13 幻影
「はい、お疲れさん」
カメラマンが投げるように言って、「もうおしまい。立っていいよ」
分ってるけど……。由利は、立たないのではなかった。立てないのだった。足がしびれて。
「いたた……」
と、顔をしかめて立ち上っても、歩けない!
スタジオのコンクリートの床にカーペットを敷いてあるが、ともかく下は固く、冷たい。そこに横座りになって、子供のオモチャのピアノを叩いているところ。
カメラマンの狙《ねら》いは、「自然な表情」である。
「——大変だったでしょ」
と、まだ若い(せいぜい由利と同じくらいだろう)カメラマンがやって来て、由利の腰をポンと叩いた。
「疲れるんですね、写真って」
と、由利は素直な意見を述べた。
「慣れてないモデルさんのときはね、くたびれさせるんです。疲れて、気どってなんかいられない。そこでやっといい表情になるんです」
「はあ……」
その点なら、もともと気どっている余裕なんかない。
由利は、気どったつもりではなかった。ただガチガチにあがって、緊張していたのだ。
「良かったよ」
と、由利に声をかけて来たのは、佐《さ》田《だ》裕《ひろ》士《し》という男だった。
「そうですか」
と、由利は息をついて、「すっかり汗かいちゃった」
佐田は二十七、八だろうか、スラリとして、一見して普通のサラリーマンでないことが分る。「芸術家」風の雰囲気を身につけていた。
今はちゃんと上着を着て、ネクタイもしめているが、それでも人とは違った、独特の印象を与えた。——悪く言えばキザだが、人は好《よ》さそうである。
「今日はこんなところにしとこう」
と、佐田は言った。「良かったら、夕食でも食べない?」
「あ……。私、ピアノの練習が——。三十分くらいでしたら」
「いいですよ。じゃ、この近くで。——おい、どこか見付けてくれ」
佐田はいつも二、三人の「助手」を連れて歩いている。
「じゃ、着がえます」
と、由利は言って、スタイリストの女性と一緒にスタジオの更衣室に入った。
「——ああ、くたびれた」
と、ドレスを脱ぐ。「慣れない格好、するもんじゃないですね」
スタイリストの女性が、由利の顔のメークを落としてくれる。中年の女性だが、てきぱきとして、気持のいい、「プロ」だった。
「佐田さんには気を付けて」
と、スタイリストが言った。
「え?」
「女の子に手が早くて有名なのよ」
「そう……。でも、私は別に……」
「充分、狙われる可能性はあるわよ」
そうだろうか?——由利は姿見に自分を映して、首をかしげた。
足も短いし、スタイルも悪い。ちっとも美人じゃないし……。美人というなら、そのみの方がずっと美人である。
「あの佐田さんって、何してる人なんですか?」
と、由利は当人には訊きにくいことを、訊いてみた。
「何ていうのかしら。本人は〈コーディネーター〉と称してるけど、要するにコマーシャルに関することを中心に、企画、監督、プロモーション、何でもやるの。新人のタレントを売り出すとか、何かステージで上演するときに、予《あらかじ》め話題作りを色々やるとか。——〈仕掛け人〉って言ってるけどね、私たちは」
「仕掛け人……。へえ、色んな仕事があるんですね」
と、由利は感心してしまった。
「結構、その方じゃ有名なの。あの人が手がけた新人はね、たいてい伸びるのよ。だから、結構なお金をとるけど、引っ張りだこらしいわ」
「よく私のことなんか……」
「よほど中山さんから出してもらってるんじゃないの」
と、スタイリストの女性は、すっかり打ちとけた口調になって言った。
「でも、私、タレントになるわけでもないのに」
「いつの間にか、なってるかもしれないわよ」
——由利は、その言葉が気にかかった。
中山は、どういうつもりでいるのだろう? 一度、はっきりさせておかなくては、と由利は自分の服を着て、ホッと息をつきながら、考えていた……。
「——北海道?」
と、由利は言った。
細い道を入った所に、小さなパスタの店があって、そこで佐田とスパゲティを食べていたのである。
「北海道へ行って、何するんですか」
と、由利は言った。
「CFどりさ」
佐田は淡々と言った。「中山さんからは、ヨーロッパでもいいと言われてる。しかし、そんな必要はないと思う。北海道の大草原だ。そのイメージでいきたい」
イメージねえ……。由利は、こういう人たちの発想には、とてもついて行けない。
「企業グループ全体のイメージ広告だからね。どれか一つを連想させるのはうまくないんだ。分るだろ?」
「ええ、まあ……」
「大草原。その真中にグランドピアノを置いて、君がそれを弾いている。風がそよいで、草が揺れる。——そこへキタキツネの親子がやって来て、ピアノに聞き入る。どうだい?」
「野っ原の真中でピアノ弾くんですか?」
と、由利は呆《あつ》気《け》にとられていた。
