写 真
「お仕事中、お邪魔して、どうも」
愛想よく笑顔で挨《あい》拶《さつ》して、「私、こういう者で」
出された名刺には、〈C生命保険 浅《あさ》香《か》八《や》重《え》子《こ》〉とあって、正巳は拍子抜けしてしまった。
要するに「保険のおばさん」ではないか。仕事中、会社へ訪ねて来て、
「大切なお話が」
と言うから何ごとかと思った。
「あのね——」
正巳は、注文を取りに来たウェイトレスへ、「僕はすぐ行くからいいよ」
と、手を振って見せた。
「お忙しくていらっしゃるんですね」
浅香八重子というその女、五十は少し越えているだろう。派手めの化粧、どっしりした体にスーツは高級品らしい。しかし、はいた靴が運動靴みたいなもので、アンバランスなのがおかしい。
「当り前でしょ」
と、正巳は不機嫌を隠す気にもなれず、「誰だって、自分の仕事で手一杯だ。保険の勧誘なんかに、『大切な話』なんて言わないで下さいよ」
「あらあら」
と、女の方は一向に応《こた》えた様子もなく笑って、「気の短い。人間、のんびりやらないと長生きできませんよ、ねえ? 長生きするって、大切なことですもの」
「そんなこと、心配してもらわなくたっていいですよ」
正巳は立ち上りかけた。「じゃ、忙しいんで、これで——」
すると、浅香八重子という女が言ったのである。
「円谷さんにも長生きしてもらいたいでしょう」
正巳は、浮かせた腰を椅《い》子《す》に戻して、
「今……円谷君と言ったんですか?」
「ええ。円谷沙恵子さん。ご存知でしょ?」
相変らず明るい口調である。
「——彼女がどうしたんですか」
「ご心配ですよね。何しろベッドを共にした仲ですもの。ベッドでなく、布団でしたか?」
正巳は、女の笑顔を改めて見つめた。目は鋭く、笑っていない。
「あんたは誰なんだ」
と、正巳は言った。
「名刺の通りですよ。C生命保険のセールスレディ。でも、ただの『保険のおばさん』と違うところは、他の人の『生命』にお金を払っていただくことかしら」
「どういう意味だ」
この女はただ者じゃない。——正巳は初めてそのことに気付いた。ウェイトレスが置いて行った水をガブガブと飲み干す。
「まあ、落ちついて下さい」
と、浅香八重子はおっとりと言った。「コーヒーでもお飲みになったら? ——ね、こちらにコーヒーを一つ」
勝手に注文するのを、正巳は放っておいた。
「もったいをつけずに言ってくれ」
と、正巳は言った。「円谷君はどうしてるんだ」
「ご心配なく。元気にしてます」
と、浅香八重子は大きなバッグを開けると、中からポラロイド写真を一枚取り出して、「——まあ、『元気』って意味にもよりますけどもね」
と、テーブルに置いた。
手に取って、正巳は一気に顔から血の気がひくのを覚えた。
「おい——」
「大きな声を出したりすると、彼女にもいいことはありませんよ」
正巳は、相変らずニコニコ笑っている女を呆《ぼう》然《ぜん》として見た。
ウェイトレスがコーヒーを持って来たので、正巳はハッとしてその写真をパタッとテーブルに伏せた。
見せたくなかった。沙恵子が服を裂かれ、半裸の姿で縛り上げられているところなど。
「——見たとこ、ひどい目に遭ってるみたいですけどね。ま、大したことはないんですよ。まだね」
「彼女はどこに?」
「そんなこと、教えるわけがないでしょ。少し頭を使って下さいな」
と、女は笑った。「——あなた次第ですよ、要は」
「何だというんだ」
「保険の契約をね……。円谷さんの命を、買っていただくってことですね」
今にも保険のパンフレットを広げて説明し始めるかという口調。
「どうして、彼女にこんなことを……」
「あなたの名前を聞き出さなきゃいけませんでしたのでね」
正巳は胸をつかれた。——沙恵子。
