辞職願
「金倉さん」
呼びかけられて、金倉正巳は、出かけた欠伸《あくび》を呑《の》み込んでしまった。
「——何だ、伊東君か」
ホッと息をつき、「別に見られてまずいことしてたわけじゃないんだが」
いちいち言いわけなどしたら、却《かえ》って怪しいと宣伝しているようなものである。
正巳は、人事課のファイルを調べていたのだった。むろん、正巳とて課長。ファイルを見るのに気がねする必要もないのだが、つい……。
「何か調べもの?」
と、伊東真子は訊《き》いた。
いつになく真剣な表情だ。
「まあ……。ちょっとね」
とっさに、まことしやかな理屈を思い付くほど器用な正巳ではない。特に、同期のベテランが相手では、すぐ見抜かれてしまうだろう。
——午後の三時を少し回ったところ。みんな一息入れて、お茶など飲んだりしているので、二人が話しているのを聞かれる心配はなかった。
「金倉さん」
と、伊東真子は声を低くして、「もしかして、円谷さんのことを調べてるの?」
「え? どうして——」
と、反射的に言いかけて、「どうして……知ってるんだ?」
隠せないのだと悟って仕方なく訊く。
「でも、何もやましいことはないんだよ。本当だ」
「分ってるわ」
と、真子は肯《うなず》いた。「そういうことを上手にやれるあなたじゃない。だからこそ心配なの」
正巳は、ファイルを閉じると、
「この三日間、彼女、無断欠勤だろう。どうしたのかと思って」
「円谷さんを、どうして?」
と、真子は素直に訊いて来た。
「彼女が困ってると言うんで、相談に乗った。それだけのことさ」
正巳は、円谷沙恵子が以前の勤め先のときの恋人につきまとわれて困っているのだ、と事情を少し省略して説明した。真子も、しつこく訊こうとはせず、
「そういうことなの。まあ、あなたらしい話ね」
「いや、本当はそんなの一番向いてない人間なんだけどね」
「それも同感」
と、真子ははっきりしている。「円谷さんのアパートに連絡したの?」
「うん。電話しても出ないしね。家族とか、親類とか、何か分る人がいないかと思って、捜してたんだ」
伊東真子は、少しの間黙っていた。
正巳はその沈黙の意味を感じ取っていた。やはり真子とは長い付合いだから分るのだろう。
「何か知ってるんだな? 教えてくれよ」
「本当は言っちゃいけないんだろうけど……」
と、少しためらいながら、「円谷さんから、郵便で〈辞職願〉が届いたの」
「何だって?」
正巳は唖《あ》然《ぜん》とした。「彼女が辞める?」
「上の方でも困ってるわよ。突然言われてもね。しかも理由ったって、『一身上の都合』だけ。事務の引き継ぎもあるし、一度は出勤して来てもらわないとね」
正巳は考え込んでいたが、
「何かあったんだ。きっとそうだ。——な、伊東君、円谷君と話したことないのか?」
「私はさっぱり。——ただ、あなたと彼女が親しいって、社内の女の子の間では噂《うわさ》だから」
正巳はびっくりした。親しいなんて言われても、個人的に話をしたのはこの間が初めてである。
あの手塚良一という男と会ってから、もう半月。その間、沙恵子は少しの変りもなく働いていたし、正巳とたまにすれ違うことでもあると、ちょっと微《ほほ》笑《え》んで見せたりしたが、特に話したことはない。
正直なところ、あの手塚のことでこれ以上係《かかわ》り合いたくないと思っていた正巳はホッとして、あえて沙恵子に「その後どうなったのか」訊こうとも思わなかった。
「じゃあ、円谷さんが辞めるって言って来たの、金倉さんのせいじゃないのね。良かった!」
真子が息をつく。
「おい……。まさか本気で僕と円谷君が——」
「あなたはどうでも、彼女の方は『気があった』かもよ」
「——まさか」
「目つきで分る。女は女同士、敏感なのよ」
正巳は、しかし、沙恵子と手塚の間の詳しい話は、いくら真子にでもしゃべる気になれなかった。そこまではできない。
「——伊東さん、お電話です」
と、呼ばれて真子は、
「今行く。——じゃ、気を付けて。一《いち》途《ず》に思い詰めるタイプの女は怖いわよ」
冗談半分、本気半分の口調でそう言って、真子は行ってしまう。
正巳は、ゆっくりとファイルを棚へ戻した。
——沙恵子が辞める。
しかも、辞め方が普通でない。おそらく手塚が絡んでいるのだ。
しばらく迷っていたが、正巳は沙恵子のアパートへ行ってみようと決めた。
正巳が円谷沙恵子のアパートへやって来たのは、八時を少し回ったころだった。
もっと早く着くつもりだったのだが、あいにく五時の終業間際に仕事が入って一時間ほど出られなかったのである。
家には、
「友だちと飲んで帰る」
と、電話しておいた。
——そう、ここだ。
沙恵子の部屋の前に来て、正巳はチャイムを鳴らそうとしたが、表札がなくなっているのに気付いて手を止めてしまった。
いなくなってしまったのだろうか? 引越したのか?