「そう。君がやればぴったりだと思うよ」
「キタキツネって……。そううまく来ますか?」
「もちろん、連れて来るのさ」
「ピアノ、聞いてますかね」
「そう見えればいいんだ。任せてくれ。こっちはプロを揃《そろ》えるよ」
と、佐田は笑った。
「はあ……」
気が重かった。——姉や母に何と言われるか。
いや、姉はからかって終りだろうが、母の方はそうはいくまい。
この二、三日、母は意識が戻って来ていた。まだ話はできないが、由利の言葉に肯いたりはする。——由利もホッとしていた。
しかし……母が本当にあの西尾という男と結婚しているのかどうか、それを母に訊くには、まだ早すぎる。いや、あの西尾が嘘《うそ》をつく理由はないだろうから、おそらく事実だろう。
由利は、そのみに何も言っていなかった。——母が誰とどうしようと、表向きは何も言わないに違いないが、その実、姉が「父と母」のことにひどく敏感なのを、由利は知っていた。
むしろその点では、由利の方が割り切って考えられるだろう。
西尾が、母の入院の費用をみると言っているのだから、本当なら由利がこんなCFの仕事をしなくてはならないわけではないのだが、姉に打ち明けられないのと、それに中山との約束もある。約束を破ることは、嫌いだった。
これきりで終りということになるだろうから、ともかくこの何か月かだけ、付合っておけば……。由利はそう思っていたのである。
「——来週、北海道へ行って、下見してくる。いい場所が見付かったら、できるだけ早くとりたい」
と、佐田が分厚い手帳を開けて言った。
「はい」
素直に肯いておく。由利にしても、早いところ片付けてしまいたいのだ。姉との練習も日に日に真剣なものになって来ている。由利も一日に何時間か、弾いておかないと、姉とのデュオについて行けない。
西尾のことは、リサイタルが終ってから打ち明けよう、と思った。
「——おいしかった」
と、由利はナプキンで口を拭《ぬぐ》って、「あの、お代は」
「心配しないで」
佐田は笑って、「これくらいで、君に恩は売らないよ」
由利はちょっと笑った。佐田が、そう「女たらし」とも見えなかった……。
いきなりパッとドアが開いて、今井が出て来た。
由利は、姉のマンションに来て、玄関のチャイムを鳴らそうとしていたので、びっくりして、今井とぶつからないように、あわててよけなくてはならなかった。
「——由利君か」
今井の顔はこわばっていた。
「あの……どうしたんですか」
由利は訊いたが、今井が左手にヴァイオリン、右手にスーツケースをさげているのを見れば、答えを聞くまでもない。
「姉さんに訊けよ」
と、今井は肩をすくめて、「じゃ、頑張って」
「どうも——」
今井がエレベーターの方へ大《おお》股《また》に歩いて行く。
「——お姉さん?」
上って、声をかけると、
「由利?」
と、声がした。「鍵《かぎ》、かけて」
「うん。——今井さん、出てったの?」
「追い出したの」
と、そのみはあっさり言った。
「どうしたのよ?」
「どうもしないわ。邪魔だから、しばらくよそへ行っててくれ、って言ったら、勝手に怒って出てっちゃった。——ま、仕方ないわよね」
そのみは、ソファに寝そべって、譜面を広げていた。
「どっちが勝手?」
と、由利はため息をついた。「気の毒じゃない。行く所あるの?」
「子供じゃないんだもの。自分で捜すわよ」
そのみは、欠伸《あくび》をした。「ああ、譜読みって面倒ね」
どんなピアニストも、あらゆるレパートリーを暗記しているわけではない。一度弾いても、しばらく間が空くと、改めて楽譜を見直さないと、細かい部分で間違って記憶していることもある。
その点、ピアノは音符の数が多くて、大変なのである。
「それより、新人タレントさんの方はどうなの?」
「やめてよ。——北海道だって」
「北海道?」
そのみは、由利の話を聞いて笑い転げた。
「——草原の真中で何を弾くの? ショパンが聞いたら目を回すかもね」
「笑わないで。契約した以上、仕方ないんだもの」
と、由利はそのみをにらんだ。
「ま、音楽好きのキタキツネが見付かるといいわね」
「けとばしていい?」
「練習しよう!」
パッと立ち上って、そのみは練習用の防音室へと入って行った。由利はため息をついたが——姉がこんなに活気に満ちて、上機嫌でいるのを見たのは、久しぶりだと思うと、いつまでも腹を立てているわけにもいかなかったのである。
やはり姉は根っからのピアニストなのだ。
「早くおいで」
そのみの呼びかけに、
「一休みさせてよ」
と文句を言いつつ、由利は立ち上った。
玄関のチャイムが鳴って、宏美はドキッとした。
早苗がやっと寝入ったところである。——目を覚ましては、と急いで玄関へ行ったが……。
誰だろう? 松原は出張で、明日の夜まで戻らない。それとも、予定より早く戻って来たのだろうか?
