがリサイタルを開く。
宏美は、今井に同情していた。何といっても、宏美は影崎多美子の弟子で、そのみのことを身近に見て来た。
そのみも母には反抗的だったし、特に男関係では、やたら派手だったが、しかし、いざというときの集中力は凄いものがある。母親の血を受け継いでいるのだ。
特に、久しくなかったリサイタル。母親が倒れた後である。そのみがおそらく命がけでいることを、宏美は知っていた。
今井は、リサイタルが終るまで、相手にされないだろう。いや、今一緒にいるマンションから、叩《たた》き出されるかもしれない。
そのみは、それぐらいのことをやりかねないのである。
「——そうだ」
と、今井が言った。「リサイタルでね、由利君とデュオをやるらしいよ」
「まあ。由利さんと?——よく由利さんがやる気になったわね」
「きっと、姉に無理やりやらされてるのさ。ときどき、練習に来てるらしい」
今井は、ヴァイオリンの弦を少し弾いて、「こんなもんかな。——時間がもったいない。少しやってようか。このホール、内装を変えて、よく響くようになったろ?」
「ええ。いい感じだわ。でも——エアコンの音?」
かすかな雑音だが、耳につく。
「うん。言っとくよ。何とかするだろ」
と、今井は肯いた。「じゃあ、どこからにする?」
「スケルツォから。——いい?」
宏美は譜面をめくった。
何かが宏美の中で騒いでいる。何か、目覚めようとするものがあった。
そのみがリサイタルを開く。——それに比べれば、この室内楽の会など、まるで注目を集めることはないだろうが……。
しかし、そのみに負けられない。そう、負けやしない!
宏美の手が、力強く鍵《けん》盤《ばん》を捉《とら》えた。