訪問客
あ、あの人だ……。
足音だけで誰と聞き分けられるなんてこと——。そんなの、歌の中ぐらいのもんだと思っていた。
でも、本当にこのとき、亜紀は、
「あの足音、君原さんじゃないのかな」
と思っていたのである。
いつもの土手の道を歩く亜紀、そこへ後ろから近付いて来る足音……。
「亜紀君!」
呼ばれて、びっくりする。
「君原さん!」
嘘《うそ》みたい。本当に? 振り返ると、確かに君原勇紀がトレーナー姿で走って来る。
「——やあ!」
と、追いついて足を止め、息を弾ませると、首にかけたタオルで額の汗を拭《ぬぐ》った。
「毎日、走ってるんですか?」
「もちろん。でも、君に会えないんで、つまらなかった。前はよく出会ってたのにな。知り合いになると、却《かえ》って会えないもんだね」
亜紀だって、もちろんこの君原にキスされたことを忘れてはいない。でも、あれから半月近くたっていたから、そう照れずにすんだ。
「あのコンビニ、行ってるかい?」
と、君原が訊《き》く。
「ときどき。あのときの強盗、どうなったのかなあ」
と、亜紀は思い出して、「何か表彰とか、されなかったんですか?」
学校帰りの亜紀は制服姿ではあったが、もう十月に入り、長《なが》袖《そで》に変っている。
「レジの子に名前とか訊かれたけどね。知らないことにしといてくれって頼んだ」
と、肩をすくめて、「あの男の子は?」
「モンちゃん? 今、クラブが忙しくて、遅いみたい」
門井勇一郎とはキスしたところを亜紀の母親の陽子に見られ、それ以来顔を合せていない。だから、「クラブが忙しい」というのも亜紀の想像だった。
でも、間違いでもあるまい。じき、十月十日、体育祭が近付いている。亜紀の所は女子校だから大したことをやるわけじゃないが、勇一郎の方はそうもいくまい。
並んで歩きながら、
「秋って、みんな元気になるんだ」
と、亜紀はため息をついた。
「元気になっちゃいけないみたいだね」
「夏バテしてるときなんて、余計なことする元気ないでしょ。でも、涼しくなるとみんなうちにじっとしていられなくなって……」
亜紀は憂《ゆう》鬱《うつ》そうな顔をしていた。
「何か心配ごと?」
「おじいちゃんが……。同居してるんですけど、ここんとこ、よく外泊してくるの」
亜紀の心配が、君原にはよく分らないようだった。
亜紀の説明を聞いて、君原は肯《うなず》くと、
「でも、大人同士のことだからな、干渉するわけにはいかないから」
「ええ、分ってるんです、それは。ただ、お母さんもお父さんも苛《いら》々《いら》してて。おじいちゃんのことで、こっちがもめるんだもの。それがいやで」
「なるほど。——その相手の女性って、会ったことあるの?」
「いいえ。おじいちゃん。絶対そんなこと、認めないもの」
亜紀は、土手の道を下りると、自宅への道を辿《たど》りつつ、「——君原さんに関係ないのに。ごめんなさい」
と言った。
君原のことを、よく知っているわけでもないのに、どうしてこんな話をしてるんだろう? つい何でもしゃべっていいような気がしてまうのだ。
「いいさ。君だって、誰か聞いてくれた方が気が楽になるだろ」
「ええ。でも……」
「ね、十日は体育祭?」
「そうです」
「じゃ、次の日は代休だろ? 何か予定はある?」
「いえ……。今のところ、別に」
「じゃあ、僕と付合ってくれないか。できれば夕ご飯まで。それがまずかったら、夕方までには送ってくるよ」
亜紀は、自宅の近くまで来ていた。
「それって……」
「デートの誘い。といって、危険はないよ。保証付さ」
亜紀はちょっと笑って、
「分りました」
「じゃ、いいんだね?」
「はい」
「電話してもいいかい?」
「ええ」
「やった!」
と、君原は飛び上ると、そのまま駆け出して行く。
亜紀が呆《あつ》気《け》に取られて見送っていると、君原はクルリと振り向き、駆け戻って来て、
「電話番号、聞いてなかった」
と、息を弾ませた。
亜紀がメモ用紙に番号を書いて渡すと、今度は振り向きもせず、一気に駆けて行く。
「——いいのかね、本当に」
と呟《つぶや》いたのは、OKした自分自身へだった。
さて、今日はお母さんもフランス語の教室だと言ってたな。
鍵《かぎ》を出して、玄関のドアを開けると、
「あの、ちょっと」
と、呼ばれて振り返る。
色白の、ふっくらとした女の人が、スーツ姿で立っていた。
誰だろう?
