ぬれぎぬ
「じゃ、待ってるね」
と、亜紀は松井ミカに声をかけて、先に教室を出た。
「うん。できるだけ早く行くから!」
ミカの声が追いかけてくる。
——亜紀は、一足先に学校を出ると、帰り道の途中、駅前の商店街にある大きな書店に寄ることにしていた。
亜紀は本が好きだ。書店で(どっちかというと、「本屋さん」という呼び名の方が暖かくていいと思っていた)書棚にズラリと並ぶ本の背表紙を眺めているだけで、一時間ぐらいはすぐに潰《つぶ》せる。
「安上りな趣味だよね」
と、友だちにからかわれることもあった。
今日はミカと帰ることにしていたのだが、帰り間際にミカがクラブの用事で先生に呼ばれ、亜紀は「いつもの本屋さん」で待っていることにしたのである。
十月も後半の爽《さわ》やかな季節。
とはいえ、学生にとっては「中間テスト」という、あまり爽やかではないものが迫っている。そのせいで今週はクラブ活動もない。
——亜紀は早々とその書店に着いた。
中は昼間でもまぶしいほどの照明で、床はツルツルにしてある。広さからいえばこの辺りでは第一で、やはり参考書、専門書の類《たぐい》を捜すときはここへ来ることが多かった。
しかし、亜紀の目当ては小説や文芸の棚。このところ、〈人形〉のことにも関心がある。むろん、君原にあの人形展に連れて行ってもらってからだ。
ミカも、テスト前のことではあるし、そう遅れては来ないだろう。
亜紀は学生の身。こづかいを考えれば文庫本しか買えないが、今は文庫本も結構高い。以前なら二冊買えた値段で一冊しか買えないこともよくあった。
このところ、亜紀はまた本をよく読んでいる。テストの前になると本が読みたくなるというのは珍しいことではないらしいが、亜紀の場合はそればかりでもなかった。
「——あ、新刊だ」
お気に入りの作家の新刊が出ている。亜紀は手に取ってパラパラとめくった。文庫じゃないので、千円以上もする。
でも、あまり人気があるとは言えない人なので、いつ文庫になるか。それに、この新刊だって、じき絶版になってしまうだろう。
「千円か……」
と呟《つぶや》いて、少し迷ったが、とりあえず棚に戻す。
三冊あるから、売れてなくなってしまうことはないだろう。少し文庫の棚を眺めてからにしよう。
亜紀は、ぶらぶらと棚の間を歩いて行った。この時間、客の姿は多くない。
亜紀は、人形の写真集があったので、何冊か手に取って中を見た。
カメラマンの人形への愛着がはっきり出ているものと、単に仕事だというので撮っているものと、一目で分る。怖いようだった。
——あ、ミカだ。
ミカが、店に入って来てキョロキョロしている。亜紀は写真集を戻すと(高くてとても手が出ない)、下に置いてあった鞄《かばん》を持って棚の間を抜けて行った。
「——あ、いたのか」
ミカが微《ほほ》笑《え》んで、「ごめん、待たせて」
「いいけど……。早かったね」
「どうってことないの。部員への連絡網の順番、変えようって話。先生、勝手にやってくれりゃいいのに」
と、口を尖《とが》らして、「亜紀、まだ本見てる?」
「どっちでも」
あの本は、また買いに来よう。二、三週間は置いてあるだろう。
最近、読んでいない本がどんどんたまっている。少しあれをきちんと読もう。
亜紀自身、分っていた。家の中が何となく落ちつかず、そのせいで亜紀は本に逃げ込んでいるのである。
父も母も、別に喧《けん》嘩《か》しているわけじゃない。二人とも穏やかで、やさしい。亜紀に暴力を振るうなんてこともない。
それでいて、どこか普段と違うのである。
父はいつも、心ここにあらずという感じで、TVを見ても笑いひとつこぼすではない。
母も同様だ。いつものように振舞ってはいるが、時々、ふっと遠くを見てもの思いに耽《ふけ》っている。
亜紀は正直、疲れてしまった。「大人の悩み」に、亜紀は口が出せない。
今の暮しを、そのまま続けて行けたら、それでいい。——とりあえず亜紀は、そのことを忘れたくて本に熱中している。いや、しようとしているのである。
「じゃ、何か食べてこ」
と、ミカが言った。
ミカは亜紀と違って、何かストレスがあると、食べることで忘れようとするタイプ。
亜紀も、今日はミカに付合うことにした。
店を出ようとして、後ろから急ぎ足で来た若い男が亜紀に突き当った。
アッと思ったときには、鞄が落ちて、中の教科書が飛び出していた。
「ごめん!」
と、ひと言、男は行ってしまう。
「何、あれ? 失礼ね!」
と、ミカが怒って言った。
「放っとけばいいわよ」
亜紀はかがみ込んで鞄をつかんだ。
床がよく滑るので、鞄から飛び出した教科書はあちこちに散らばってしまっていた。
亜紀はそれを急いで拾い集めたが、
「——え?」
と、目を丸くして、その本を拾い上げた。
さっき、書棚で見ていた新刊本である。でも、この本がどうしてこんな所にあるの?
