23 喝《かつ》采《さい》
「——もう六時だ」
と、マネージャーの太田が言った。「告示を出そうか? 〈急病のため〉? それしかないよ」
「悪いわね」
と、佐竹弓子が言った。
弓子とて、辞表をポケットに入れている。由利は、ドレスを着て、一緒に楽屋に座っていた。——三人とも、ほとんど口をきかない。
「いいダイエットさ」
と、太田が笑って見せた。
「すみません。私のせいで」
と、由利がうなだれる。
「由利さんのせいじゃない。謝ることなんかないよ」
と、太田は腹立たしげに、「由利さんを利用しようとした奴らが許せない! ふざけやがって」
「そうよ」
と、弓子が肯く。「気にしないで、由利さん。もし、そのみさんが来なかったら、辞表を出すけど、私はそのみさんを恨んだりしないわ。そのみさんも、私も、自分の信じていることを貫き通しただけ」
「佐竹さん……」
「でも、由利さん、大丈夫なの? 契約の方とか——」
「中山さんって方に話して、分ってもらってます。これ以上、仕事をつづける気のないことも、了解してくれました」
「それならいいけど……」
太田がもう一度時計を見て、
「畜生! せっかくソールドアウトなのに! 滅多にないんだぜ、この世界じゃ」
「元気出して。今夜付合うわよ」
と、弓子が太田の肩を叩く。
「君に慰められちゃね。——じゃ、もう客が来始めるよ。僕がホール前で説明する」
「私が貼紙を出すわ」
由利は、太田と弓子の二人に何と言っていいか分らなかった。自分にもっと力があれば、代ってリサイタルをやってもいい。しかし、今の由利では、それこそ「素人芸」を聞かせることになってしまう。
「じゃ、行こう」
と、太田がドアを開けて——。
「どうも」
と、松原が言った。
「お父さん。——どうしたの?」
由利は、父の後から、コートを着た母が入って来るのを見て、目を疑った。
「影崎さん——」
「その節はご迷惑かけて」
「いいえ」
弓子は、夢でも見ているように、「あの……どうしてここへ?」
「由利じゃ、そのみの代りはつとまりませんよ」
多美子がコートを脱ぐ。下は、あの日着ていたロングドレスだった。「そのみが来ないときは、私が弾きます。お客様にそう言って」
と、太田へ声をかける。
「はあ。しかし——」
「お母さん! 無茶よ。お医者さんは——」
「もちろん、こっそり脱《ぬ》け出して来た」
と、松原が言った。「急用だ、って呼ばれて。仰天したよ、全く」
「影崎さん。お気持は嬉しいですけど。やめて下さい」
と、弓子が言った。「お体が大切です」
「いいえ」
と、多美子は首を振って、「病院のベッドで死にたくないの。ステージで死ねば、一番だわ」
「お母さん——」
「大丈夫よ。今日は調子がいいの」
と、多美子は笑顔で、「太田さん。早くそう言って来て。そのみの体調が良くないので、万一のときは私が代りに弾くって」
「はあ」
ためらっている太田へ、
「言う通りにして下さい」
と、松原が言った。「どうせ、言っても、聞きゃしません」
「分りました」
太田が急いで出て行く。
「由利、プーランクはちゃんと弾けるの?」
「うん」
「じゃ、あんたに合せるわ」
多美子は、ソファに座った。「あと……四十分ね」
弓子が出て行くと、由利は首を振って、
「本当にいいの?」
「心配しないで」
由利は、もう言わないことにした。母が自分で決めたことなのだ。もしこれで倒れても、仕方ない。
「——お母さん。西尾さんは、呼ばなくていいの?」
多美子は、ちょっと目を見開いて、
「会ったの?」
「うん。——結婚してるの?」
「弾《はず》みでね」
と、多美子は言って、「母さんも気が弱くなることがあるのよ」
「ねえ。この前倒れたとき、お母さん、『インペリアル』って言ったんですって? どうして?」
多美子が、不思議な目で由利を見て、
「私が? そう言ったの?」
「うん。太田さんがそう言ってた」
「そう……。自分じゃ憶えていないけど」
と、肯く。
「何のことなの?」
「インペリアル……。ずっと昔のことよ」
と、多美子は言った。
——時間が流れた。
一番落ちついているのは、多美子のようだった。
「もうお客が入ってるわね」
「見て来るか?」
と、松原が言った。
そのとき、楽屋のドアが開いた。
由利は立ち上った。
「お姉さん!」
そのみは、真直ぐに母の方へ歩いて行くと、
「馬鹿なことして! 死ぬわよ!」
と、怒鳴るように言った。
「そうね。でも分ってたわ。絶対にあんたが来るってね」
多美子は悠然と肯いて言った。
「ひどい! 私をおびき出したのね」
「そう。でも、近くにいなきゃ、それもできないでしょ。あんたは必ずここへ来ると思ったの」
「出る気なかったのよ」
と、そのみはそっぽを向いた。
「お姉さん! 私、何も知らなかったの。本当よ」
そのみは、固い表情で座り込んだ。
「——分ってるのよ」
と、多美子は言った。「そうでしょ、そのみ? 由利のことを、あんたはよく知ってるもの」
「お母さん——」
「由利は黙ってて。そのみはね、怖かっただけ。そうでしょう。——そこへ、その話が飛び込んで来たから、いい口実になった。逃げ出すためのね」
