24 捨て身の知香
男の叫び声が途切れた。
「おい! どうした!」
笠間が怒鳴った。
二人の男に押えつけられて動けない良二の方も、何が起こったのか、さっぱり分らなかった。
てっきり、知香の悲鳴が聞こえて来るものと覚悟していたのだ。
シャワールームのドアは半開きになったままだった。
「おい! 返事をしろ!」
笠間がもう一度怒鳴ると……。
ドアがスッと開いて、笠間の手下の男がフラッと現われた。
「どうしたんだ? あの娘は?」
笠間の問いに答えることはできなかった。男は、その場にバッタリと倒れてしまったのである。
一人が駆け寄って、倒れた男の方へかがみ込む。
「——親分」
と、顔を上げて、「死んでます」
「何だと? そんな馬鹿な!」
笠間の顔が真赤になった。
みんなが唖《あ》然《ぜん》としている。——チャンスだった!
つかんでいる手の力が抜けた。良二は、
「エイッ!」
と、思い切り、一方の男の足を踏みつけ、続いて、左外側の男の腹へ、肘《ひじ》鉄砲をくわした。
全く用心していない相手には、効き目充分だった。
「ワッ!」
「いてて……」
二人とも、良二から手を放してしまった。
良二は二人を突き飛ばしておいて、必死で駆け出したのだった。
「逃がすな!」
笠間の声が飛ぶ。
笠間の手下が三人、良二を追って駆け出した。
良二は大学の構内を夢中で駆けた。もちろん、逃げ出したわけで、知香のことを見捨てたように見えそうだが、実際にはそうではない。
あの男が逆にやられたことで、知香が、どんな方法でか分らないが、敵がいることを察し、巧みに逆襲したのは確かだった。そうなれば、むしろ良二が下手に手を出すのは、却って知香の行動を邪魔するようなものだ。
良二としては、ともかく、笠間の手下に捕まらないようにするのが第一だった。
その点、何といっても、大学の中なら、勝手が分っている。良二は、わざと建物の一つを通り抜けたり、二階へ上ると見せて、階段のわきへ回ったり、あの手、この手で、追いかけて来る三人を振り切ろうとした。
一方、良二に逃げられた笠間の方はすっかり頭に来て、
「畜生!」
と、靴で地面をけっとばしている。
「靴がいたむわよ」
背後で声がした。
笠間が振り向きかけると、
「動くと頭を撃ち抜くわよ」
と、知香の声。「そこで亡くなってる奴《やつ》の拳銃をいただいてあるんだから」
「こいつ——」
手下の一人が向って行こうとした。
鋭い銃声が鳴り渡って、その男が足を押えて、転がった。
「——分った?」
「分った」
笠間は肯《うなず》いた。
「手下たちに、離れるように言いなさい」
「おい、退《さ》がれ」
笠間は、ちょっと息をついて、「しかしな、お前一人じゃ、俺《おれ》たち全部はやれないだろうぜ」
「でも、あんたの頭を撃ち抜くことはできるわよ。分った?」
「ああ……」
笠間は、何とか腹立ちを押えている。「うまく逃げたもんだな」
「いくらあんたたちが静かに隠れててもね、ここへ来て虫の声も聞こえない、ってのは、まともじゃないもの」
「そうか。じゃ、知ってたんだな」
「妙だな、とは思ってたの。だから、中の洗面台のコンセントから、コードを引いておいたの。あの人は、びしょ濡《ぬ》れになって、電気の来ている把《とつ》手《て》に触れたのよ」
「ただですむと思ってるのか!」
「さあね。あんたの返答しだいだわ」
「何だと?」
「あんたが、平田千代子さんを殺すのを請け負ったことを、素直に認めるかどうかね」
笠間はフン、とせせら笑った。
——その時、知香も気付いた。
背後に人の気配がある。二人や三人ではなかった。
「おい、今の内にそいつを捨てて降参した方が身のためだぜ」
と、笠間が言った。
笠間の手下たちが、まだいたのだ。
知香は、しかし、迷わなかった。たとえ手を上げたって、助かるわけじゃない。殺されるより、もっと辛《つら》いことが待っているだけだ。
「気が付かないと思ってるの?」
と、全く動じないで、知香は言った。「いい? 後ろの奴が、それ以上近づいたら、笠間の頭をふっとばすわよ」
すると——。「後ろの奴」が言った。
「そりゃ面白いですね、お嬢さん」
知香の顔に、ホッとした笑みが浮んだ。
「宍戸さん!」
今度は笠間が青くなる番だった。
「そいつの手下はみんなおねんねしてますよ。——おい、武器を取り上げろ」
知香は、宍戸がやって来ると、息をついて拳銃を下ろした。
「大した度胸ですぜ、お嬢さん」
「汗びっしょり。ガタガタ震えてたのよ、ほら」
「当り前でさ。で、ご亭主の方は?」
「そうだ!」
知香は飛び上った。「良二さん! 追いかけられてたんだ。——誰かついて来て!」
知香は、良二が逃げて行った方へと、夢中で駆け出した。
もう大丈夫かな……。
良二は、息を弾ませながら、じっと様子をうかがっていた。
「そっちはどうだ?」
「いないぞ」
「向うへ回れ」
遠くに聞こえていた声は、やがてもっと遠くへ去って、何も聞こえなくなった。
やれやれ……。こんなに必死で走ったのは、中学生のころの運動会以来かもしれない。
しかし、結構僕の足もしっかりしたもんだな、と良二は一人で悦に入っていた。
ここは……どこだろう?
