10 知香のK《ノツク》 O《アウト》
「——そろそろ行く?」
と、知香がさり気なく言って、椅《い》子《す》をがたつかせて立ち上った。
さすがに泥棒の親分というだけのことはある、と良二は感心していた。窓際に座った女が、まさか知香や良二を刺しに来たってわけじゃあるまいが、それにしても、まるで何もなかったような顔で平然と立ち上ってレジの方へ歩き出すなんてことは、なかなかできるものじゃない。
良二も和也も、ついチラチラと女の方へ目をやってしまう。
知香に続いて、良二と和也もレジの方へ歩いて行ったが——。
「あら、安部先生の車だわ」
と、知香が言った。
独身のプレイボーイというイメージにふさわしく、外車——それも真赤なスポーツタイプに乗っている。その赤い外車が、裏門を入って行くのが、店のガラス扉越しに見えていた。
「あの車! 学生だって、あんなダサイのに乗ったりしないぜ」
と、和也が少々負け惜しみ気味に言った。
すると、いきなりあの窓際の席にいた女が立ち上って、ほとんど走るような勢いで、良二と和也を突き飛ばすようにしながら、店を飛び出して行く。レジの女の子があわてて、
「ちょっと、お代を——」
と、叫んだ。
「小泉君! あの人の分も、払っといて!」
と、知香が言った。「来て!」
良二の手をつかんで引張る。良二はあやうく前のめりに転びそうになった。
「おい——」
呆《あつ》気《け》に取られて、和也は二人を見送っていたが……。渋々財布を取り出したのだった。
「——どうしたんだよ!」
「いいから!」
知香と良二の二人は、店を飛び出して行った黒いコートの女を追って、走った。女は裏門から中へ駆け込んだ。
「駐車場の方だわ」
と、知香が叫ぶように、「急いで!」
そうか。——あの女、安部の車を追いかけているのだ。
入ってすぐ駐車場がある。先生のスペースは決まっているから、いつも同じ所に停めているのだ。赤いスポーツカーは、今、何台か先に停められた車の間を縫って、奥の方の専用スペースへと入って行く。
女が、足を止めて、近くに停めてあった車の陰に身を隠した。ハアハア息を切らしているのが見える。
「こっち!」
知香は、良二を引張って、駐車場の手前で足を緩《ゆる》めると、「後ろへ回るのよ」
「ど、どうすんのさ?」
「止めなきゃ」
「何を?」
「あの女《ひと》、安部先生を刺す気よ」
「でも——」
「しっ!」
スポーツカーが停って、安部がいつもながらのダンディないでたちで現われる。女が、右手にキラリと光る物を握っていた。
「危ないよ」
と、良二が言った。
「でも、あの人、何かわけがありそうよ」
そりゃ、人を刺そうってんだからわけはあるだろう。しかし……。それを止めてこっちが刺されたら、困るんじゃない?
良二は至って常識的にそう考えたのである。
だが、その女が止められるかどうかはともかく、知香を止めることはできない、と良二は悟っていた。何しろ泥棒の親分なのだ。
しかし、どうやって止めようというのだろう?
まさか後ろからポンポンと肩を叩《たた》いて、
「ちょっと、やめた方がいいんじゃない?」
とか言って……。
「そうね。じゃあ、やーめた!」
てな具合に行けばいいが、そううまくは行かないだろうし……。
安部が、アタッシュケースを下げて、その女の隠れている車の前へと近付いて来る。腕時計など見て、女のことには全く気付いていないらしい。あの腕時計は、確かジャガー・ルクルトだったっけ。
と、知香がその女の方へ、頭を低くしたまま近付いて行って、肩をポンと叩いたのである。良二は仰天した。——危ないじゃないか!