「亜紀、どうしたの?」
と、ミカがやって来る。
「うん……」
わけが分らずにその本を見ていると、
「おい!」
突然、凄《すご》い声で怒鳴られた。「万引きだな! 待て!」
亜紀は自分が言われているのだと知って焦った。
「違います! 私、そんなこと——」
レジから駆けて来た男の店員は、亜紀の腕をつかんだ。
「痛い! そんなことしなくたって——」
「逃げるつもりだろ。そうはいかないぞ!」
「万引きなんかしてません!」
「じゃ、この本は何だ?」
そう言われると、亜紀にも分らないのである。この本が鞄に入っていた? そんな馬鹿なこと!
「私、知りません」
「知らないって、どういうことだ!」
「怒鳴らないで。ちゃんと聞こえます」
「何だ、開き直ったな。いい度胸してるよ、全く」
と、店員は苦々しい調子で言って、「学生証を出せ。学校にも家にも連絡してやる」
亜紀はギュッと唇をかみしめた。——他の客がみんな寄って来て見ている。
しかし、何もしていないのに、謝ったりする亜紀ではない。
「——亜紀」
と、ミカが言った。「どうする!」
「いいの。大丈夫」
と、亜紀は息をついて、「逃げも隠れもしません。知らせるならどうぞ。でも、私は本を盗んだりしていません」
「じゃ、奥へ来てもらおうじゃないか」
「行きますから、手を離して」
亜紀の強い口調に、店員は渋々手を離した。
「ミカ。悪いけど、手間どりそうだから、先に帰って」
「だけど……」
「うちへ電話しといてくれる?」
「——うん」
亜紀は店員に促されて店の奥へと歩いて行った。
ミカは呆《ぼう》然《ぜん》として見送ると、
「大変だ……」
と、呟《つぶや》いた。
亜紀は、固い椅《い》子《す》にじっと背筋を伸ばして座っていた。
亜紀を引張って来た店員が苦い顔で腕組みをして立っている。——もう三十分近く、ひと言も言葉を交わしていない。
亜紀は、ともかく身に憶《おぼ》えのないことを認める気にはなれなかった。確かにあの本は鞄の中から飛び出したようだった。けれども、自分は入れていない。
それを貫き通すしかない、と心に決めていた。
「——どうした」
と、ドアが開いて、小太りな、頭の禿《は》げ上った男が入って来た。
あ、と亜紀は思った。——よくレジで本にカバーをかけている「おじさん」である。
「あ、店長」
店員がホッとした様子で、「こいつが、万引きの現行犯のくせに、どうしてもやってないと言い張るんですよ」
店長! この人が。——意外、と言っては気の毒か。
店長の方も、亜紀の顔を見てすぐに分ったようで、
「ああ、君……」
と言って、「本はどれだ?」
「この新刊です」
「私、万引きなんかしてません」
「お前に訊《き》いてない!」
と、店員が怒鳴ると、
「大声を出すな」
と、店長がたしなめた。「ドアは薄いんだ。店へ筒抜けだぞ」
「だけど、頭に来ますよ! 警察へ引き渡しましょう」
「まあ待て」
と、店長は椅子を引いて腰をおろすと、「状況は?」
と訊いた。
店員が説明するのを、店長はじっと聞いていたが、
「——しかし、憶えがないと言うんだね?」
「そうです」
と、亜紀は言った。「私にも、その本がどうして鞄《かばん》の中に入っていたのか分りません。でも、絶対に盗んでなんかいないんです。本当です」
「図々しい!」
「まあ、待て」
と、店長はなだめて、「いつも、文庫本を買ってってくれる人だね」