当然、真先に思い浮かべたのは手塚のことである。
あの男もこのアパートを知っている。沙恵子にしつこくつきまとったり、いやがらせをしていたとしてもふしぎではない。
結局、沙恵子はそれに堪えかねて引越すことにしたのではないだろうか。
だが、それならそうとなぜ一言も言わなかったのか。正巳が心配することは分っているはずだ。
念のためチャイムを鳴らし、ドアを叩《たた》いてみたが、返事はなく、正巳は諦《あきら》めて帰ろうとした。こんな風に姿を消したのでは、引越先も言い残していないだろう。
だが——ドアの前を離れようとして、正巳は廊下をやって来た沙恵子と顔を合せていたのである。
「——金倉さん!」
「円谷君、君……」
「あの……。わざわざ来て下さったんですか」
「君が辞職願を郵送して来たと聞いてね。何があったんだ?」
沙恵子は目を伏せて、
「すみません」
と言った。「金倉さんに黙って行ってしまうの、心残りだったんですけど、どう言っていいのか分らず……」
並びの部屋のドアの開く気配に、沙恵子は急いでドアの鍵《かぎ》をあけ、
「中へどうぞ」
と、正巳を入れた。
正巳は、部屋の中を見回し、前に上ったときと少しも変っていないのを見てホッとした。
「——あの、手塚って男と何かあったんだろ?」
と、正巳は畳にあぐらをかくと、「しかし逃げても追いかけて来るんじゃないか? 警察にでも相談したらいいよ。どこへ越しても、びくびくして過さなきゃならないなんて、馬鹿らしいじゃないか」
沙恵子は身を縮めるように正座して、しばらくじっと畳の面を見つめていたが、やがて肩を小刻みに震わせて、泣き出してしまった。
正巳は面食らってしまった。
むろん沙恵子がどうして泣き出してしまったのか、心配でもあったが、およそ女性を泣かせたなどということのない正巳としては、何よりもまずびっくりしたのである。
「ね、君……。円谷君、落ちついて。大丈夫。大丈夫だから落ちついて」
よっぽど当人の方があわてている。
しかし、沙恵子は涙を押さえて、
「ごめんなさい」
と、座り直した。「金倉さんがそうして心配して下さっているのに……。でも、お話ししたらきっとお怒りになるから」
「僕が? どうして僕が怒るんだい」
「あの……」
と、ためらってから、「私、やっぱり手塚について行くことにしたんです」
正巳は言葉を失った。まさか沙恵子から、そんな言葉を聞こうとは思わなかったのである。
「そうか……。いや、もちろん——君がそう決めたと言うのなら、僕がそれにとやかく言う筋合はないよ」
とは言ったものの、当然気分はすっきりしない。「しかし——あの男がちゃんと働いてくれるのかね。何か当てはあるのかい?」
「まあ……」
沙恵子はチラッと目をそらして、「ともかく、なるようにしかならないんです」
「そんな……。投げやりな言い方は君らしくないじゃないか」
「金倉さん」
沙恵子が真《まつ》直《す》ぐに正巳を見て言った。「私、金倉さんのことが好きなんです」
「——何だって?」
耳が遠いわけではない。あまりに聞き慣れない言葉を耳にしたからである。
「私、金倉さんのことを好きになってしまったんです」
と、沙恵子はくり返して、「どうして、って訊《き》かないで下さい。理由なんて分らないんですから」
「ああ……。でも……」
「だからこそ、手塚と行くことにしたんです。許して下さい」
正巳にはやはり、さっぱり分らない。
「そんなことが……。いや、誠に嬉《うれ》しい話だけどね。だけど、それと手塚のこととどういう関係が?」
沙恵子は微《ほほ》笑《え》んで、
「そういうところが好き。本当に素直なんですもの、金倉さんって」
何となく、「単純だ」というのを別の言い方で聞かされたような気もしたが、
