17 再び、知香親分
良二はバスルームから出て来ると、ベッドに腰をおろして、平田千代子の後ろ姿に声をかけた。
「奥さん」
——千代子は返事をしない。良二は、エヘン、と咳《せき》払《ばら》いをして、
「ね、奥さん。やっぱりいけませんよ、ご主人に悪いし、僕にも恋人がいるんです。こういうことはしちゃいけないんですよ」
千代子は、少し頭を前に垂らして、眠ってでもいるかのように思える。
「——あの、奥さん。もうホテルには入ったけど、僕ら、何もしていないんですから……。このまま帰りましょうよ。ね?」
良二は、千代子の肩に、そっと手をのばした。——千代子が、ゆっくりと首を振って、言った。
「もう、手遅れよ」
「そんなことありませんよ。まだ間に合います」
「いいえ、もう手遅れよ」
と、くり返して振り向いた千代子は——白目をむいて、土気色の、凄《すさ》まじい顔だった。
首には、深々と紐が食い込んでいる——。
「た、助けて!」
と、良二は飛び上って——逃げようとした。
だが、足が震えて、動けないのだ。千代子は、スッと立ち上って、
「さあ、楽しみましょうよ……」
と、言いながら、両手を良二の方へさしのべて、近付いて来る。
「や、やめて下さい! ね、あなたは——あなたは、死んでるんですよ!」
「それがどうしたっていうの? 死んだって、ちゃんと楽しめるわよ」
と、千代子は笑った。
良二は総毛立って、腰を抜かした。
「さあ——いらっしゃい」
千代子が、良二の上にかがみ込んで、手をのばし……。
「やめてくれ! 助けて!」
千代子の手が頬《ほお》に触れた。氷のように冷たい。良二は悲鳴を上げた。
「良二君! しっかりして!」
「——助けて!」
パッと良二は起き上った。
「私よ! 大丈夫?」
知香が良二の腕をつかむ。
「ああ……」
ここは——屋根裏だ。そうだ。知香と二人で暮している屋根裏……。
「大丈夫?」
と、知香が言った。「大《だい》分《ぶ》うなされてたわ」
「ごめん……」
「汗、びっしょりよ」
「うん。——着替え、あったっけ」
「ある。もう乾いてるわ」
「いやな夢を見たよ。でも——」
良二は、ハッとして、「あれは本当だったのかな。平田千代子が殺されたのは……」
「本当よ。でも、もう大丈夫。ちゃんとここへ帰って来たんだから」
「そうか……。今、何時ごろだろう?」
知香は、目覚まし時計を手に取って、
「もうすぐ二時。——どうする? シャワーを浴びて来る?」
「そうだな。このままじゃ、気持悪い」
良二は頭を振った。
「じゃ、私も付合う」
「だって、君は別に汗かいてないだろ?」
「そうね」
知香は肯いて、ちょっと考えると、パジャマ代りのTシャツを脱いで、
「じゃ、私も少し汗をかこう」
と、良二の唇に唇を押し付けた……。
「——銭湯の帰りってムードね」
二人で交替にシャワーを浴びると、のんびり夜中の大学構内を歩いて来る。
「だけど——一体誰があの奥さんを殺したんだろうな」
と、良二は言った。
「そうね。問題の第一。あれが果して予定通りの犯行だったのかどうか」
「どういうこと?」
「平田先生としては、奥さんを殺す理由があるかしら? そしてあなたに罪を着せる、っていうのは少し単純すぎない?」
「うん……。何かよっぽどの動機があったんだろうな」
「それに、奥さんを殺して、あなたを犯人に仕立て上げたところで、学部長選に、プラスにはならないわ」
「そりゃそうだな。金山教授のスキャンダルをでっち上げるとか言ってたけど——」
「金山教授は全然関係ないものね」
「うーん。もしかして、奥さんが殺されたってことで同情票を……」
「普通の選挙とは違うのよ。それに、奥さんを他の男に取られてた、なんて、同情されるより馬鹿にされるのがオチ」
「そうか」
と、良二は肯《うなず》いた。「じゃ、一体、何のために、僕と奥さんを浮気させようとしたのかな」
「それは、朝になれば分ると思うわ」
「どうして?」
「TVのニュースか、新聞を見れば、平田教授が、警察にあなたのことを話したかどうか、はっきりするでしょ」
「なるほど。だけどいやだなあ。あの奥さんを殺した、とか言われて捕まるなんて」
「でも当分は大丈夫よ。あの屋根裏には捜しに来ないわ」