「はい。よく寄ります」
「憶えているよ。今どき、こんなに本の好きな子は珍しい、と思って嬉《うれ》しかった」
と、店長は微《ほほ》笑《え》んだ。
「私、本が大好きです。でも、だからこそ盗むなんてこと、絶対にできません」
と、亜紀は力をこめて言った。
亜紀だって、内心はヒヤヒヤしている。
自分がいくら万引きした覚えはないと言っても、相手が信じてくれず、警察へ突き出されでもしたら、家や学校へ当然知れることになる。
その店長の穏やかな目が、今の亜紀の頼みの綱だった。
「妙な話だね」
と、店長が肯《うなず》くと、
「今の子は嘘《うそ》が上手いですよ」
と、店員の方は渋い顔をしている。「見逃したりすると、また調子にのってやりますよ」
「おい。お前は確かにこの本がこの子の鞄から飛び出すところを見たのか?」
「もちろんです!」
と、言ってから、「いえ——。飛び出すところは……たぶん……」
と、口ごもる。
「どっちだ。はっきりしろ」
「いや、見てなくても、こいつが自分でこの本を持って突っ立ってたんですよ」
「万引きした本を持って、ぼんやり立ってたのか! おかしいじゃないか。本当に万引きしたものなら、あわてて鞄へ戻すだろう」
店員はぐっと詰った。
「ですが……」
「君も、本が落ちているのを見ただけで、鞄から飛び出すところは見ていないんだね」
そう訊かれて、亜紀も改めて気付いた。
「ええ。見ていません」
「後ろから誰かに突き当られたと言ったね? 知っている人間じゃなかったかね」
「いいえ……。ゆっくり見たわけじゃありませんけど、たぶん……」
「その男が、突き当って鞄が落ちたところに、本を投げ出して行ったとは考えられないか」
亜紀は愕《がく》然《ぜん》とした。
「もう十何年も昔のことだが、私が特に万引きを捕まえる係になって、店内を見張っていたことがある」
と店長は言った。「若い男が、あまり似つかわしくない本——たぶん、料理の本だったと思うが、それを一冊持って、女性客の後をついて回っているようだった。妙だとは思ったが、店内で本を持って歩いているだけじゃ、万引きとは言えない。私はずっとその若い男から目を離さなかった」
亜紀は、身じろぎもせずに、その話に聞き入っていた。
「——その女性客がレジに並んだ。すると、男は後ろから近付いて、持っていた料理の本をスッと女性のバッグへ滑り込ませたんだ。——びっくりしたよ。会計のとき、バッグから覗《のぞ》いている本を店員が見付けて、それは何だ、ってことになった」
店長は首を振って「その女性はもちろん憶えがないと主張したがね」
「それで、どうなったんですか?」
と、亜紀は訊いた。
「ああ、むろん私が見ていたからね。その女性のしたことじゃないってのは分った。やった男の方はいつの間にか姿を消してしまっていたよ」
と、店長は言った。「その女性に若い男のことを話すと、どうやらしつこく付合ってくれとつきまとっていた奴《やつ》らしくてね、断られた仕返しのつもりだったんだろう」
「怖いですね」
「しかし、私がそのときハッとしたのは、もし私がこの目で男のしたことを見ていなかったとしたら、きっとその女性は万引きしたという疑いを晴らせずに終っただろうということなんだ」
亜紀はゆっくりと肯いた。
「どうかね。君も誰かに恨まれる憶えがあるかい」
「さあ……」
亜紀は戸惑った。しかし、このところの父や母をめぐる出来事は、亜紀の知らないところで何が起ってもおかしくない気配である。
