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くちづけ01
日期:2018-06-26 17:18  点击:301
予 感

 状況としては悪くなかった。
 
 九月も下旬、やっと夏の名《な》残《ご》りの暑さは遠ざかって、夕方ともなると吹く風も涼しく、今、空は「秋!」と、大きく一筆で書いたような細いちぎれ雲が赤く染ってみごとな眺め。
 
「たまにはいいね」
 
 と、金《かね》倉《くら》亜《あ》紀《き》は学《がく》生《せい》鞄《かばん》を振り回しながら言った。
 
「こういう所をのんびり歩くのも、さ」
 
「うん……」
 
 あんまり気のない様子で答えたのは「モンちゃん」こと門《かど》井《い》勇《ゆう》一《いち》郎《ろう》。——亜紀と同じ十七歳の高校二年生である。
 
 こういう所、というのはT川沿いの土手の道で、周囲より一段高くなっている分、視界は三六〇度グルリと開けて広々としている。
 
 土手の道はどこまでも真《まつ》直《す》ぐに続き、時々ジョギングのトレーナー姿の人が追い越して行ったり、すれ違ったりする他は人通りも少なかった。
 
「どうしたの? 風邪ひいた?」
 
 と、亜紀は門井勇一郎の伏せ気味の顔を覗《のぞ》き込んで、「分った。体育の授業の後、汗かいたまま、放っといたんでしょ。だめだよ、モンちゃん、風邪ひきやすいんだから」
 
「そんなんじゃないよ」
 
 と、勇一郎は言い返し、「二年生になって、まだ一日も休んでないんだぞ」
 
「そういうこと言ってると、とたんに風邪ひくんだから。だめだめ」
 
 亜紀は白ブラウスの胸もとを指でつまんでパタパタ引張りながら、「汗が乾いて、涼しい」
 
 と、息をついた。
 
「おい」
 
「うん?」
 
 亜紀が勇一郎の方へ顔を向けると、何やら勇一郎の顔がぐーっと迫って来て、「え? ——え?」顔に蚊でもとまってる? モンちゃんって吸血鬼だったっけ? 蚊も吸血鬼も「血を吸う」という点、なぜか共通しているのだが、亜紀の連想がどうしてそこへ行ったか、不明である。
 
 だが、いずれにしても亜紀は血を吸われたわけじゃなかった。
 
 ともかくあんまり相手の顔が近付きすぎて寄り目になってしまうという、見映えのしない状態のまま、亜紀は唇にフニャッとした柔らかいものが押し付けられるのを感じたのだった。
 
 で——勇一郎の顔が再び離れてピントを結ぶと、ようやく亜紀も今、何が起ったかを知った。
 
「——モンちゃん」
 
「うん……。ありがと」
 
 何で礼を言っているのやら。ともかく亜紀は、感激するより何より、唖《あ》然《ぜん》とし、それからカッとなって、思い切り勇一郎の足を踏んづけたのだった。
 
 突然のキスに対して反射的に行動していたので、加減ということをしなかった。
 
 亜紀に足を踏まれた勇一郎は、鞄を放り投げ、声も出ない様子で、ペタッと座り込んでしまった。
 
 一瞬、亜紀は、強く踏みすぎたか、と思ったが、今さら「やり直し」ってわけにもいかず、
 
「何すんのよ!」
 
 と、右手を腰に当ててにらみつける。
 
「お前こそ……。痛いだろ!」
 
 勇一郎の声はかすれていた。どうやら相当に痛かったらしい。
 
「突然あんなことするからでしょ!」
 
 今になって、亜紀は真赤になった。それを見られたくなくて、
 
「歩けなかったら、逆立ちして帰んなさい!」
 
 と言い捨てて、ほとんど走るような勢いで土手の道をひたすら突進して行った……。
 
「全く、もう!」
 
 と、誰に言うでもなく言葉が飛び出してくる。「モンちゃんの馬鹿!」
 
 ついでながら、「モンちゃん」とは門井勇一郎の「門」を「モン」と読んだあだ名である。——小学校からの幼なじみのせいで、ずっと「モンちゃん」で高校二年の今まで来た。
 
 土手の道を軽やかに下りると、車が猛スピードで駆け抜けていく側道。
 
 車の流れが途切れるのを待ちながら、亜紀は汗がふき出してくるのを感じた。自分でもよく分らない腹立たしさに追い立てられるように、大急ぎで歩いたせいである。
 
 息をつき、頭を振ると髪が肩の上でフワリと風を含んで広がる。額が白く輝いて、若さを冠のように光らせている。
 
 道を素早く渡ると、すぐ住宅地に入る。
 
 側道を車のエンジン音が絶え間なく埋めているのが嘘《うそ》のように、ほんの数十メートル入っただけで、辺りは静かだった。
 
 金倉亜紀。——十七歳での初めてのキス体験。
 
 わが家が近付くころ、やっと気持が落ちついて来て、大丈夫だったかな、足、などと考えている。
 
 そう……。もう「モンちゃん」なんて呼んじゃいけないのかもしれない。二人して平気でパンツ一つで水遊びした小学生のころとは違う。
 
 でも、まさか、あんなことをするなんて!
 