「僕は、自分が無器用だと思っているだけさ。だから、本当のことを言ってしまわないとね。どうせ嘘《うそ》なんかついたって、すぐばれちまう」
と、肩をすくめた。
「私が会社を辞める決心したのも、手塚について行くことにしたのも、金倉さんが好きだから」
沙恵子の言葉に、正巳はますますわけが分らなくなって、
「ということは……」
「金倉さんの身に何かあったら、私、自分のことが許せませんもの」
正巳は愕《がく》然《ぜん》とした。
「君の言う意味は——」
「ええ、手塚が言ったんです。『お前の彼氏を生かしちゃおかないぞ』って。あの人、やけになっていますから、きっと本当にやります」
「僕を——殺すって言ったのか。じゃ、警察へでも訴えればいいじゃないか」
「無理です。男と女がケンカしてるだけ、なんてことに警察はのり出してくれませんわ」
と、沙恵子は首を振って、「もし、本当に手塚が金倉さんを殺しでもしたら、もちろん捕まえてくれるでしょう。そんなことにはしたくありません」
正巳はしばし言葉を失っていた。
だが、自分のために沙恵子がそんな男について行くというのは間違っている。それぐらいのことは正巳も分っていた。
「いけないよ! 手塚についてって、君の一生が台なしになったら……。それこそ、僕は後悔することになる。ともかくだめだ。絶対に行っちゃいけない」
我ながら、説得力がないとは思っていた。何といっても、沙恵子は単なる「同僚の一人」にすぎない。正巳は恋人でも何でもないし、そうなることもできなかった。
沙恵子が「好き」と言ってくれていても、正巳には家庭があるのだ。
「何か方法を考えよう。ね、円谷君」
と、自分で肯《うなず》き、「うん、そうだよ。何かいい方法があるはずだよ」
——しばらく沈黙があって、沙恵子はハッと顔を上げると、
「いけない! 金倉さん、もう行って下さい。もしかしたら……」
「手塚が来るのか?」
沙恵子が黙って肯く。——正巳は深呼吸して、
「よし! 僕が話をつけようじゃないか」
と言った。「一対一だ。君をこのまま行かせるなんてこと、できゃしない」
「とんでもないわ!」
沙恵子の方が青くなって、「やめて下さい。手塚はまともじゃないんです。金倉さんが大けがして——いいえ、きっと殺されるわ! お願いです、帰って下さい」
と、腰を浮かす。
しかし、正巳は聞かなかった。そして、そのとき、廊下を近付いてくる靴音が聞こえてきたのである。
「金倉さん——」
沙恵子が言葉を切った。
靴音はドアの前で停って、軽くノックの音がすると、「沙恵子、俺《おれ》だよ」
手塚の声だ。
正巳は、「一対一で話をつける」なんて言っていたものの、いざとなると青くなっている。それが当然ではあろう、何しろ、沙恵子の話では「正巳を殺してやる」と言っているのだから。
「こっちへ!」
沙恵子は押し殺した声で言って、正巳の腕をつかんで立たせると、「押入れに隠れて下さい!」
「しかし——」
「お願いです。言う通りにして」
正巳は、言われるままに押入れの中へ身をかがめて入ると、
「円谷君——」
「しっ。動かないで下さい。ね?」
襖《ふすま》を閉められ、正巳は真暗な押入れに一人、立て膝《ひざ》を抱えて座っていることになった。
「——何してんだ」
手塚が入って来た。
「トイレに入ってたのよ」
沙恵子はそう言って、「ね、今夜は発てないわ」
正巳は、じっと耳を澄ました。しかし、音をたててはいけないと思うと、ますます緊張してしまうものだ。
「どういうことだ?」
「銀行が閉まっちゃったの。キャッシュカードを忘れて三時過ぎちゃって。現金なしじゃ、どこへも行けないでしょ。明日、朝おろしてくるから、それから出かけましょ」
沙恵子は、さりげない口調である。
手塚は信じるだろうか?