亜紀の見《み》憶《おぼ》えのない顔である。
「——何でしょうか?」
「あなた……ここの娘さん?」
年齢は三十くらいか。童顔なのでよく分らないが、ともかく身につけている物がスーツもバッグも、いかにも一流ブランドで、またそれがさりげなく身についている。亜紀にだって、そういう雰囲気ぐらいは感じとれるのである。
「そうですけど」
と、亜紀が答えると、
「そう! こんなに大きなお子さんがおありなのね」
と、しみじみとした口調。
「どなたですか?」
と、少し用心して訊く。
「お母様はお出かけね」
「ええ……」
「少しお話ししてもいいかしら」
「あの……」
「私、円城寺小百合といいます。お母様と、ちょっとふしぎなご縁があって」
何だかわけが分らないことに変りはなかったが、玄関前で立ち話というわけにもいかず、
「どうぞ」
と、亜紀は玄関のドアを開けた。
——制服を着替える間もなく、亜紀はそのお客にお茶を出す。
「ありがとう」
と、円城寺小百合はおっとりと微《ほほ》笑《え》んで、「偉いわね。おいくつ?」
「十七です」
「高校——二年生? いいわねえ、若いって! 私にもあなたぐらいのころがあったんだわ」
と、そっとお茶を飲んで、「突然伺ってごめんなさい。どんなおうちか見てみたくて」
「はあ……」
「あなたを見て安心したわ。とてもいいお母様なのね」
誉《ほ》めてもらうのはいいが、さっぱり状況が呑《の》み込めず、
「あの、母とはどういう……」
「何と言ったらいいのかしら」
と、少し首をかしげて、「私の夫が——円城寺裕《ひろし》といって、私より一回りも年上なんだけど、今、あなたのお母様とお付合いしているはずなのよ」
「お付合い……」
亜紀は、その女性の言うことが、すぐには呑み込めなかった。
「そう。——もちろん、あなたの所もお父様がいらっしゃるんでしょうけど、こういうことは常識が通用しない問題ですものね」
「あの……待って下さい!」
さすがに亜紀も焦った。お母さんが他の男性と?
——まさか!
「もちろん、あなたにはショックでしょうね。でも、大人になればきっと分るようになるわ」
円城寺小百合と名のったその女性、夫が浮気しているという話なのに、少しも怒りらしきものを見せない。
亜紀は、本来なら怒るか笑うかして、
「間違いです! そんなこと、あるわけないですよ」
と言ってやれば良かったのだ。
でも、そうできなかったのは、いつか母が妙なことを口走って——男なんて、みんな女を引っ掛けることばかり考えてる、とか何とか——動揺している様子だった日のことを思い出していたからだ。
でも、まさか……。本当にお母さんが?
「今日、お母様は?」
「あの——出かけてます。フランス語の教室に」
「主人は急にアメリカからお客様がみえて、そのお相手と言って出かけたわ」
亜紀は、何とか落ちつきを取り戻そうと努力した。
「あの……何かの間違いじゃないんでしょうか」
「だといいと思ってるのよ、私だって。主人に裏切られて嬉《うれ》しいなんて人、いないでしょうからね」
「ええ、それは……」
「でも、一《いつ》旦《たん》心が離れてしまったら、もう取り戻すのは無理。しがみつけばつくほど、相手は逃げて行くわ」
十七歳の、まだファーストキスから半月しかたっていない女の子には、やや理解の困難な話である。
「でも、心配しないで」
と、小百合は微笑んで、「私、あなたのお母様を相手につかみ合いをやったり、泣き喚《わめ》いたりはしないから」
そう聞いて喜べるものじゃない。
「私ね、どういうご家庭かと思って、それを見に来たの。あなたもとてもしっかりしてるし、これなら大丈夫だわ。安心よ」
「——何が大丈夫なんですか?」
「ご両親の離婚とか再婚とかがあっても、それであなたが家出したりぐれたりってことはなさそうですもの」
ずいぶん発想の古典的な人だ、と、こんなときなのに亜紀は感心したりしていたが——。
「ちょっと待って下さい! はっきりした証拠もないのに。今日だって、本当に母はフランス語へ、ご主人は仕事に出られてるのかもしれないでしょう?」
おじいさんは山へ柴《しば》かりに、おばあさんは川へ洗濯に——。何考えてるんだ、全く!