 他に人もいなくて、夕焼け雲の美しい土手の道。——フッと勇一郎がそんな気持になったとしても……。
 
「やだ、やだ!」
 
 と、大きな声を出す。
 
 勇一郎が自分を「女」と見ていたことに、亜紀は少々ショックを受けていたのかもしれない。
 
 ともかく、いつもの通りにうちへ入って行こうと、亜紀が鞄を振り回しながら、足どりを進めると、後ろに車の音。
 
 振り返ると、タクシーがスピードを落として、亜紀を追い越し、少し先で停る。
 
 ドアが開いて——。
 
「あれ?」
 
 タクシーから降りて、中の誰かに頭を下げているのは、どうみても……。
 
「じゃ、さよなら!」
 
 おじいちゃん、手なんか振って!
 
 亜紀は笑い出しそうになるのを何とかこらえた。
 
 ツイードの上着が暑苦しい。祖父の金倉茂《しげ》也《や》である。
 
 タクシーが走り去っても、金倉茂也はその場で手を振って見送っていた。亜紀の目にも、タクシーのリアウィンドウからこっちを振り返りつつ手を振っている人がチラッと見えた。
 
 あれって……女の人?
 
 タクシーはとっくに角を曲って見えなくなったというのに、金倉茂也はぼんやりと立ち尽くしている。
 
 亜紀は、祖父の肩をポンと叩《たた》いて、
 
「おじいちゃん!」
 
「ワッ!」
 
 と、仰天して飛び上り、「——亜紀か! びっくりさせんでくれよ」
 
「こっちこそびっくりするじゃない。そんなにびっくりされちゃ」
 
 と、ややこしいことを言って、「暑くない、そんな上着?」
 
「うん? ああ、そうだな」
 
 茂也はツイードの上着を脱ぐと、「お前、今帰りか」
 
 分り切ったことを訊《き》くところも、妙である。
 
「まあね」
 
 二人は、ほんの二、三十メートル先のわが家へと歩き出した。
 
 どうせタクシーで帰って来たのなら、どうしてうちの前で降りないんだろう? こんな手前で降りて……。
 
「暑いな」
 
 と、茂也はハンカチを出して首筋を拭《ぬぐ》った。
 
 祖父、金倉茂也はついこの間、七十五歳になったところである。妻——亜紀の祖母を亡くして、七、八年たつが、至って元気で、都心へもよく出かけている。
 
「——亜紀」
 
「うん」
 
「俺《おれ》がタクシーで帰って来たこと、父さんには言うな」
 
「どうして?」
 
「歩かんと体に悪いとか、すぐ言い出すからさ。いいな?」
 
「うん……」
 
 ともかく二人はわが家へ辿《たど》り着いたのである。
 
「ただいま!」
 
 亜紀は、いつもの通り元気よく声をかけた。
 
 当然、母の陽《よう》子《こ》が、
 
「お帰り」
 
 と、奥から出てくるところだが——。
 
「お母さん? ——ただいま」
 
 返事がないので、亜紀は二階へ上りかけた足を止めた。そういえば、玄関の鍵《かぎ》がかかっていなかった。
 
 陽子は用心深い性格だ。ほんの少し家を空けるときでも、必ず鍵をかけて行くし、家にいても開け放しておくことは絶対にない。
 
 亜紀は心配になった。祖父の茂也はそんなこと気にもしていない様子で、さっさと一階の奥の自分の部屋へ行ってしまったのだ。
 
 金倉家は、ごくありふれた建売住宅である。父、金倉正《まさ》巳《み》は普通のサラリーマンで、むろん大邸宅を構えるほどの財力はない。
 
 それでも、この家は亜紀と両親、それに祖父の四人暮しにしては広い造りで、ここが買えたのは、祖父の茂也が大分お金を出したからだということを、亜紀も承知していた。
 
「お母さん……」
 
 居間を覗《のぞ》いて、それからダイニングキッチンへ……。
 
「——何だ」
 
 亜紀は、ホッと息をついた。母、陽子が、ダイニングのテーブルに向っている。背中を向けているので、よく分らないが、居眠りでもしているのか……。
 
「お母さん」
 
 と、亜紀がもう一度呼ぶと、
 
「ああ、びっくりした! ——亜紀なの」
 
 他に誰がいるっていうの?
 
