お祭すんで
二、三歩駆け出した亜紀の手に、走者のバトンが渡る。
「頑張れ!」
誰が誰を応援したのか。ともかく、自分が言われたような気になって、亜紀は両手を大きく振りながら全力で走り出した。
亜紀のチームは今、三位。前に二人いるわけだが、そう離れていない。
チームの二年生では亜紀が最後のランナーで、三年生へバトンタッチすることになる。
ここで一人でも抜いておかないと最後はきつくなる。——行け!
トラックの直線から半円のカーブに入るところ。みんなスピードが落ちる。亜紀は思い切って内側ぎりぎりの所へ突っ込んで行った。
前の子が恐れをなしたのかコースを譲って、亜紀は一人抜いた。
前を行くトップの子が、チラッと後ろに迫る亜紀の方を振り向いて、その拍子にバランスを崩し、転びそうになった。
アーッという声が生徒の間から上る。
トップの子は転ばずにすんだが、その間に亜紀はぐんと差をつめていた。
後は直線で五十メートル。亜紀は、君原の言ったことをふと思い出した。
一生懸命やれば思い出になる。
そう。二年生の体育祭は今日、この一日しかないんだ。
亜紀はスパートをかけた。生徒たちがどよめく。抜きそうだ。——やれる!
亜紀はついに前の一人を抜いて、トップに立った。
ワーッと歓声が上った。——あと十メートル! 三年生が手を振って待ち受けている。
バトンを持った手を精一杯伸ばし、三年生の手にスパッと叩《たた》き込むように渡した。
「やった、やった!」
ミカが駆けて来ると、「亜紀! 凄《すご》い!」
と、抱きついた。
急にめまいがして、亜紀はその場に座り込んでしまった。
リレーがその後どうなったか、そんなこと見てる余裕もなかった。汗がふき出し、心臓は破裂しそうで……。
「——勝った! 一等だよ! 亜紀、やったね!」
ミカの興奮した声が、何だか遠くに聞こえていて……。
「——もう大丈夫」
亜紀は、母からもらったお茶を一気に飲み干して言った。
「貧血起すまで頑張らなくたって」
と、陽子は笑って、「でも、よくやったわね」
校庭にはもう後片付けをする、数えるほどの人しか残っていなかった。
亜紀の頑張りで、リレーに勝ったものの、チームそのものは二位に終った。
けれども、もしリレーで負けていたらもっと下位になるところだったので、その点では亜紀の活躍が大いに貢献したことになる。
少々の貧血ぐらいはやむを得ないというものだったろう。
「——お父さん、病院へ先に行ったわよ」
と、陽子は言った。
「うん。お母さんも行けば? 私、一人で帰れるから」
「だめだめ。電車の中ででも、また貧血起したらどうするの? お母さんは明日でもまた行くからいいのよ」
「でも——」
と言いかけたが、こうして自分のことを心配してくれるのも母の楽しみなのだろう、と思い直して、「じゃ、今夜はお寿《す》司《し》でも取って食べよ」
「よく入るわね」
「あれだけ走ったんだから!」
と、亜紀は笑って言った。「——じゃ、校門の辺りで待っててくれる? 私、着替えてくるから」
「ええ、いいわよ。急がなくても大丈夫よ」
と、陽子が言ったときには、もう亜紀は校舎へと駆け出していた。
陽子は苦笑して、のんびりと校門の方へ歩いて行く。一日、日なたにいて少し焼けたのか、顔が熱い。
でも——あの子、あんなに走れるなんてね。陽子はいささかびっくりしていた。何でも分っているつもりの我が子でも、知らないことがいくらもあるのだ。
そう。——亜紀が幼なじみの門井勇一郎とキスしているのを見たときはギョッとしたものだが……。
みんないつまでも子供のままではいない。頭ではそう分っていても、現実にあんな場面に出くわすとショックである。
でも、その意味では、陽子自身も夫以外の男性と出歩くという、以前なら想像もしなかったことをしている。そして、実際にやってみると、それはごく当り前で何でもないことのように思えるのだった……。
「——あ、今日は」
と言われて、陽子は足を止め、
「ああ、ミカちゃん」
松井ミカが校門の所に立っていたのである。
「亜紀、大丈夫ですか?」
「ええ。今、着替えに行ったわ。じき、来るでしょ」
「そうか。じゃ、教室にいれば良かった」
「亜紀を待っててくれたの?」
「いえ、兄を」
「お兄さん? そういえば、アメリカから帰られたのね」
と、思い出して陽子は言った。
「車で来たんですけど、中に駐車できないからって、少し離れた所に置いて来たんです。取りに行ったんだけど……。何してんのかなあ」
ミカは、伸び上るように眺めた。
一方、着替えに校舎へ駆け込んだ亜紀の方は、もうすっかり汗も乾いてしまっていたので、ロッカールームへ入って、手早く着替えをすませた。
何を、今から興奮してんのよ。——落ちつけ、落ちつけ。
つい、歌なんか歌ってしまう自分に少々照れていた。思いは明日の代休、そして君原勇紀とのデートに飛んでいるのである。
「——さて、行くか!」
パッとドアを開けてロッカールームを出る。すると、すぐそばの柱にもたれて、
「やあ」
「あ……。何してるんですか?」
と、亜紀は訊《き》いた。「ミカ、もう先に行ってると思いますけど」
ミカの兄、松井健郎だったのである。
「うん、知ってる」
「え?」
「君を待ってたんだ。リレーは凄かったね。今日のハイライトだった」
「そんな……」
と、微《ほほ》笑《え》んで、「すぐうぬぼれるから、ほめないで下さい」
健郎は笑って、
「——僕は大学中退でブラブラしてるんだ。君、恋人いるのか」
そんなことを訊かれると思わなかった亜紀が、当惑して突っ立っていると、
「——そうだった。もうキス体験済なんだったね。ミカから聞いたよ」
「ミカったら! ——人の秘密を!」
と、真赤になる。
「今度、二人きりで会わないか」
「は?」
「デートの申し込み。明日の予定は?」
「あ……。明日は——約束が」
「そうか。キスの相手だね?」
「——まあ、そうです」
正直である。
「じゃ、近々、ぜひ僕の予約を入れてくれ」
と言うと、「ミカが待ってる。じゃ、またね」
「どうも——」
と言い終らない内に、健郎が素早く寄って来て、亜紀の唇をサッと奪って行った。
さすがアメリカにいただけのことはあって(?)、キスもスマートである。
でも……早くも三人目の男!
