11 学部長の椅子
「許せない!」
と、良二は言った。「安部の奴《やつ》!」
「そうだ」
と、和也も肯《うなず》いて、「奴に天《てん》誅《ちゆう》を加えてやろう」
「時代劇みたいな言い方、やめなさいよ」
意外に、女である知香の方がさめている。
「君、頭に来ないのか?」
と、良二は不思議そうに訊いた。
三人は、初めの講義に出るべく、構内を歩いているところだった。
安部を刺そうとして知香に止められた女、中沢厚子は、胸の内を三人に語り尽くすと、大《だい》分《ぶ》気が楽になった様子で、裏門から帰って行ったのだった。
「そりゃ、私だって、責任の大半は安部先生の方にあると思うわよ」
と、知香が言った。「でもね、一方の話だけでは分らないわ。男と女の仲っていうのは複雑だから」
「そんなもんかな」
と、良二は首をかしげる。
「もちろん、私だって、詳しいわけじゃないのよ」
と、知香は念のために言った。「ただね、振られた側にとってみれば、ああ言いたくなるのは当然だし、それに、あの女の人だって、まだ安部先生に未練があるのよ」
「刺そうとしたのに?」
「未練がなきゃ、そんなことまでしないと思うわ。——私たちと話して、大分ふっ切れたみたいだったけどね」
「まあ、安部があの女を引っかけた、ってのは事実だろうけどな」
と、和也が言って、首をかしげる。「安部なんて、どこがいいんだ?」
「ともかく」
と、知香は息をついて、「安部先生のことは放っておきましょ。これ以上何もなければね。——他人の恋愛関係に口を出すもんじゃないわ」
「それはそうだな」
と、良二も、肯いて、「僕らのことを、まず心配しなきゃ」
「そうよ!」
知香がぐっと自分の腕を良二の腕に絡《から》める。
「俺はどうなるんだ」
と、和也がオーバーに天を仰いで嘆いた。「——そうだ。なあ、良二」
「何だ?」
「その、ゆうべ耳にしたっていう、『先生を殺そう』って話」
「うん、それが?」
「その先生ってのが安部のことだったら、ピッタリなのにな」
「それもそうだな」
と、良二は言って、笑った。
しかし——知香は笑っていなかった。
何かを考え込んでいるように、眉《まゆ》を寄せ、黙り込んでしまっていた……。
昼休み、三人は学生食堂で一緒に昼食を取っていた。
「——見ろよ」
と、和也が言った。「安部が来たぜ。このテーブルに来るんじゃないか」
「いやだな」
と、良二は顔をしかめる。「ニコニコしてられないよ」
「いや……大丈夫だ。一人で座った」
「助かった」
良二はホッとした。「珍しいな。いつも君のそばに来たがるのに」
「気が付かなかったのかも」
と、知香はスパゲッティを食べながら、「ここのスパゲッティ、ゆですぎか、かたいかどっちかなのよね」
と、ため息をついた。
「オス!」
と、元気良くやって来たのは、小《こ》西《にし》紀《のり》子《こ》だった。
「お邪魔?」
「いいよ。こっちへ座れよ」
と、和也が一つずれて席を空けた。
「サンキュー。優しいのね、小泉君」
小西紀子は、決して美人でもなく、成績も優秀とは言いかねたが、まれに見る明るさで目立つ子だった。実際、誰からも好かれるという貴重な存在で、パーティなどには欠かせない顔だった。
「ここんとこ、久保山君、知香とべったりしてんのね。もう売約済?」
と、小西紀子が訊く。
「売り切れ」
と、知香が答える。
「やったね!」
と、小西紀子はパチンと指を鳴らした。「知香に思いを寄せてた男の子、沢山いたのにな。哀れ……」
「そう? たとえば?」
と、知香が身を乗り出す。
「聞く必要ないだろ!」
と、良二がむきになって割って入った。
小西紀子が大笑いして、その笑い声は、にぎやかな学生食堂中に響き渡った。
「——あれ、安部先生、一人で食べてんじゃない。珍しい」
と、小西紀子が目ざとく見付ける。
「何だか元気ないみたいだ」
と、和也が言った。
「そうね。あの先生でも、たまには悩むことがある」
「ひどいこと言ってる」
と、知香が笑って、「紀子、何か理由を知ってる?」
「そりゃ、例の件じゃないの?」
と、紀子はアッサリと言った。
「例の件って?」
「知らないの? 学部長選挙でさ、安部先生、難しい立場なのよ」
