愛想笑い
至って人当りのいい男だった。
「こちら……。課長さんで、金倉さん」
と、円谷沙恵子が紹介すると、
「どうも、いつも沙恵子がお世話になりまして」
と、きちんと背広にネクタイのスタイルでやって来た男は深々と頭を下げた。
「いや、こっちこそ」
正巳の方がどきまぎしてしまう。
「手《て》塚《づか》と申します」
意外なことに名刺を出して金倉へ手渡す。〈手塚良《りよう》一《いち》〉と、名刺にはあった。会社名はなく、肩書としては〈経営コンサルタント〉となっていた。
三人は、土曜の午後の静かな喫茶店で、一つのテーブルを囲んだ。
「コンサルタントというと……。何をしてるんですか」
と、正巳はとりあえず訊《き》いてみた。
「色々です。企業も今は不況で、何かと問題をかかえていますからね。経験のある人間は重宝されます」
と、手塚という男は言った。
「ほう。しかし、見たところずいぶんお若いですが」
「三十になります。しかし、ここ数年の経験は、普通のときの何十年分でしょう」
手塚はコーヒーを頼んでおいて、「実は、ゆうべ彼女と電話で話したとき、『課長さんに立ち会ってもらう』と言ったので、どんな方かと思っていました。なるほど、沙恵子が頼りにするのも分ります」
「いや、僕は何とも……。ただ、円谷君は大変悩んでおられてね。それで僕が何か力になれることがあるなら、と思っただけですよ」
「確かに、二人きりでは何を話しても大丈夫ですが、ついなれ合って具体的な話にならないことがあります」
正巳は咳《せき》払《ばら》いをして、
「あなたは現在、かなりの借金をしておられるとか」
——正巳は正直いささか戸惑っている。
沙恵子の話を聞いたときには、やせて不精ひげをのばした、見るからにノイローゼという感じの男を想像していたのだが、今目の前にいるのは、確かにやせてはいるが、きちんとした身なりの、営業マンタイプの男。
しかし、沙恵子が嘘《うそ》をつくわけもなし、この男のことで困っているのは事実なのだろう。
「借金はあります」
と、手塚という男はアッサリと肯《うなず》いて、「しかし、今どき何の借金もない人がいますか? 住宅ローンだって、カードで買物したクレジットの払いだって、借金といえば借金ですからね」
それはそうだ。しかし、手塚の場合は事情が違うはずだった。
正巳は、自分の方がずっと年上なのだと自分へ言い聞かせて、
「いいですか。僕の言っているのは、そんなことじゃない。円谷君から事情は聞いています。もっと正直なところを話して下さい」
と、少し強く出た。
手塚は腕組みをして、
「僕の方から、沙恵子にああしてくれ、こうしてくれと頼んだことはありませんよ」
と言ってのけた。「沙恵子が僕のためにしてくれたことは、これはいわばプレゼント。そうでしょ? プレゼントには感謝の気持さえ持っていれば充分だと思いますがね」
愛想はいいが、口八丁で言い逃れるすべをよく知っているという感じだった。
「あなた、どこかに勤めて、コツコツとお金を返して行こうとは思わないんですか?」
手塚はちょっと笑って、
「僕はね、勤めにゃ向いてないんです。今度のことで良く分りましたよ」
「円谷君に、一緒に来てくれとも言っているそうですね。しかし、彼女には仕事があり、家族も友人もいるんですよ」
「何も誘拐しようっていうんじゃありません。大人ですよ、彼女は。いやなら自分で断りゃいい。ついて来るも来ないも、彼女が決めることでしょう」
スラスラと理屈は並べる。しかし、いかにもその話は薄っぺらだ。
「僕は、円谷君の言いにくいことを代って言っているんです。君も男なら、一人で何か始めて、その上で彼女を迎えに来るのが筋じゃないかな」
手塚は、少し黙って正巳を見つめていた。それから、足を組むと、声を上げて笑ったのだ。
「——何がおかしいの?」
円谷沙恵子は、気が気でない様子で、「せっかく金倉課長さんが足を運んで下さったのに」
「いや、知らなかったよ」
と、手塚は少し崩した口調で、「君が勤めを移ったのは、そういうせいもあったのか!」
「——何のこと?」
「こちらの金倉……正巳さんやらと君が、できてるってことさ」
正巳は唖《あ》然《ぜん》とした。
「それはとんでもない言いがかりだ!」
と、つい大きな声を出し、あわてて店の中を見回す。
「言いがかり、ね。そういうことにしておいてもいいですよ。しかし、わざわざ休みの土曜日にこうして出て来て、僕と会ったりする。何でもない男が、普通はそこまでしませんよ。違いますか?」