女がギョッと振り向く。知香が右手の拳《こぶし》を固めると、ガン、と一発、女の顎《あご》に叩きつけた。女がアッサリと地面に崩れるように倒れる。
呆気に取られた良二がポカンとして眺めていると、知香はピョンと立ち上って、車の前へ出て行った。
「あら、先生、おはようございます!」
「何だ、若林君じゃないか」
と、安部がとたんに笑顔になった。「早いじゃないか、今日は」
「先生、今度のレポートなんですけど、何かいい参考書があったら教えて下さいよ。ね?」
良二は、知香が安部と一緒に歩きながら、倒れている女が安部の目に入らないように、巧みに隠しているのに気付いた。
そのまま少し先まで歩いて行った知香は、
「ありがとう、先生! 優しいから大好きよ!」
と、はしゃいだ声をあげてから、「じゃ、後で!」
と、手を振って別れる。
安部が遠ざかって見えなくなると、知香は小走りに戻って来た。
「——おい、ドキドキさせないでくれよ」
と、良二は言った。
「他に手がなかったんだもの。——ああ痛い」
と、女を殴った右手を振る。「ちょっとすりむいちゃった」
「どれ?」
良二は知香の手を取って、すりむいた傷をなめてやったりして……。そこへ、
「おい!」
と、和也の声が割って入った。「人に金を払わせといて、何だよ!」
女が、低く呻《うめ》き声を上げて、身動きした。
「気が付いたみたいだな」
と、良二が言った。
「用心しろよ。かみつかれるぞ」
と、和也が恐る恐る言って覗《のぞ》き込む。
「犬じゃあるまいし。いいから、小泉君は、誰か来ないか、見張ってて」
と、知香が言った。
「はいはい」
——何となく、知香が指図すると、従わなきゃならないようなムードになるのだ。やはり、これが貫禄というものかもしれない。
ここは、ある教授の、研究室。今日、休講という教授を調べて、その部屋を拝借しているというわけである。
大して広い部屋ではないが、一応古ぼけたソファなども置いてあり、その上に、例の女が寝かされていた。
目を開くと、女は不思議そうに、知香と良二を見上げた。
「ごめんなさい。殴ったりして」
と、知香が言って、水で濡らして来たハンカチを、女の顎に当ててやる。
女は、ちょっと顔をしかめて、それから、知香を呆《あき》れたように眺め、
「あなたが殴ったの?」
と、訊《き》いた。
「そう」
「ボクシングでもやってるの」
それには知香も返事のしようがなかった。
「——いいわ。ともかく、やり損なったのね」
と、女は、ゆっくりソファに起き上った。「警察を呼ばないの?」
「呼んでほしいなら呼ぶわ。でも、実際に人を刺したわけじゃないんだし」
女は、目をパチクリさせて、知香を見ていたが、やがて髪をかき上げると、
「学生さん?」
「そう」
「じゃ、あいつの教え子か」
「あいつって、安部先生? そう、安部先生の講義を取ってるわ」
「で、あんたもあいつの『お手つき』なの?」
「古いわね。大名や将軍様じゃあるまいし」
と、知香は苦笑した。「安部先生はこのこと知らないわ」
「そう。——そうね。あいつなら、警察へ突き出すに決まってるもんね」
女はそう言って、深々と息を吐き出した。
——喫茶店で見た時と比べ、こうして近くで見ると、少なくとも良二の目には二四、五歳に見える。ただ、何だかひどくやつれて、疲れ切っている感じだ。
「良二君」
と、知香が言った。「ポット、もうお湯沸いてる? じゃ、そこの棚を開けて、コーヒー作ってよ」
「勝手に使っちゃっていいのかい?」
「分りゃしないわよ」
それもそうか、というわけで、良二は、インスタントコーヒーをドカドカカップへ入れて(自分のじゃないわけだから)、コーヒーを作った。
「ミルクと砂糖は?」
良二が訊くと、女は、やけ気味に肩をすくめて、
「ブラックで結構」
と、言った。
よく見ると、なかなか整った顔立ちで、美人といっても良さそうだ。ただ、髪も肌も、ろくに手入れをしていない感じなのである。
女がゆっくりコーヒーを半分ほど飲むと、知香は口を開いた。
「どうして安部先生を刺そうなんてしたの?」
「あんたみたいな子供にゃわからないわよ」
「子供ったって、あなただって二四——ぐらいでしょ」
「私ね、二五。既婚で、子供までいるんだから」
「へえ。私、両親亡くして、現在この人と同《どう》棲《せい》中よ」
変なところで張り合っている。
女は、急に、いかにもおかしそうに笑い出した。何だかふっ切れたという感じの、カラッとした笑いだ。
「——面白い子ね。私、中《なか》沢《ざわ》厚《あつ》子《こ》っていうの」
「若林知香よ。これは久保山良二君」
「止めてくれてありがとう。あんな奴のために刑務所へ入るなんて、考えてみたら、馬鹿らしい」
「そうよ」
「でも、私、あいつのために、家庭も何も、全部を失ったのよ……」
と、中沢厚子は言って、顔を伏せた……。