「それもそうだな」
「明日は起こさないから、ゆっくり寝てね」
と、知香は良二の腕を取って、やさしく言った。
「どうして?」
「ノコノコ講義に出てって、捕まっちゃ困るでしょ」
「あ、そうか」
「だから、私が、ともかくニュースを見て、状況を——」
と、言いかけて、知香は足を止めた。
二人の行手を遮《さえぎ》るように、ヌッと立っていたのは、あの宍戸という男だった。
「お嬢さん」
「宍戸さん……」
「お迎えに参りました」
「でも、私は——」
背後に足音。振り向くと、やはり元の子分が三人、立っている。
そして、その後ろに、小さくなって立っていたのは、小泉和也だった。
「和也! お前——」
「すまん!」
と、和也は、地面にペタッと座り込むと、頭を下げた。
「待って」
と、和也の方へ駆け寄って来たのは、小西紀子だった。
「紀子! どうしたの?」
「小泉君のこと、怒らないで。私がこの連中に捕まっちゃったのよ。知香たちの居場所をしゃべらないと、私のこと、手ごめにしてやる、って言われて、小泉君——」
「分ったわ」
と、知香は肯いて、「宍戸さん、ずいぶんあくどいやり方ね」
「すいません」
宍戸は、アッサリと謝って、「他に方法がなかったんでさ。急を要したんです」
「それにしても——」
「もちろん、その女の子にゃ、指一本ふれてません」
「荷物みたいにかついだじゃないの」
と、紀子は抗議したものの、「ま、でも、親切にはしてくれたわ」
と、認めた。
「お嬢さん」
「分ったわ。宍戸さん。二人で話しましょうよ」
「はい」
知香は、宍戸を促して、良二たちから離れた場所まで歩いて来ると、
「——私にどうしろって言うの?」
「状況は……」
「知ってるわ。笠間の方が、攻勢を?」
「闇《やみ》うちですよ」
と宍戸は、渋い顔で首を振った。「卑《ひ》怯《きよう》な奴らだ! 正々堂々とやって来りゃ、負けやしねえんですが」
「そんな時代じゃなくなったのよ」
「全くで」
宍戸は、ため息をついた。「泥棒が、暴力団と同じになっちまった」
まあ、普通の人間から見りゃ、そう違うようにも見えないかもしれないが、当人たちにとっては大違いなのである。
「お嬢さん。どうか戻って下さい」
「宍戸さん——」
「やっぱり、お嬢さんは、みんなの団結の『核』みたいなもんです。お嬢さんがいねえと、どこへ集まっていいものやら分らねえ」
「私なんて、大して力もないわ」
「いや、とんでもない!」
と、宍戸は力強く首を振って、「お嬢さんが戻られりゃ、笠間の奴も、二の足を踏みますよ」
「今でも、そんな力があるかしら」
「あります!」
知香は、少し考え込んでいたが、
「もし——戻ったとして、どうするつもりなの?」
「話し合いをしたいと思います。無用な血は流したくない」
知香は、宍戸を見て、微《ほほ》笑《え》んだ。
「良かったわ。あなたがそう言ってくれて。力しかない、って言うんじゃないかと思ってたの」
「向うはそのつもりかもしれません」
「ええ、そうね」
と、知香は肯いた。「警戒だけはしておかないと」
「武器も集めてあります。万が一のためですが」
「そう。——分ったわ」
と、知香は肯いた。
「戻っていただけますか?」
宍戸が目を輝かせる。
「ええ。でも、条件があるの」
「何でしょう? 朝ご飯にはミソ汁をつけるとか?」
「何を言ってんの。私の夫のことよ」
「オット? オットセイですか」
「私は、あの人と暮してるの。あの人に手は出さないで」
「そりゃ、もちろん」
「それと、この一件が片付いたら、私は戻るわ、あの人のところに」
「——分りました」
「その時は邪魔しないで」
「お嬢さん。何でしたら、あのオットセイもこみで、戻られたら?」
「あの人に危ない真似は——」
と言いかけて、「そうね……」
何やら思い付いた様子。
「ね、宍戸さん」
「はあ」
「今、本部はどうしてるの?」
「捜してるところです。今の所は、いつ笠間の手の連中が襲って来るかもしれないもんで」
「そうね。でも、どこへ移しても、すぐに分っちゃうでしょ」
「それが悩みの種でして」
「ね、いい所があるの」
と、知香は宍戸の肩をポンと叩《たた》いて、言った。