正巳は何とも言いようがなかった。きっとこの男は何を言っても信じないだろう。
正巳も、話している内にこの手塚という男が決して見かけ通りの愛想のいい人間でないことに気付いていた。
むしろ、外見だけは礼儀正しい分だけ、頭がいいのだろう。こういう相手には用心しなければならない。「問題を元へ戻しましょう」
と、正巳が言うと、
「戻すって、そりゃ都合のいい話だな」
「何が?」
「ご自分も沙恵子とのことをつつかれるとうまくない。違いますか? 当然、不倫の仲だろうからね。僕の借金のことに話を戻せば忘れられるってもんじゃありませんよ」
落ちつき払っているだけに、その言い方は正巳の神経を逆なでした。
正巳はそうささいなことで腹を立てる人間ではないが、こういう男を見ているとムッとしてくる。
「じゃあ、君としては円谷君に迷惑をかけているという気持は全くないわけだね」
「沙恵子は俺《おれ》のもんだよ」
突然、手塚は凄《すご》みのある口調になった。「俺の女に手を出すのなら、それなりの覚悟をしてもらわないとね」
人当りのいいセールスマンが居直り強盗になったようなものだ。——正巳は、こんなタイプの男を見るのは初めてだったので、さっきからすっかり面食らってしまっていた。
「金で決着をつけようじゃねえか」
と、手塚が言った。
「金?」
「まあ、まけて二千万だな。沙恵子を抱いた分、それくらいのことはしてもらわねえと」
もはや完全なヤクザである。
「何を言うの!」
沙恵子は手塚をにらみつけて、「金倉さんは善意で来て下さったのよ。あなたに、少しでも立ち直る気があるかと思って……。私が馬鹿だったわ」
沙恵子は立ち上ると、
「金倉さん、出ましょう」
と言った。
「しかし……」
ためらって見せたものの、正直ホッとして正巳は席を立った。
「伝票、持ってけよ」
と、手塚は言って笑うと、「けりはつけてもらうからな、課長さん」
もう話をする気もしなかった。
沙恵子が手早く支払いをすませ、金倉を促して、喫茶店を出た。
何かに追われているかのように、急ぎ足で歩いて行く沙恵子。正巳は少し後ろからついて行きながら、彼女にどう声をかけたものか、見当がつかなかった。
正巳は、こういう深刻な場面に出くわしたことがないのである。
沙恵子が足を止めたのは、電車が足下をくぐり抜けて行く陸橋の上だった。
手すりにもたれて、じっと下の線路を見下ろしている沙恵子に、正巳はどう声をかけたものか分らず、ただぼんやりと突っ立っていた。
電車が眼下ですれ違って行く。
沙恵子は振り返った。その拍子に、頬《ほお》を涙が伝い落ちる。
「円谷君……」
「すみません」
沙恵子は急いで涙を拭《ぬぐ》うと、「申しわけなくて、金倉さんに……。あの人があんなことを言い出すなんて……。信じられない!」
「まあ、悪い夢を見たと思って。——ね、ああいう男はもうだめだよ。得体の知れない、危ない男だ。君ももう近付かない方がいい」
正巳としては、そうでも言うしかなかった。
「ええ……。私もそう思います。——本当にすみません。わざわざ来ていただいたのに」
「いや、そんなことはいいんだよ」
正巳は、沙恵子が落ちついたようなので少しホッとした。
「あの——どこかでお茶でも? それとも私の部屋へ来ていただいても」
そう言われて、正巳はドキッとしたが、特別な意味はないのだと思い直した。
「いや、もう帰るよ。今から帰ったら、ちょうど夕食どきだろう」
と、腕時計を見る。
「あ、そうですね。皆さん、お待ちでしょうから」
「いや、別に僕を待ってるなんてことはないだろうけど」
「バス停までお送りします」
と、沙恵子は左右へ目をやって、「私、大分歩いて来ちゃった。道、お分りにならないでしょ?」
正巳は、方向に関しては至って弱い。
「うん……。じゃ、案内してくれるかい」
「ええ!」
沙恵子は笑顔になって、「金倉さんと一緒に歩けるなんて、嬉《うれ》しいわ」
「照れるよ」
と、正巳は苦笑した。
二人は、ぶらぶらと歩き出した。
「しかし——君、大丈夫かい?」
と、正巳は言った。「もしまた何か言って来たら……」
「ご心配なく。私、一人で何とかできます」
「そう?」
——正直なところ、「大丈夫でない」と言われたら困ってしまうところだ。
俺にはこんなこと、柄じゃないんだ、とつくづく思う。