「なかなか頑固な子で。とりあえず、若い男二人がかりでしゃべらせたんですよ」
正巳の体が震えた。写真が手の下で燃えるようだ。
「でも、大丈夫。あなたがちゃんとお金さえ出して下さりゃ、あの子はこのままお返しします」
「このまま……。もし、出さなかったら?」
「そのときは、色々面白いクスリがありますからね。やめるにやめられない中毒にしてから放してやるんです。そうすりゃ、首に縄をつけてるのも同じで、いつでも戻って来ますよ」
正巳は、また悪夢を見ているように思えた。今度はそう簡単に終らない悪夢だ。
正巳はコーヒーを飲もうとカップを取り上げたが、手が震えてこぼしてしまいそうなので、そのまま受け皿に戻してしまった。
「——いくらほしいんだ?」
「そうそう。そういう具体的なビジネスの話をしましょうね。怒ってみたって、一文にもなりゃしないんですから」
と、浅香八重子は言った。「無理は言いません。一億円。きりのいいところで」
正巳は唖《あ》然《ぜん》として、
「馬鹿言わないでくれ! どこにそんな金が——」
と、つい大きな声を出しかけて、口をつぐんだ。
「貯金がそんなにあるとは思っちゃいませんよ」
と、女は笑って、「でもね、土地も家もおありでしょ。担保にして、それくらい貸してくれる所はありますよ」
土地と家? ——正巳は、汗がこめかみを伝い落ちていくのを感じた。
「そんな……。とても一億なんて価値はないよ」
「ですから、私がうかがったんです」
と、浅香八重子は穏やかに、「借りられるお店は紹介してさしあげます。手数料はいただきますけど、それは一億とは別ですよ。それと、お父様が入院なさってますね」
正巳は、
「どうしてそんなこと……」
と、呟《つぶや》くように言った。
「お父様に保険をかけていただくんです。受取人は当然あなた。そうすれば、一億円の内、借りて足りない分は出せますわ」
「待ってくれ。親《おや》父《じ》に保険をかけるって——。しかし、死ななきゃお金は入らないんだぞ。そうだろ?」
「もちろん、亡くなっていただくんです」
「——何だって?」
「毎日、病院へ行かれてるんでしょ? 大してむずかしいことじゃありません」
あまりに当り前の口調で、正巳は耳を疑ってしまった。
「親父を……」
「沙恵子さんを見捨てますか? それとも……。考えて下さいな」
浅香八重子は、自分のアイスティーを飲み干すと、「——じゃ、また近々ご連絡します。それまで、円谷さんは大切にお預かりしてますからね」
と、行きかける。
「待ってくれ!」
と、正巳は立ち上った。
だが——何を言おう。何が言えるだろう。
「何か?」
「いや……何でもない」
正巳は力なく腰をおろした。浅香八重子は静かにティールームを出て行った。
「——金倉さん」
と、誰かが呼んでいる。「金倉さん。大丈夫?」
正巳はふっと我に返って、
「ああ。——伊東君か」
「伊東君か、じゃないわよ。どうしたの、いつまでも一人で座ってて」
「え?」
ハッとした。——あの、浅香八重子という女と話をしていたティールームに、まだ座っている自分に気付いたのである。
「ごめん、ごめん。つい、ボーッとしてね。——そんなにたってるかい?」
「一時間たつわよ、あなたが席を立ってから。それで心配になって来てみたんじゃない」
一時間! ——あの女との話はせいぜい十五分くらいのものだったろう。それからずっと、ぼんやりしていたのか。
「何かあったの?」
と、伊東真子が椅子にかけて、「顔、青白いし、普通じゃないわよ」
「何でもないよ。親父のことや何やで、くたびれてるんだ」
親父のこと。——そう、あの女は言った。
「もちろん、亡くなっていただくんです」
と……。
とんでもない話だ! 狂ってる!