「——ともかく、今回は君の言うことを信じるよ」
と、店長が言った。
「ありがとうございます」
と、亜紀は礼を言ったが、捕まえた店員の方は不服な様子で、
「店長、本気ですか? 今の高校生なんて、嘘ぐらい平気でつきますよ」
「おい」
と、店長は穏やかだが厳しい目を向けて、「一《いつ》旦《たん》疑いをかけたら、その客を永久に失うんだぞ。それを憶《おぼ》えとけ」
店員がムッとして黙ってしまう。
「——もう帰っていいよ。ご苦労さま」
「はい」
亜紀は立ち上って、「私、また来ます。いつも学校の帰りに寄ってるんですもの」
「そうしてくれると嬉しいよ」
「じゃあ……」
亜紀は店長へ頭をさげて、部屋を出た。
書店の明るさが、まぶしい。
店の中を抜けて行きながら、亜紀の胸は爽《さわ》やかだった。あの店長が自分を信じてくれたことが、心から嬉しかった。
書店を出ると、
「亜紀!」
と、ミカが駆け寄って来た。
「あ、いたの?」
「当り前じゃない! 心配で帰れないよ。それで?」
「疑い、晴れた」
「良かった!」
と、ミカが胸に手を当てる。「どうしようかと思ったわよ」
「日ごろの心がけの良さがものを言う」
と、亜紀が事情を話して自慢すると、
「いい気なもんだ」
と、ミカは笑った。
「それにしても……。わざと誰かがやったとしたら怖いわ」
と、一緒に駅へと歩きながら、亜紀は言った。「人に恨まれる覚えなんてないけどな」
「美しすぎるのかもよ」
「そうか! 気が付かなかった」
二人は大笑いした。
——正直なところ、ミカは亜紀が「恨まれる覚えはない」と言ったとき、ドキッとしたのである。
自分自身、兄の健郎をめぐって、亜紀に対して複雑な感情を持っていたからだ。
むろん、それは「恨み」というほどのものじゃない。しかし、人は自分で全く気付かない内に、誰かに恨まれていることだってあり得るのだということ。——その考えはミカにとってショッキングなものだった。
お兄ちゃんは? 「血のつながっていない妹」のことを、どう思っているだろうか。
亜紀が足を止める。
「——どうしたの?」
少し先へ行って、ミカが振り向いた。「亜紀。何か——」
「どうして気が付かなかったんだろ!」
と、亜紀が自分の頭を叩《たた》いた。
「何よ、突然?」
「ね、考えてみて。もし私に突き当った男が、わざとやったんだとしたら、その結果を確かめたいと思うでしょ?」
「ああ、そうね……。きっと」
「ということは、私が店の奥へ連れていかれたのを、どこかから見てたはずだわ。そして警察へ突き出されるとか、親が呼ばれるとか、何が起るか見届けようとするでしょう」
「つまり……」
「私があの書店を出て来たとき、その男はきっとまだ店の近くにいて、様子をうかがっていたはずだわ」
二人は顔を見合せ、急いであの書店の前まで駆け戻った。
「——もう遅いか!」
と、亜紀が息を弾ませて、「残念! もう少し早く気が付いてれば……」
「仕方ないよ。嬉《うれ》しくてボーッとしてたんだもの」
「見付けたら、絶対許さない! 白状するまで、とっちめてやるのに……」
と、亜紀はため息をついて、「ともかく今日は帰ろうか」
「うん」
二人は駅の方へとまた歩き出す。
——亜紀の直感は当っていた。
人ごみの中へ紛れて、男が一人、二人の少女を見送りながら立っていたのである。