「へえ、学部長選挙?」
良二は、そんなことがあるのも知らなかった。「よく知ってるな、そんなこと」
「地獄耳」
と、小西紀子は、得意げに、「今の学部長がもう老いぼれちゃって、全然出て来らんないっていうんで、引退するのよ。で、次の学部長の席を争ってるわけ」
「安部先生が?」
と、知香は不思議そうに、「まだ若すぎるんじゃないの?」
「もちろん! 安部先生が立つんじゃないわよ。——金《かな》山《やま》教授と、平《ひら》田《た》教授」
「金山と平田か」
と、和也が肯いて、「それなら分る」
「でも、安部先生がどうして難しい立場なの?」
「金山教授ってのは、安部先生の直接の先生なの。つまり恩師。分る?」
「分る」
「普通なら、当然安部先生は金山教授の側について、票をまとめたりしなきゃいけない立場なのよ」
「そりゃそうでしょうね」
「ところが——」
と、小西紀子は、ここで声を低くして、ぐっと身を乗り出した。
つられて、知香と良二も身を乗り出す。なかなか聞き手の心をつかむすべを心得ているのである。
「ここで登場するのが、対する平田教授の夫人の千《ち》代《よ》子《こ》さん」
「平田教授の奥さん?」
「そう。教授とは、恩師と教え子って関係で、平田教授が今年五一歳なのに、千代子夫人は——いくつだと思う?」
と、気をもたせる。
「若いのね」
と、知香が、ちょっと考えて、「三〇!」
「外《はず》れ。——二八歳」
「ええ? そんなに若いの?」
「千代子夫人が学生のころ、安部先生も彼女を教えていた。そして、在学中、安部先生と彼女との間には……」
「——じゃ、先生、その人に手をつけてたの?」
「ま、要するにそういうこと」
三人は、小西紀子の話に、唖《あ》然《ぜん》として聞き入っていたが……。
「そのこと、どうして紀子が知ってるの?」
と、知香は訊《き》いた。
「誰でも知ってたんですって、当時の学生たちは。たまたま私のいとこが、千代子夫人と同窓でね。そっちから仕入れたネタなの。でも、絶対に間違いないのよ」
と、小西紀子は自信たっぷりに肯いた。
「へえ!」
と、良二は呆《あき》れて、「安部ってのも、ひどいもんだな」
「でも、紀子、もちろん、当の平田教授は、まさか安部先生と奥さんが——そんな仲だったなんてこと、知らないんでしょ?」
「私、平田教授じゃないから、分らないわ」
と、紀子はもっともな言い方をして、「でも、知らないでしょうね」
「だったら、安部先生だって、平田教授を応援したりできないじゃない。金山教授を応援しなかったら、却《かえ》って変だと思われるだけでしょ」
「理屈はね」
と、紀子は肯いた。「でも、ここに今一つの噂《うわさ》が流れているの」
「どんな?」
「あのね——」
と、言いかけて、紀子は、「おっと、噂をすれば何とやらよ。やばい!」
四人は黙々と昼食を食べ始めた。
「やあ、この辺は空気まで若々しいね」
と、相変らずきざなセリフ。「若林君」
「はい」
と、知香が顔を上げる。
「君に、ちょっと頼みたいことがあるんだ。時間、あるかね」
と、安部は言った。
「ええと……。久保山君と打合わせたいことがあって」
「じゃ、その後でいい。僕の研究室へ来てくれないかな」
「分りました」
「手間は取らせない。五分もあればすむよ。じゃ、頼む」
「はい!」
安部が行ってしまうと、良二がふくれて、
「あんな奴《やつ》の部屋に行ったら危ないよ」
と、文句をつけた。
「大丈夫よ。いくら何でも、研究室の中で、妙なことしないでしょ」
「分るもんか」
「じゃ、表で待ってれば?」
「言われなくても待ってる!」
と、良二は言った。
小西紀子が笑って、
「羨《うらやま》しい。アツアツだね」
と、冷やかす。
「それより、紀子、今の話の続きは?」
「ああ、つまりね、ここへ来て再び、古い恋に火がついたって噂なの」
「古い恋って……。じゃ、安部先生と平田教授夫人?」
「もちろん! 現在進行形の恋の相手が平田教授の夫人で、夫人が、夫のために協力してくれって頼んだとしたら……。分るでしょう?」
良二、知香、和也の三人は、顔を見合わせて、ゆっくりと肯き合ったのだった……。