体育祭の朝
何も、こんなにお天気の方で気をつかってくれなくたって……。
本当に、そう言いたくなるような快晴の一日。——十月十日。体育祭の日である。
亜紀の高校は女子校だから、体育祭といっても、至っておとなしいものだが、それでも朝は、いつになくスッキリと目が覚めて、
「おはよう!」
と、母の陽子へ声をかけた。
「おはよう。いいお天気になったわね」
陽子はお弁当を作っている。
「凄《すご》いなあ。そんなに色々作んなくてもいいよ」
「おじいちゃんの所へ持って行くのと一緒よ」
と、陽子は笑って言った。「早く仕度しなさい」
「うん」
手早く顔を洗って、朝食をしっかりとる。
「いつもそれくらい寝起きがいいといいのにね」
と、陽子に言われてしまった。
「お母さん、無理しないでね。おじいちゃんの所にも行くんでしょ?」
「体育祭がすんでからで充分。帰りに寄ってくるから、あんたは先に帰ってて」
「分った。——お父さんも来るの?」
「そのはずよ。起してくれって何度も念を押してたから」
もちろん、亜紀だって両親が見に来てくれたら、それはそれで嬉《うれ》しい。
特に、祖父、茂也が倒れて入院してからは、母も毎日病院へ通っていて大変だ。こういうことで気分を変えるのもいいのかもしれない。
茂也の病状は幸いたいしたことがなく、言葉もちゃんとしていたが、左半身にしびれがあるということで、脳の精密検査を受けることになっていた。
病院には藤川ゆかりが毎日ほぼずっと付き添っていて、陽子も助かっているようだった。
茂也と彼女のこともはっきりさせなくてはならないのだろうが、差し当っては、入院という突発事で「休戦状態」というわけである。
「——あら、電話。出てくれる?」
と、おにぎりを結んでいた陽子が言った。
「うん」
亜紀が急いで出てみると、
「やあ。今日の体育祭、頑張って」
君原勇紀である。亜紀はポッと頬《ほお》を赤くして、
「ありがとう」
と、言った。「大したこと、しないのよ」
「でも、一生懸命やれよ。そうすれば思い出になる。手を抜いて、いい加減にやったら、すぐ忘れちまう」
君原の言葉は素直に亜紀を感動させた。
「うん。頑張るわ」
「おじいさんの具合、どうだい?」
と、君原が訊《き》く。
入院したことを電話で話してあったのである。土手で会ってからは、まだ顔を見ていない。
「気長にしないと無理みたい」
「明日、出かけられる? まずいようなら——」
「大丈夫よ」
と、亜紀は急いで言って、チラッと台所の母の方へ目をやる。「今夜、電話くれる?」
「うん。それじゃ、遅れないように」
「ありがとう」
そっと受話器を置く。いつもの友だちのときはもっと乱暴に切っているが、相手が君原となると大違いだ。
「誰から?」
と、陽子が言った。
「うん、クラブの子」
と、いい加減な返事をして、「もう充分食べた。コーヒー一杯飲んだら出かけるね」
「そうして。今、お弁当くるむわ」
陽子はバタバタと忙しくしているのが結構楽しそうだった。
「——起きてたのか」
と、父の正巳がパジャマ姿で欠伸《あくび》しながらやって来る。
「無理しちゃって」
と、亜紀は笑った。「そんなに急がなくても、私が出るの、お昼少し前くらいだから」
「入場行進から見る! なあ、母さん」
「そうね。もうあと何回そんなもの見られるか……」
亜紀は、ちょっとドキッとした。自分ではそんなこと、考えてもみなかった。
幼稚園のころから「運動会」があって、毎年毎年、いい加減飽きるくらいやって来た。
友だちでも、
「こんなもん、早く無くなってほしいよね」
と言う子が多いし、亜紀だってそう思わないわけでもない。
しかし、親の立場になってみれば、もう子供の「運動会」がないというのは、何か寂しいものなのかもしれない。自分が親になったら、我が子がヨタヨタと駆ける姿に必死で声援を送るのだろうか……。
「——早く行かないと、いい場所が取れないしな」
と、正巳は言った。「おい、顔を洗ってくる。俺《おれ》は向うへ行ってから食べる」
「そうする?」
亜紀は、何となく申しわけないような気分になっていた。祖父の入院で、みんな——といっても、母が一番だが——時間を取られているのに、こうして朝早く起き出して……。
親って大変だな、と亜紀は思った。
正巳と陽子が、お弁当だのポットだのを抱えて家を出たのは、亜紀を送り出して三十分後だった。
車で行くわけにはいかない。却《かえ》って時間もかかるし、駐車する場所もない。
「忘れもの、ないわね。——ちゃんと鍵《かぎ》もかけて来たし、大丈夫」
と、陽子は確かめるように言った。「あなた、眠いでしょ」
「いや……。まあ会社へ行くことを思えばな」
と、正巳は言って、カメラを見ると、「電池、大丈夫かな? ——よしよし」
「フィルム、入ってる?」
と、陽子がからかうように言った。
二人は、少し足どりを速めて駅へと向った。
「今日は運動会、多いわよね」
と、陽子はすれ違う家族が、やはりお弁当らしい包みをさげているのを見て言った。
近くの小学校でも運動会なのだろう。
まだ低学年の子が、すっかり運動会のいでたちに、オレンジ色のはちまきまでしめて母親に手を引かれてスキップして行く。
同じような家族同士、あちこちで、
「おはようございます」
「ご苦労さまです」
と、挨《あい》拶《さつ》を交わしている。
「——思い出すわね、亜紀もあんなだった」
と、陽子が言った。
「ああ」
正巳が笑って、「小さいころは、こっちも張り切ってたな。お父さんたちのかけっこがあったりして」
「そうだったわね。一人、心臓の発作起して、救急車呼んで大変だったじゃない。私、役員だったから、どうしようかと思ったわ」
「そんなこともあったな」
正巳は空をまぶしげに見上げた。
亜紀も元気に育って、もう十七。立派に女らしくなった。
だが——正巳は、あの出来事を思い出すと胸が重苦しい鉛のようになって、足どりさえ重くなるのだった。
手塚の死体を川へ投げ捨ててから何日かたった。——円谷沙恵子は、その後一度だけ会社へ顔を出して、辞めて行ったので、連絡は正巳の方から電話するしかない。
何度か電話してみたが、今のところ、何も変ったことはないという話だった。
毎日、新聞を見ているが、死体が上ったという記事は目に付かない。川の底へ沈んだのか、それとも流されて遠くへ行ってしまったのだろうか?