「どなた?」
と、ドア越しに声をかける。
「あの……今井です」
おずおずとした声が聞こえた。
宏美は急いでドアを開けた。
「今井君……。どうしたの?」
と言って、「ともかく、上って」
「悪いね、こんな時間に」
「そう遅くないけど……。荷物?」
今井が、ヴァイオリンとスーツケースを上り口に置く。
宏美には、訊かなくても分った。
「さ、そのスリッパ、はいて」
「うん」
「静かにね。——子供が眠ったとこなの」
「ああ」
宏美はそっと襖《ふすま》を閉めた。
今井は、ソファに座って、しばらく黙っていたが、
「すぐ失礼するから——」
と言いかけたとたん、お腹《なか》がグーッと鳴って、真赤になる。
宏美はふき出してしまった。
「お腹空《す》いてるのね。何かありあわせで良ければ」
「何でもいい。——悪いね」
今井は、穴でもあったら入りたいという様子だが、これで重苦しさがなくなったようでもあった。
——宏美が残ったご飯でチャーハンを作ると、今井はアッという間に平らげてしまった。
「——足りないんじゃない?」
「いや、差し当りは大丈夫」
と、今井は大きく息をついた。「聞かなかったけど……ご主人は?」
「今日は出張。明日の夜、帰るわ」
と、宏美はお茶を飲みながら、「そのみさんと喧嘩?」
「叩き出された、って方が近いね」
「あらあら」
と、宏美は笑った。「ごめんなさい。笑いごとじゃないわよね」
「どうせ長くは続かない。分っていたんだ」
今井は、一気にお茶を飲み干して、「今、彼女の頭はリサイタルのことで一杯だよ」
宏美にも、そのみの気持は分った。あの影《かげ》崎《さき》多《た》美《み》子《こ》ほどではないにしても、そのみもしばらくリサイタルを開いていない。
カムバックのプレッシャーは、他の人間には想像もつかないほど大きい。今の宏美も、同じような気持だった。
「——今度の室内楽、何としても成功させなきゃ」
と、今井が言った。「君の力が必要だ。頼りにしてるよ」
「そのみさんを見返すため?」
「いや……。まあ、それもあるけど……。彼女も、僕が一線で仕事をしてりゃ、何も言わなかったと思うんだ。僕自身、自分のこんな暮しにいやけがさしてたからね」
今井は今井で、自分の「復活」を賭《か》けたコンサートなのだ。
宏美は、あくまで「主婦の合間の副業」ということにしてある。今井もそう思っているだろう。
だが、そうではなかった。そのみのリサイタル。今井の悔しさ。——そのどれもが、宏美自身のことでもあった。
宏美ははっきりと、自分の「カムバック」を、賭ける気になっていた。
「——もう行くよ。ごちそうさま」
と、今井は立ち上った。
「泊る所、あるの?」
と、宏美は訊いていた。
「誰か、大学のときの友だちで泊めてくれる奴がいるだろ」
と、今井が肩をすくめる。
「良かったら泊って行って」
と、宏美が言うと、今井は面食らって、
「しかし……まずいだろ、そんなの」
と、口ごもった。
「心配しないで。毛布貸すから、ソファで寝てもらう」
「いいの?」
「ええ。——大丈夫よ。友だちでしょ」
今井は、ちょっとの間、宏美を見ていた。
「そうだね」
——宏美は、今井の食べた皿を片付けた。
何でもないとは言っても、こんなことを、夫には言えない。
宏美は、「秘密」を抱え込んだのだ。——それは、やがて宏美の中に根を張って行くことになる……。