建物の中へ逃げ込んで来たのだが……。
「そうか」
安部助教授の部屋がある棟だ。何となく見憶えがあったはずである。
良二は、もう少し待ってから、知香がどうなったか見に行こう、と思った。
すると——。何だか人の声がしたのだ。
何を言ってるのかまでは聞き取れないが、確かに話し声だ。
もしかして、あの声は……。
良二は、足音をたてないように気を付けながら、廊下を進んで行った。
部屋から、明りが洩《も》れている。——安部の部屋だ。
「しかし、君は——」
と、男の声。
「分ってますよ、先生。しかし、向うは実際に手を下した人間ですからね。多少の無理は聞いてやらないと」
と言っているのは、安部だった。
先生? すると相手は——。
「安い金じゃないよ、三百万といえば」
そうか、平田教授の声だ。
「分っています。しかし、何とかなる金額でしょう」
「そうだな……」
平田は、ため息をついて、「それじゃ、本当に三百万でいいんだね」
「よく、言い含めておきますよ」
「分った。——二、三日待ってくれ」
「向うも、一日を争うってことはないでしょう」
と、安部は言った。
「ところで、あの学生は?」
「ああ、久保山ですか」
良二は、いきなり自分の名前が出て来て、ギクリとした。——気安く呼び捨てにするない、畜生!
「心配いりませんよ。今の学生は、人のことなんか考えやしません。隣で人が殺されたって、好きなTV番組が終らない内は一一〇番もしないでしょう」
人のことを馬鹿にしやがって! 良二はムッとした。
「しかしね——」
「卒業、就職、と控えてるんです。大丈夫。うまく丸めこみますよ。任せて下さい」
「分ったよ」
と、平田は息をついて、「じゃ、後はよろしく頼む」
良二が、廊下の隅で息を殺していると、平田が出て来て、足早に歩いて行った……。
やれやれ。——今の話はどういうことだろう?
手を下したのは、とか言ってたところをみると、やはり知香の言っていた通り、平田千代子を、あの笠間という奴の手下に殺させていたのだろう。そして、どうやら金を出せと言われているらしい。
安部がその仲介をしている、といったところなのだろう。
しかし——ここはともかく一《いつ》旦《たん》引き上げるしかないな、と良二は思った。ここで聞いた話を、あの米田って警部へ伝えてやれば、きっと喜ぶだろう。
別に、あの警部に義理があるわけじゃないんだが。
それじゃ、行くか。——良二はそっと振り向いた。
「やあ」
ニヤリと笑ったのは、追いかけて来ていた笠間の手下だった。
「や、やあ……」
良二は、思わず笑顔で答えていたが……。
どうも、ニコニコしてる場合じゃない、ってことは、いくら呑《のん》気《き》な良二にも、よく分っていたのだった。
「——誰だ?」
安部が廊下へ出て来た。そして目を見開いて、
「何だ。久保山君じゃないか。そうか、今の話を聞いてたんだね」
「まあ……そうです」
良二は仕方なく言った。
「入りたまえ」
と、安部は言った。「そこの三人も」