「凄《すご》い!」
どうして突然こんなことになっちゃったんだろう? ハッと我に返ると、もう松井健郎の姿は消えてしまっていた……。
「そう。凄かったんだよ、亜紀の奴《やつ》」
と、正巳は言った。「アッという間に三人も抜いてね。たちまちトップさ」
「そうか……」
話を聞く茂也も、孫の活躍に嬉《うれ》しそうに肯《うなず》いている。正巳が、亜紀の抜いた人数を一人ぐらい多くしても、まあ別にバチは当るまい。
「——今日はくたびれて来られないけど、明日は必ず来るからって。陽子もね」
「うん」
と、茂也は肯いて、「無理……するな」
しゃべるのが多少大儀な感じで、それは倒れる前の茂也にはなかったことだ。
「じゃ、これが今日の弁当。体育祭に持ってったのと同じものだよ」
と、正巳は包みをわきへ置いた。「——あの人は?」
むろん、入院以来、ずっと茂也のそばについている藤川ゆかりのことである。
「アパートへ……帰ってる」
「そう」
「後で来るだろう。正巳——。あの女のことを、誤解せんでくれ」
「父さん。分ってるよ。父さんの面倒をよくみてくれてありがたいと思ってるんだ」
「そう……。何が目当てってことじゃない。俺《おれ》には、何もないんだからな」
茂也はじっと天井を見上げて、「おまけに、こんな風になって……。普通の女なら逃げて行くさ」
正巳はちょっと時計を見て、
「父さん、僕行く所があるんだ。藤川さんが戻ってからの方がいい?」
「大丈夫。それに、あれもじき戻る」
「じゃあ……。明日は夜、仕事の付合いがあるんで、僕は来られない」
「分ってる。——陽子さんにも、無理するなと言ってくれ……」
「分った。じゃ、またね」
正巳は、父親の方を覗《のぞ》き込むようにして笑顔を作ると、そっと病室を出た。
二人部屋だが、もう一人の患者は寝たきりで意識もない。点滴だけで生きているという状態で、家族もほとんどやって来ないそうだ。
しかし、ともかくそっと廊下へ出ると、正巳はホッとした。
そう言っては親に冷たいと言われそうだが、正巳は入院しているのを見舞ったりするのが苦手だ。親に限らず、友人知人でも同じことである。
幸い、父の症状は大したことはなかったので、ああして話もできるし、頭はしっかりしていた。だが、ときどき急にもの分りが良くなったりするのを見ていると、寂しい気持にもなるのである。
「そうだ」
思い付いて、正巳は廊下の公衆電話へと急いだ。
病院の入口近く、もう外来の受付は終っているので待つ人の数は少なくなったが、それでもベンチの半分ほどは患者が占めている。
正巳は隅の公衆電話で、円谷沙恵子の所へかけた。
何しろ昼間あわただしく別れたままで、気になっていたのである。
「——はい」
しばらく鳴らすと、やっと沙恵子が出た。
「僕だよ」
と、ホッとして正巳が言った。「良かった。どこかへ行っちまったのかと思った」
「すみません、ご心配かけて……。いえ、昼間、学校にまで押しかけたりして」
と、沙恵子の声は力がない。
「そんなことはいいんだ。それより、その手紙のことだけど、実際に見てたのかな、その男?」
少し間があって、
「本当です。——私、全然気付かなかったけど、写真をとられてるの」
「写真?」
「私と金倉さんがトラックのかげに手塚の死体を運んでるところと、死体を捨てに行くとき、車のトランクへ入れるところ」
正巳もさすがに青ざめた。
「じゃ……どうしようもないね」
「用心すれば良かったんです。でも——写真も一枚ずつ送って来たんですけど、私の顔ははっきり分りますが、金倉さんは斜め後ろからと、もう一つは顔が切れてるんです。大丈夫。否定すれば、何とか通りますよ」
「そうか……」
いくらか気が軽くなる。しかし、だからといって、沙恵子一人にすべてをかぶせてしまうわけにもいかない。
「その写真を買えってことか」
「ええ。——五千万だなんて、ふっかけてるんですわ。ともかく一度会ってみます」
沙恵子の口調はきっぱりしていた。
「でも……どんな奴か分らないよ。僕が会おう」
「だめですよ! 写真にうつってるのが別人だと言っても通りませんよ、そんなことしたら」
「そうか……。いや、どうも僕はそういうことにさっぱり頭が回らなくてね」
「気にかけて下さるだけで充分です。——明日、おいでになれる?」
「うん、必ず行く」
正巳も、自分で無理せずにやれる範囲では至ってやさしい男なのである。
とりあえず、少し安《あん》堵《ど》して(本当はそれどころじゃないのだが)、正巳は病院を出た。
明日は陽子が来る。会社の帰りに沙恵子の所へ寄ろうと正巳は決めていたのだった。