「お帰り。お腹空いてる? これから支度するのよ」
 
「ゆっくりでいいよ」
 
 本当は、すぐにも丼《どんぶり》物《もの》の一つぐらい平らげてしまいそうだったのだが、そうは言えなかった。
 
「そう……。今日はおじいちゃんも出かけてるのよ」
 
 と、陽子は、よいしょという感じで立ち上った。
 
 四十二歳の陽子は、それなりに腰の辺りに肉が付いて来ている。
 
「帰って来たよ」
 
「え?」
 
「今、表で一緒になった」
 
「そう」
 
 タクシーで帰って来たことは言わなかった。ともかく今は早く部屋へ上ろう。
 
「着替えてくる!」
 
 ——亜紀は、階段を一気に上って、チラッと振り向いた。
 
 お母さん、どうして泣いてたんだろう。
 
 亜紀は自分の部屋へ入って、Tシャツとジーパンといういつもの格好に着替えると、ベッドに引っくり返って、力一杯手足を伸ばした。
 
 ギューッと伸びるだけ伸ばすと、血のめぐりが良くなって頭がスッキリする。朝、目覚ましにもやるが、帰って来たときにも習慣になっている。
 
「あ〜あ……」
 
 意味もなく呟《つぶや》いて、天井を眺める。——この家を買って越して来たときは、ロックバンドのヴォーカルの特大ポスターを天井に貼《は》っていたものだ。
 
〈ヒトシ命!〉なんて、ノートにもあちこち書き散らして、
 
「私は追っかけなんかやってる、その辺の子とは違うの! 一生、『彼のファン』でいつづけるのよ」
 
 と、友人たちに宣言しまくっていたが、それから二年とたたないのに、すでにポスターは影も形もない。
 
 何かに熱狂する時期はもう通過してしまったのだろうか? そう考えると少し寂しい気もした。
 
 十七歳。亜紀の周囲の子を見ても様々である。今でもアイドルに夢中という子もいれば、もっと身近で現実的なボーイフレンドと、「ホテルに行っちゃった」という子もいる。
 
 中には、既に人生を達観したように、
 
「男なんて、どれも同じよ」
 
 と、肩をすくめて見せる子もいた。
 
 亜紀はそのどっちにも属さない。平均的といえばそうだが、好奇心は溢《あふ》れんばかりでも、何かにのめり込むほどのものは見付けていない。
 
 男にしても……。何しろ今日、突然幼なじみの門井勇一郎にキスされてすっかり気が動転してしまったくらいで、容易に察しがつくというもの。
 
 決して男の子の友だちがないわけじゃないのだ。亜紀は誰にも「自分のペース」というものがある、と思っているだけだ。一人っ子ゆえの呑《のん》気《き》さ、と友だちに言われることもあるが……。
 
 それにしても——お母さん、大丈夫なんだろうか?
 
 母、陽子は名前の通り明るい、おっとりした人である。亜紀は多分に母の性格を受け継いでいた。
 
 その母が、泣いていた。見間違いじゃないし、TVドラマか何か見て泣いたわけでもない。それなら亜紀にだって分る。
 
 亜紀があれだけ呼びかけても、なかなか気付かず、やっと振り向いたときのあわてた様子、涙を見せまいとしたごまかし方……。
 
 何か、亜紀には知られたくないことがあったのだ。でも、何が?
 
 ピピピ……。亜紀の鞄《かばん》から電子音が聞こえて、あわててベッドから起きる。ポケットベルが鳴ったのだ。
 
 ポケベルの呼び出しは、クラスメイトの松《まつ》井《い》ミカからだった。
 
 亜紀は、二階の両親の寝室にあるコードレスの電話を持って来て、ミカの家へかけた。
 
「——もしもし、亜紀? 今、どこなの?」
 
 と、ミカの明るい声が聞こえてくる。
 
「うちだよ。もちろん」
 
 亜紀はベッドに腰をかけて言った。
 
「え? あ、何だ。まだ帰ってないと思ってたから」
 
 ミカがそう思うのも無理はない。いつもなら金曜日はクラブで遅くなるのだ。
 
「今日、先輩の都合で練習がなくて」
 
「そうか。ね、明日の帰り、買物、付合ってくれない?」
 
「明日?」
 
「何か用事ある?」
 
 亜紀は少し迷った。——母が泣いていたからというわけでもないが、何か起りそうな予感みたいなものがあったのだ。
 
 でも、そんなことミカには言えない。
 
「——ミカは何の買物なの?」
 
「誕生日のプレゼント」
 
「へえ。彼にあげるの? この間、あげたんじゃなかったっけ」
 
「別口なの」
 
 亜紀は笑ってしまった。——ミカの家は亜紀の所と違って、父親は社長、母親は華道の先生で、その分暮しも派手である。ミカも悪い子じゃないが、多少わがままなところはあった。
 
 友だちが少ない分、亜紀を頼りにしている。いやとも言えず、「夕ご飯までには帰る」という条件でOKした。
 
 むろん、高校生同士、話はそれだけでは終らず、十五分ほど話し込んでから切った。気分転換にはなって、亜紀は階下へ下りて行った。
 
 陽子が忙しく台所で動き回っていて、
 
「何か手伝う?」
 
 と、亜紀が声をかけると、
 
「却《かえ》って手間よ。ね、コンビニで小麦粉、買って来てくれる?」
 
「いいよ。他には?」
 
「何もないわ。急いでね」
 
「うん」
 
 ともかく母がいつもの調子なので、亜紀はホッとした。深刻に考えるほどのことはなかったのかもしれない。玄関へ行きかけると、電話が鳴った。
 
「私、出る!」
 
 と、居間へ入って、「——金倉です。——あ、お父さん。——うん、今お母さん、支度してる。——分った七時半ごろね」
 
 亜紀は、ふと居間を覗いている祖父と目が合った。電話が誰からか見に来たという様子だったが、茂也はパッと目をそらして行ってしまった。

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