14 恋人の役回り
良二は、〈平田〉と札の出たドアの前で、ちょっと呼吸を整えた。
それからドアをノックする。——すぐに、
「どうぞ」
と、返事があった。
「失礼します」
良二が入って行くと、正面の奥の机に、平田教授がいた。
習っていないとはいえ、平田教授の顔ぐらいは良二も知っていたが、こうして近くで見るのは初めてだ。
「何か用かね?」
と、平田は、メガネを外した。
「あの——呼ばれて来ました。久保山ですけど」
と、おずおずと名乗ると、
「ああ、君が久保山君か」
平田の、不機嫌そうだった顔が、ふっと緩んで、笑みがこぼれた。「まあ、かけたまえ」
「はあ」
古びた椅《い》子《す》に腰をかける。
「今日、秘書が休みを取っていてね。この忙しい時に、困ったもんだよ、全く。お茶も出せなくて、すまんね」
「いいえ、そんな……」
「いつぞやは家内が困っている時に、助けてくれてありがとう」
「あ——いえ、とんでもない」
と、良二は急いで言った。「奥さん、大丈夫でしたか」
「うん。大したことはなかったんだよ。君によく礼を言っといてくれ、ということだった」
平田は、机の上の本を閉じると、「ところで——」
と、立ち上り、ゆっくりと窓際へと歩いて行った。
一体、何の用事で平田が呼んだのか、良二には見当もつかない。
「君……うちの家内を、どう思う」
と、平田が訊《き》いた。
「はあ?」
良二は面食らった。
「会った印象だ。——どうだね。正直に言ってくれ」
平田の口調は、とらえどころがなかった。
「あの……とても若くて、可愛い方ですね」
「若い、か。確かにね」
平田は肯《うなず》いて、「私よりも、むしろ君の方に近い年齢だ。よく、こんな年寄りと結婚した、と思ってるだろう」
「別に……。他人がそんなこと——」
「まあいい」
平田は、ゆっくりと良二の方へ歩いて来ると、
「学部長選挙が近付いてることは、君も知っているね」
「ええ」
「私も立候補している。しかし、相手の金山は、人脈作りのうまい男だ。私はそういうことが苦手でね」
「はあ」
「目下の情勢では、絶対的に、私が不利なんだよ」
どうして、こんな話を? 良二には分らなかった。
「しかし、私は勝ちたい。金山と私は、ほとんど年齢も違わないから、彼が学部長になれば、私の所へその椅子が回って来るチャンスは、まずない」
平田の口調は淡々としていた。「金山を数で破るのは難しい。となれば、金山が自分から、立候補を辞退するようにもって行くしかない」
「そんなことが——」
「もちろん、容易じゃないさ」
平田は、微《ほほ》笑《え》んで、「そこで、君の手を借りたいんだ」
「僕の……ですか」
良二は呆《あつ》気《け》に取られた。こんな一学生に何ができるというのだろう?