「一日でも遅れりゃ、やばくなる。分ってるだろ?」
と、不服そうだが、「ま、金なしじゃすぐにも困るしな」
「ええ。大丈夫よ、私が会社辞めたってことが分るのはずっと先」
「ま、いい。——じゃ、今夜は泊ってっていいな?」
正巳はドキリとした。
「だめよ。一晩かかって荷物の整理をしなくちゃ。女には、色々必要な物があるのよ」
「何だ、冷てえな」
と、手塚はすねたように、「じゃ、一回抱かせろよ」
「ちょっと……。だめよ、服が……。しわになるでしょ。——痛いわ」
正巳は、手塚が沙恵子を押し倒したらしい様子に、カッと顔が熱くなった。
「待って。——ね、待ってよ」
沙恵子が、何とか逃れようとしている。
「いいだろ? 布団敷けよ、早く」
手塚の言葉に、押入れの中の正巳は息をつめた。押入れを開けられる!
「じゃ、何か食べてから。ね?」
と、沙恵子が言った。「お腹が空いて、そんな気分になれないの。近くで何か食べましょうよ。戻って来てからゆっくり……。ね?」
「フン」
と、手塚は鼻を鳴らして、「ま、それならそれでもいいぜ。その代り、たっぷり可《か》愛《わい》がってやる」
「もちろんよ。そのスタミナのもとを補給しないとね。——さ、出かけましょ。お財布、持ったから」
沙恵子が促して、玄関のドアの開く音がした。
「何を食べる? 五分くらい歩くけど、中華のおいしいお店があるわ」
沙恵子の声が少し遠く聞こえ、鍵《かぎ》のカチャリと回る音。
足音が遠ざかって、正巳は押入れの中で汗を拭《ふ》いた。
そっと押入れから出てみると、明りはついたまま。
正巳は、少しの間突っ立っていた。どうしたらいいのだろう?
沙恵子が正巳を逃がそうとして、手塚を食事に連れ出したことは確かである。正巳に、その間に出て行ってくれ、というわけだ。
しかし、それは沙恵子を見捨てることになる。しかも、そのために沙恵子は手塚に抱かれなければならない。正巳のことを好きだと言いながら、あんな男のなすがままに……。
正巳は怒りを覚えた。何とかして沙恵子を救いたい。いや、救わねば男とは言えまい。
だが——冷静に考えて、正巳には手塚を相手に命をかけた決闘なんかする力はない。
刃物を振り回し、人を傷つけるなんてことができる自分でないと分っている。
そうだ。何か他の手段を考えよう。今はとりあえず引き上げて……。
正巳は重苦しい気分で、玄関へ出た。正巳の靴は、靴箱の中へしまってあった。
沙恵子のアパートを出た正巳は、風に吹かれて、熱かった頬《ほお》が冷えていくのを感じた。
俺に人助けなどできるか?
とても、そんな柄じゃない。沙恵子のことだって、しょせんは他人である。
後ろめたい思いを抱えつつ、正巳は夜道を歩き出した。
そして、少し歩いたところで、街灯の下に立っている男に気付く。
「——やあ、金倉さん」
手塚だった。「押入れの中は窮屈だったでしょう」
手塚が楽しげに笑う。正巳はもう逃げられないのだと悟った。