いくら沙恵子を救うためだって——。ふと、テーブルにのせた手の下に、あのポラロイド写真が伏せたままになっていることに気付いた。
「疲れてるだけならいいけど……」
と、真子は正巳の表情をうかがうようにして、「何か心配ごとがあったら、私に話してね」
正巳は胸が熱くなった。真子は何の損得もなく、正巳のことを気にかけてくれている。ありがたかった。
けれども——こればかりは真子に相談したところで、どうすることもできない。
むしろ、あの女——浅香八重子というC生命保険の女に知れたら、真子も危険な目に遭いかねない。だめだ。話すわけにいかない。
「すまないな、心配かけて」
正巳は写真を手早くポケットへ入れて、「さ、戻ろう。仕事が山ほどある」
と、立ち上った。
真子は座ったままで、
「心配して損しちゃった」
と、笑って、「私、何か飲んでから戻るわ」
「そうか。じゃ、先に行ってるよ」
正巳は足早にティールームを出て行った。
——伊東真子は、そっと足を動かした。
落ちていた名刺を、見えないように踏んでいたのである。
たぶん、正巳が会っていた相手だろう。当人が何と言っても、あれはただごとじゃない。正巳は、テーブルの伝票にも気付かず、払わないで出て行ってしまったのだ。
真子は長いこと正巳と仕事をして来ている。
正巳が隠しごとのできない性格であることも分っていた。
拾った名刺を見て、真子は眉《まゆ》をひそめた。
〈C生命保険 浅香八重子〉
保険の外交員? しかし、なぜこの女と会って、正巳があれほどのショックを受けたのだろう。
真子は、ティールームのウェイトレスを呼んで、
「レモンスカッシュ。うんとすっぱくしてね。目が覚めるように」
と、注文した。
「はい」
と、ウェイトレスが笑う。
正巳は顔ぐらいしか知らないが、ここのウェイトレスと真子は仲がいい。
「ね、ここで金倉さんの会ってた人、見た?」
と、真子は訊《き》いた。
「ええ、もちろん」
「どこか——おかしくなかった?」
「うーん……。見たとこ、普通の保険のおばさんだけど。初め、金倉さんがむくれて、『保険の勧誘なんか』って言ってるのが聞こえたの」
「それで?」
「ただ……。後の二人の話の様子はおかしかったけど。そばで聞くわけにもいかないし」
「そりゃそうよね」
「でも、コーヒー持って来たとき、ポラロイド写真を見てて、金倉さん。私がそばへ来たのに気が付くと、あわてて伏せてたわ」
「ポラロイド……。さっき、ポケットへしまい込んでたの、それか」
と、真子は肯《うなず》いた。「写真、見た?」
「一瞬ね……。でも、よく分らなかったわ」
と、首を振って、「女の人の……。チラッと見ただけだけど、裸の写真みたいだった」
と、少し声を低くする。
「——あ、待ってね」
店を出る客がいて、ウェイトレスはレジへと駆けて行った。
真子は、その名刺を眺めた。
C生命保険。——裸の女の写真。ポラロイドだったというのだから、誰か、正巳の知っている女性のものではないか。正巳の様子を見ても、よほどのショックだったろうと察しがつく。
C生命保険。——真子の知らない名である。当ってみよう、と思った。
ウェイトレスがレモンスカッシュを持って来て、言った。
「それに、ちゃんとした外交の人なら、お茶代、払って行くわ」
「なるほどね。——ありがとう」
真子は、レモンスカッシュをぐっと一口飲んで、すっぱさに目を丸くしたのだった。
真子の手前、何とか平静を装って席へ戻ったものの、正巳はしばらく自分が何の仕事をしていたのか、思い出せなかった。
自分を叱《しか》りつけ、励まして、やっと仕事を始めたが、ポケットに入れた、あのポラロイド写真を思い出すと、息苦しい思いに捉《とら》えられる。
沙恵子……。可《か》哀《わい》そうに。
俺《おれ》の名をしゃべるまでに、どれだけ痛めつけられたのだろう。何とかして——何としてでも、助けてやる。きっとだ。
だが、また仕事の手が止っている。
電話が鳴って、正巳は却《かえ》ってホッとした。少し気持が切り換えられるだろう。
「——もしもし」
「あ、どうも」
誰だろう? 正巳は当惑した。
「あの——どちらさまで?」
低い笑い声が聞こえて、正巳は青ざめた。
「近々、連絡すると言ったでしょ」
と、浅香八重子は言った。
「何の用だ」
「まず、家と土地を担保に、お金を借りてもらうわ。いいですね」
正巳は、相手への怒りを抑え切れなかった。
「そう簡単にいくか」
「急ぎませんよ、こっちはね。ただ、円谷沙恵子さんをお預かりするのが長びくだけ」
正巳は何とも言えなかった。
「明日の帰りにこれから言う所へ来て下さい」
と、浅香八重子は言った。「メモの用意は?」
言われた通りにするしかない。沙恵子のためだ。
「——分った。言ってくれ」
と、正巳はボールペンを手に取った……。
——電話が切れると、正巳は仕事に戻った。
沙恵子が向うの手にある内は、どうすることもできない。
手塚良一を死なせたのは、沙恵子ではないのだ。それなのに、今、沙恵子はこんなひどい目に遭っている。
——どうしよう?
正巳は、途方にくれながら、それでも仕事をしていた。
ともかく、向うの言う通り、明日出向いて行くしかないのである。
そこで何があるか。予想もつかない。
正巳は、周囲をそっと見回してから、あのポラロイド写真をポケットから取り出した。
涙の跡が痛々しい沙恵子の顔。じっとカメラの方を見つめる哀しげな目……。
長く見てはいられなかった。——正巳は写真をどうしたらいいのかと迷ったが、結局自分の鞄《かばん》の中へしまった。捨てるわけにはいかない。そうとも。
沙恵子を捨てることはできない……。