そのみは、じっと床へ目を落としている。
「——ブランクの後のリサイタル。その怖さは誰にも分らない。そうでしょ?」
多美子は、そのみの肩に手をかけた。「私も、何年も出なかったことがある。インペリアル、ね」
と、息をついて、
「ウィーンで、もう八年前かしら。私はベートーヴェンのコンチェルトを弾いた。ホテル・インペリアルで、ある男性から声をかけられたわ。——私は、心細かった。どうせひどい批評が出ることは分っていたし、その人の言葉が嬉しくて……。私は恋に落ちた。いい年《と》齢《し》でね」
と、ちょっと笑った。「その人は、知人の大使の前で、私に弾いてくれと言ったわ。ある大使館で、プライベートなリサイタル。——私は嬉しかった。その人のために弾けることで、宙を飛んでいるみたいだったわ」
多美子は、遠くを見るようにして、つづけた。
「その大使館の広間に、数十人の人が集まって、私はピアノに向った。——ベーゼンドルファーのインペリアルだった」
由利は、じっと母の言葉に耳を傾けていた。
「インペリアルは、私の憧《あこが》れのピアノだったわ。いつか、自分でも手に入れ、コンサートでも使いたい、と……。まだ日本のコンサートホールには、あまり入っていなかった。私は、その人が一番前の列にいるのを知っていたし、たぶん、我知らず、あがっていたんでしょう。——あんたたちも知ってるでしょうけど、インペリアルは、普通のグランドより一オクターブ下までのびている。今はその一オクターブの鍵《けん》は、黒く塗ってあるけど、そのころのインペリアルは、その分だけふたがついて、開閉するようになっていたの。そのふたが、たまたま開いていた。私はそれに気付かず——。錯覚して、いきなり一オクターブ低く弾き出してしまったの」
そのみが、多美子を見た。
「——聞いている人たちから笑い声が上ったわ。たぶんいつもなら……。そう、別に大したことじゃないんだから、こっちも笑って弾き直せばすむのに。私はカッとなって——そのまま立ってホールを飛び出してしまった……」
多美子は、深く息をついて、「その人は、私を慰めてくれたわ。むしろ自分の方が無理なことを頼んだと言って。でも、私は自分が許せなかった。次の日、その人に何も言わずに、ウィーンを発《た》ったの」
「そんなことが……」
と、由利は言った。「それが西尾さんね」
「ええ。——カムバックのリサイタルを控えて、苛《いら》立《だ》ってたとき、偶然コンサートホールで会って……。もうあんたたちもいないし、意地を張ることもない、と思って、プロポーズを受けたわ」
「良かったじゃないの」
「そうね。——でも、西尾に会って、また八年前のことを思い出していたんでしょう。倒れたとき、またしくじった、と思って、つい、『インペリアル』と呟いたんでしょうね」
多美子は、そのみの肩を抱いた。「失敗しても、怖がることはないわ。必ず、それは乗り越えられるものよ。そのみ、あんたにはその力がある」
そのみは、母を見て、微《ほほ》笑《え》んだ。
「少なくとも、オクターブは間違えないわ」
「言ったわね」
多美子は笑って、「私もね、今度カムバックするときは、インペリアルを弾くわ」
と言った。
ドアが開いて、
「どうですか」
と、佐竹弓子が入って来た。「——そのみさん!」
「心配かけて、ごめんなさい」
と、そのみは立ち上った。「ドレスを何か。それから、母を病院へ連れ戻して」
「僕が送って行く」
と、松原が言った。「そのみ、宏美も聞きに来てる。しっかりな」
「うん」
そのみが肯く。弓子は駆け出して行った。
「お母さん」
と、由利は母親の腕をとって、「おとなしく寝てるのよ」
「ここまで来たのよ。聞いていってもいいじゃないの」
「だめ。お母さんの具合が悪くなったら、西尾さんに恨まれるでしょ」
「分ったわよ」
と、多美子は肩をすくめて、「親孝行なことね」
「そうよ。後で顔を出すから」
由利は、母親を松原に託して、送り出した。
「——汗をかくよ」
太田が、袖でそっと言った。
「でも、凄《すご》いわ、そのみさん」
と、弓子が微笑む。
「後はデュオか。——何とか無事に終りそうだね」
「そうね」
「さっきの約束は?」
「約束?」
「今夜、付合ってくれるって」
「あれは事情が——」
と言いかけて、弓子は笑った。「いいわ。その代り、夜食はおごってよ」
「やった!」
と、太田はニヤッと笑った。
——由利は、袖の椅子にかけて、そのみの演奏を聞いていた。
自分の出番が近付くことは、それほど気にならない。今、由利の胸を一杯にしているものは、目をつぶれば「母の音」としか思えない、姉の指から生み出される音たちであり、その母と姉を持ったことへの誇りだった。
曲が終る。——拍手がホールを揺がした。
「凄かったよ!」
と、由利が、戻って来たそのみへ声をかける。
そのみはニコリともせずに、
「何、呑《のん》気《き》なこと言ってるの。次はあんたも弾くのよ!」
と一言。
もう一度ステージへ出て行く姉を見送って、
「本当にお母さんそっくり」
と、由利は口を尖《とが》らしたのだった。