いずれにしても、このまま忘れられてしまえばいい、と……。正巳は祈るような思いでいたのである。
正巳と陽子は電車で亜紀の学校へと向った。
祭日なので電車は空いているが、それでも運動会や行楽の家族連れで結構席は埋っていた。
「あなた、そこ一つ空いてるわ」
と、陽子が言った。
「お前が座れよ」
「でも、あなた、疲れてるでしょ」
「おい、毎日この何十倍も人の詰った電車で通ってるんだ。立ってるのなんて、どうってことない。座れよ」
「でも——眠ってけば? 三十分くらいは眠れるわよ」
「お前もここんとこ病院通いでくたびれてるだろう」
と、二人でやり合っている内に、大きな荷物を抱えたおばさんが来て、さっさと座ってしまった。
正巳と陽子は顔を見合せ、笑い出した。
「——立ってると、外もよく見える。気持いいじゃないか」
「そうね。今日は本当に運動会日和だわ」
と、陽子が微《ほほ》笑《え》んで、車外を流れ去る緑の多い郊外の風景を見やった。
ゴトゴトと音がして、鉄橋を渡る。河川敷では野球をしている子供たちのユニフォームの白さがまぶしいようだった。
川……。正巳は、川を見るとまたあのことを思い出す。
手塚を殺したことに、そう罪の意識はない。殺す気など全然なかったのだ。
むしろ、手塚の方で勝手に「死んでしまった」ようなものだった。
だが——万一、死体が上って他殺ということになり、正巳が殴ったことが分れば、そんな言い分は通らない。それくらいのことは正巳にも分っていた。
あのとき、警察へ届けていれば、とも思う。しかし、もう手遅れだ。
今となっては……。
正巳はそっと陽子の横顔を見た。
もし俺が「殺人容疑」で逮捕されたりしたら……。陽子や亜紀はどうなるだろう?
当然会社はクビだ。殺意はなかったとしても、死体を川へ捨てたりしているのだから、無罪放免というわけにはいくまい。
沙恵子が証言してくれて、正当防衛が認められたら……。いや、日本では「正当防衛」の主張はめったに通らないのだということぐらいは知っていた。
——そうだ。何としても隠し通すのだ。
自分がやったという証拠など、今から出るわけがない。もし調べられたとしても、あくまで、
「知らない」
と言い通そう……。
「——あなた、どうしたの?」
と、陽子が心配そうに言った。
「何が?」
と、正巳は訊《き》き返した。
「今、凄《すご》く怖い顔してたわよ」
と、陽子は心配そうに、「何か仕事のことで問題でも?」
「いや、そうじゃない。これが普通の顔さ」
と、笑ってごまかす。
「それならいいけど……」
陽子は、再び車窓の外の風景へ目をやった。
——この人は気付いてるんだろうか?
私が円城寺裕と付合っていることを。
付合っているといったところで、陽子は円城寺と、いわゆる「深い仲」になったわけではない。
陽子の方で、
「そういうことを求めるなら、すぐお付合いをやめます」
と言ってあるのだ。
じゃ、なぜ付合っているのか? ——陽子としては「浮気」でない男の人との付合いがあってもいいじゃないか、と思っている。
そう。それは確かにそうだ。向うも、単に浮気相手を求めているのなら、いくらでも若い女の子とデートできるだろう。
——正直なところ、陽子は円城寺の「グチの聞き役」をしているようなものだ。妻の小百合が神経を病んで、いつも気をつかっていなければならないので、円城寺は疲れている。
陽子のような同年代の女でなければ、そんな苦労話を長々と聞いてはくれないだろう。円城寺が、
「若い子たちと出歩くと、正直、気分は活き活きして来ますがね、でも向うは気をつかってくれて当然と思ってる。結局、こっちはくたびれるんですよ」
と、苦笑いするのも分る。
でも、その代り陽子は、今まで足を踏み入れたこともないような有名なレストランや料亭に連れて行ってもらっている。
正巳に対して申しわけないという気持もないではない。ただ——何というか、陽子は「人助け」をしているような気持でいるのである。
円城寺は、色々胸にわだかまっていることを、すっかり打ち明けると、いつもさっぱりした表情になって別れて行く。
そして陽子も、ああ良かった、と満足する。
——人に話しても信じてくれないかもしれないが、本当に手を握られたことさえない。
そんな付合いがいつまで続くものやら、陽子自身も見当がつかないでいるのだが……。
「——じきだな」
と、正巳が言って、陽子はハッと我に返った。
「この次の駅だわ」
陽子はそう言って、とりあえずは体育祭のことだけ考えよう、と思ったのだった。