沙恵子が足を止めた。
「ここ、私のアパートなんです」
結局、沙恵子のアパートに立ち寄ることになってしまった。
「せめてお茶だけでも……」
と、訴えるような目で見られると、正巳としても帰れなくなってしまったのである。
むろん、客として上ったところで、どうということはない。
こざっぱりと片付いた部屋だった。もっと可《か》愛《わい》い感じかと想像していたのだが、その意外さは決してマイナスのイメージではなかった。
「——どうぞ」
アップルティーの華やかな香りが部屋を満たすようだった。ていねいにいれられたアップルティーは、香ばしく、おいしかった。
「旨《うま》いね。疲れが取れる」
「そうおっしゃって下さると……」
沙恵子は喜んでいる。
「あの——手塚という男も、ここを知っているの?」
「ええ」
「引越した方がいいかもしれないね」
「でも……。あんな人のために逃げ回るのなんて、いやです」
と、沙恵子はきっぱりと言った。
「その気持だ。どんなに誘って来ても、はねつけるんだよ」
正巳は、沙恵子のような若い女性に頼られ、しかも尊敬されたという経験がない。加えて、沙恵子の控えめな性格は、正巳をくつろがせた。
「金倉さんは伊東さんと仲がいいんですよね」
「伊東君? ああ、そうだね。気持のいい人だよ」
「金倉さんって、大勢の女の子に頼られてるんですね」
「まさか」
正巳の言葉に、沙恵子はおかしげに笑い声を上げた。「そういうところが、金倉さんの人気の秘密なんですね」
「僕の人気?」
と、正巳は心からびっくりした……。
アップルティーを飲み干して、正巳は早々に失礼することにした。
——今度は、沙恵子がバス停まで送ってくれる。
「お気を付けて」
ちょうどバスが来て、正巳はちょっと残念な気がしたが、ともかく乗ることにした。
「じゃ、また何かあったら、いつでも相談にのるよ」
本当は「何もありませんように」と願っていた。
バスが走り出し、正巳が空いた席に腰をおろして、バス停の方を振り返ると、沙恵子が手を振っているのが目に入った。
「晩飯は?」
家へ帰った正巳がそう訊《き》くと、陽子は、
「あら、食べて来たんじゃないの?」
と、意外そうに言った。
別に皮肉めいても聞こえなかったので、正巳は内心ホッとした。正直、「仕事の打ち合せ」と称して土曜日に出かけるのはかなり辛《つら》かったのだ。
しかし、まさか円谷沙恵子に頼まれて、とも話せない。確かに、沙恵子の「彼」だった手塚という男の言ったように、休みの日にまでわざわざ出かけて行くとなれば、陽子だって不審に思って当然だったろう。
「おかず、残ってるから。——じゃ、すぐ温めるわ」
陽子は台所へ立って行った。
ホッとした正巳が着替えをしてダイニングへやって来ると、
「あなた」
と、陽子がため息をついて、「今、お義《と》父《う》さんからお電話で」
「親《おや》父《じ》から? 何だって?」
「今夜は友だちの所へ泊まるから、って。——前もっておっしゃって出かけられることはあったけど、突然になんて初めてよ」
「そうか……。しかし、まあ親父だって子供じゃない。仕方ないさ、放っとくしか」
「ええ……。そうは思うけど。何だか心配なのよ」
陽子が心配しているのは、今日のことだけでなく、アパートを借りたいと急に言い出したりしたからだ。その点は正巳も同様だったが、といって、子供の寄り道を叱《しか》るようなわけにはいかない。
「——ね、お母さん」
と、亜紀がTVから目を離して、「おじいちゃん、女の人のお友だちがいるんだよ」
正巳と陽子は目を見交わした。
「亜紀……。どうしてあんた、そんなことを知ってるの?」
母の問いに、亜紀は、祖父の茂也が女性と一緒にタクシーで帰って来るのと出会ったこと、そしてコンビニの前の公衆電話での話を立ち聞きしてしまったことを話した。
「本当は黙っててくれって言われたんだけど……。タクシーのときにね。でも、やっぱり話しといた方がいいと思って」
「そう。それでいいのよ。大丈夫、あんたから聞いたとは言わないし、いくら何でも、正面切って問い詰めたりしないから」
陽子は、亜紀がTVを消して自分の部屋へ行ってしまうと、夫に温めたおかずを出しながら、
「何とかしなきゃ」
と言った。「お義父さん、もともと真《ま》面《じ》目《め》な方だから……」
正巳だって心配だ。しかし、今は腹が空いて、それどころじゃなかったのである。