「金山が、立候補を辞退せざるを得ないような、スキャンダルを作り出すんだ」
「作り出す……。つまり——でっち上げるんですか」
「早く言えば、そうだ」
「そんなこと——」
「君の若い正義感が許さないだろうね。しかし、学部長に私がなれたら、もちろん君にとって、大きなメリットが生じる。加えて、かなりのこづかい稼ぎにもなる」
良二は、もちろん、やりたくはなかったが、平田が何を企《たくら》んでいるのか、聞いてみたいと思った。
知香だって、きっと興味を持つだろう。
「——何をするんですか、僕は?」
と、良二が訊くと、平田はニヤリと笑った。
あんまり、品のいい笑いとは言えなかった……。
「何ですって?」
知香が、昼飯を食べる手を休めて、言った。
「僕にさ、奥さんと浮気しろ、って言うんだ。少しイカレてるよ、あの先生」
——学生食堂はもう空《す》いて来ていた。
午後の講義が休講になったので、少し時間をずらして昼を食べることにしたのである。
「和也の奴、どうしたのかなあ」
と、ふと思い付いて、良二は言った。「休むなんて珍しいよ」
「ね、それより——」
と、知香は、良二をつついて、「平田教授の話は?」
「うん。そんな馬鹿なこと言い出したからさ、怒って帰って来ちゃったよ。当然だろ?」
「何だ」
知香が、何だか、がっかりしたような声を出す。
「だって……。当り前じゃないか」
「そりゃね、君の気持は分るわよ。ありがたいとも思うし。でも——その先まで話を聞いて来りゃ良かったのに」
「それじゃ、断れなくなっちゃうかもしれないだろ」
「それはそれ。何とでもなるわよ」
知香は、定食を食べながら、「——気になってるの」
「あのこと?」
「え? ——ああ、殺された部下のことね? そうじゃないの。あれはもう割り切るしかないもん」
と、知香は首を振った。「そうじゃなくて、あの、『先生を殺そう』って言葉の方」
「ああ、あれか」
良二は肯いて、「でも、誰も殺されてないじゃないか」
「うん。——これからかもしれない」
「これから?」
「学部長選挙が絡《から》んでるんじゃないか、と思うのよ」
「まさか、人殺しまで——」
「しっ!」
と、知香がにらんで、「大きな声出さないのよ。いい? もし、誰かを殺す計画が進んでるとしたら、それを止められるのは、私たちだけなのよ」
「だからって、僕が平田教授の奥さんと浮気するのかい?」
「ともかく、教授の説明を聞くのよ。一体それでどうやって金山教授をスキャンダルに巻き込むのか」
「うん……。でも、どうしてもやるのかい?」
「やってみたら?」
「もし——」
「成り行きで、平田教授夫人と浮気しても、怒らないから」
「するもんか!」
と、良二は腹を立てて、言った。「絶対にしない!」
「気が変りました、って言うのよ」
と、知香は言って、ポンと良二の肩を叩《たた》いた。
「行ってらっしゃい」
「分ったよ」
良二が、渋渋、平田教授の部屋へ向った後、知香はキャンパスの中を歩いて行った。
ちょっと気になっていたのは、小西紀子が今日、休んでいることだった。もちろん、休むことはあっても、小泉和也と一緒というのは……。
「でもねえ、まさか」
あの二人が?——ホテルかどこかに行ってるのかしら?
とても想像がつかなかった。
車の音がした。振り向くと、構内の駐車場から出て来たらしい、赤い小型の外国車が、走って来たのだが……。
見ていると、何だかガタゴト変な音をたてて、スピードが落ち、やがて停ってしまった。
どうしたのかしら?
見ていると、女が降りて来た。——知香はびっくりした。
平田千代子だ!
「全くもう!」
と、車に向って、「いやになっちゃうわね!」
と、文句を言うと、ドアをロックして、そのまま、歩いて行ってしまう。
「——置いてっちゃうのかしら」
呆《あき》れて、知香は呟《つぶや》いた。
平田千代子は、さっさと棟の中へ入って行く。
知香は、その車に近付いて、そっと中を覗《のぞ》き込んだ。
「——あなた!」
平田千代子は、教授室のドアを開けるなり、言った。「車が急にエンコよ。何とかして!」
良二に気付いて、千代子は、
「あら、いつかの……。どうもありがとう、あの時は」
「いいえ」
と、良二は頭をかいて、「今、先生はちょっと出られてます」
「そう」
千代子は、入って来て、「ここはどの椅《い》子《す》にも座る気になれないわ」
と、言った。
「すぐ戻られると思いますけど」
千代子は、窓から外を眺めた。——そして、振り向くと、
「久保山君、だったわね」
「はい」
「今夜、私と会ってくれない?」
「え?」
「夫は出張よ、夕方から。——私と会って。ゆっくり話したいの」
千代子の目には、妖《あや》しいような火が燃えていた……。