ともかく、亜紀はすっかり混乱してしまっていた。
「信じたくない気持はよく分るわ」
と、小百合は肯《うなず》いて、「信じるも信じないもあなたの自由。そう考えてね」
「でも——聞いちゃったのに、知らないことになんかできません」
と、亜紀は言い返して、「あの……ともかくもう少し事実を確かめた方がいいんじゃないですか? もし間違いだったら……」
「どうでもいいのよ。私、どうせもうじき死ぬんだもの」
「だからって、物事は——。今、何て言ったんですか?」
亜紀は耳を疑って、「『死ぬ』って……。そう言ったんですか?」
「ええ」
と、小百合はあっさりと言った。
「どこか、具合でも悪いんですか」
「私、自分がいない方がみんな幸せになると分ってるのに、図々しく生きてることなんてできないの。自殺しようと思って、ほら、こうやって遺書を持って歩いてるのよ」
と、バッグから手紙らしきものを取り出す。
亜紀は段々くたびれて来た。——何考えてるの、この人?
「私にも……あなたみたいな娘があったらね……。死のうとは思わないでしょうに」
小百合の顔に寂しげなかげが射す。
それを見て、亜紀は胸をつかれたような気がした。
——この人は、決して「おかしな人」じゃない。ただ、生きる目的を失っているのだ。
大人を相手に、十七歳の女の子がこんなことを考えるのは変だろうか?
でも、たとえ本物の(というのも変だが)恋に苦しんだことがなくても、愛する人を失う辛《つら》さは理解できる。
「円城寺さん——でしたっけ」
と、亜紀は言った。「私も、母が本当はどうなのか、知りたいと思います。知らずに、疑って苦しんでるなんて、つまらないと思うんです。だから——調べてみません?」
「調べる?」
「ええ、母とあなたのご主人が会ってるのかどうか。私、やってみたいんです」
小百合はポカンとしていたが、
「でも、どうやって?」
「もちろん、後を尾《つ》けたり、見張ったりするんです。TVで探偵がやってるみたいに。どうですか?」
「そんなこと……できるかしら?」
「できますよ! ——私は学校があって、普通の日は休めないけど、土曜日の午後とか日曜日とかなら……」
「私は、たぶん……毎日暇なの」
と言って、小百合は思いがけず笑った。「あなたって、面白い子!」
亜紀も、何だか楽しくなった。
まるでTVドラマの中に飛び込んだみたいだった。
亜紀は、小百合から夫、円城寺裕のことを色々教えてもらい、メモを取った。
「——四十三歳。社長。車はBMW。容姿も抜群か。もてて当り前だなあ」
と言ってから、「あ、ごめんなさい」
「いいえ。——もともと、女性関係の絶えない人だったの」
と、小百合は大して気にとめない様子で、「でもね、私みたいな女は珍しかったんでしょうね。もちろん、あの人に恋してたけど、積極的に近付こうとしたわけでもないし、大体、こんなでしょ。目立たないの、どこにいても」
「そんなことないですよ」
と、亜紀は言った。「とっても可《か》愛《わい》いと思うな、奥さんって」
「まあ、ありがとう」
と、小百合は嬉しそうに言った。
「じゃ、今度、ご主人の写真を見せて下さい。顔、知ってた方がいいでしょ。うちの母の写真、見ます?」
どうしてこうも張り切っているのか、自分でもよく分らなかった。
ともかく、この奥さんが自殺しようというのを、やめさせたいと——そう思っていたことは確かである。
亜紀と母が二人で並んだ写真を一枚持って来て見せると、
「まあ、チャーミングな方!」
「今ごろクシャミしてますね」
小百合が笑って、
「あなた、お母様に似てるわね」
「そうですか?」
「私からあなたへ連絡するときはどうしましょうか?」
亜紀は少し考え込んで、
「ポケベルにかけてもらっても……。これ番号です」
「そういうの、よく分らないの」
「じゃあ……。電話して下さってもいいですよ」
「でも、おかしいでしょ」
「顔、見えないんですもの! 友だちみたいなふりしてれば」
「友だち?」
「『亜紀、います?』って感じで。『小百合ですけど』ってやれば、どこかの〈小百合ちゃん〉だと思いますよ」
「そんなこと……。できるかしら?」
「やってみます? 少し甲高い声で、ハイ!」
「あ……あの……恐れ入りますが……」
「だめですよ、そんなんじゃ。ポンポンと弾《はじ》ける感じで」
——結局、円城寺小百合と亜紀は、一時間近くも電話のやりとりの訓練をくり返したのだった……。