暗 雲
「はい、お茶」
と、亜紀はウーロン茶をグラスに注《つ》いだ。「無精でごめんなさいね。ちゃんと熱いのをいれりゃいいんだけど」
「そんなこと気にしないでくれ」
と、佐伯がガブガブとお茶を飲んで、たちまちグラスを空にしてしまう。「旨《うま》い!」
「じゃ、注いどきますね」
もう、三本めのペットボトルが空になりそうだ。
全員、お風《ふ》呂《ろ》に入ってさっぱりしたせいもあるのだろうが、お腹が空いているというので、亜紀は君原と二人でコンビニへ行き、お弁当を買い込んで来たのである。
時ならぬ「お弁当パーティ」(?)になってしまった。
缶ビールも空けて、にぎやかではあったが、それでも決して汚したりこぼしたりせず、ゴミはきちんとビニール袋へ集めている。
亜紀は感心してしまった。
「——亜紀君、君、食べてないんだろ」
「あっちに置いてある」
「食べてくれ。僕らはちゃんと自分でやるから」
「ううん、いいの。楽しいもん、こうしてると」
と、亜紀は笑って言った。
「しかし、お父さんかお母さんが帰って来てこの様子を見たら、気絶するかもしれないなあ」
佐伯がのんびりと言う。
「でも、いいなあ、そうやって自分の好きなものに打ち込めて」
「自分の好きなもの、か……。しかしな、亜紀君」
と、佐伯は一息ついて、「そのためには、好きなことをやる時間の何十倍もの時間を、いやなこと、辛《つら》いことに費やさなきゃならないんだよ」
「ええ、分ります。——でも、目標があって辛いことを我慢してるのと、何もないのにいやなことを毎日してるんじゃ、全然違うんじゃないですか」
と、亜紀は言った。「ごめんなさい、分りもしないのに偉そうなこと言って」
「その通りだよ。しかし、人は一人で生きてるわけじゃない。面倒をみなきゃいけない家族もあり、恋人もいる。なかなか『好きな通り』に生きるなんてことはできない」
「そうでしょうね」
亜紀も、君原の事情をよく知っている。
佐伯が、一人一人の事情に気を配っていること——自分の夢を押し付けないことに、亜紀は爽《さわ》やかなものを感じる。本当に苦労した人なのだろう。
「——あ、電話だ」
電話が鳴り、亜紀は急いで立って行って出た。
「もしもし、金倉です」
「亜紀さん? 伊《い》東《とう》真《ま》子《こ》です」
「あ、どうも」
と、亜紀は言った。
「お父さん、帰られてます?」
「父ですか。いいえ、まだ」
「そうですか。——お母さんは?」
「母も、少し遅くなるってさっき電話がありました」
「そう……」
伊東真子の言い方には、どこか深刻な響きがあった。亜紀は気になって、
「何かあったんですか」
と訊《き》いた。
「実はね……。お父さん、今日会社を早退したの」
「早退? 具合でも悪かったんでしょうか」
「それならまだ……。良くはないけどね。でも、どうしても出なきゃいけない会議があったのに、欠席しちゃったのよ。しかも、早退したといっても——」
と、ためらう。
「話して下さい。私なら大丈夫」
「そうね、亜紀さんも、もう子供じゃないし。——お父さん、女の人と出かけちゃったの」
「女の人……」
「それを見ていた子がいてね。上司に話したもんだから、問題になって。明日出社したら、ちゃんと説明できるように考えておかないと大変だと思うわ」
「分りました。——それを知らせて下さったんですか」
「まあ……長いお付合いですものね」
「ありがとうございます」
と、亜紀は言った。「父が帰ったら、どう言います?」
「私の所へ電話をくれと言って下さる? 何時でもいいわ」
「分りました。必ず言います」
「よろしくね」
伊東真子の声はやっと少し明るくなって、「あなたも大人になったわね」
と言った。
「そうでもないです」
亜紀は少し照れた。
——電話を切ると、佐伯たちはもう食べ終って片付けをしていた。
「あ、置いといて下さい。私、やりますから」
「ゴミくらい持って帰るさ。君原、少し話があるんだろ? 残ってけよ」
「いや、僕は——」
「君原さん。少しそばにいて」
亜紀は君原の腕をつかんだ。
「ほら見ろ」
と、佐伯は笑った。「じゃ、みんな行こう。すっかり世話になったね」
一行は口々に礼を言って帰って行った。
君原と二人になると、亜紀は、
「ごめんなさい」
と言った。「無理に引き止めちゃった」
「いや、そんなことないけど……」
君原は、ひげでザラついた顎《あご》へ手を当てて、「きちんと剃《そ》っとけば良かった」
「どうして?」
何気なく訊いてから——亜紀はポッと赤くなった。
「いや……。そういうつもりで言ったんじゃ……」
と、君原も赤くなっている。
「私、何も言ってない!」
と、亜紀はますます赤くなって、「それじゃ、意地でも!」
「だけど——」
「ひげの痛いのくらい、我慢する」
亜紀は、少し伸び上って君原にキスした。ひげがチクリと当ってかすかに痛い。
「——ソースの味がした」
妙なもので、キスしたら落ちついてしまった。
「君、弁当食べろよ。付合うから」
「うん!」
正直、亜紀もお腹が鳴っている。
買って来たお弁当を食べながら、
「ありがとう」
と、亜紀は言った。
「お礼を言うのは、こっちだよ」
「ううん。来てくれなかったら、一人で泣いてたかもしれない。ひどいことばっかりだったんだもの」
「何があったんだ?」
君原はテーブルにつくと、真剣な目で亜紀を見つめた。
亜紀は、書店で万引きしたと疑われたことを話した。君原は途中まで聞いて、
「僕が怒鳴り込んでやる!」
と立ち上りかけたが、亜紀があわてて続きを話して、やっとおさまった。
「しかし、妙だね。わざと君が万引きしたように見せかけた?」
「たぶん」
と、亜紀は肯《うなず》いた。
「誰がそんなことを……」
「分んないから、気味が悪い」
と、亜紀は首を振って、「それと今の電話——」
「何だった?」
「会社の人。伊東さんって、昔から親しくしてる人で。——お父さんのこと、心配してかけて来てくれたの」
伊東真子の話を聞かせると、君原は眉《まゆ》をひそめて、「それは普通じゃないな」
「でしょ? お父さん、何があっても、会社第一の人なの。そんな大事な会議をすっぽかすなんて」
君原は少し考えていたが、
「人間、いくつになっても迷うってことはあるんだ」
と言った。「分るかい? 君のお父さんだって、君やお母さんのことを大事に思ってる。ただ、きっと道に迷ってしまっているだけなんだよ」
亜紀は、ゆっくり肯いた。
「——分ってる。お父さん、悪いことなんかできる人じゃないの。ただ……気のやさしい人だから、誰かに引きずられていっちゃうかもしれない」
なかなか父親のことをよく分っているのである。
「君が心配しても、どうなるものでもないよ。しかし、僕には君を陥れようとした奴《やつ》のことが気にかかるな」
「充分用心する。ごめんね、心配かけて」
亜紀は、君原に話をしただけで大分気持が落ちついた。「もう、帰った方がいいわ。大学、あるんでしょ、明日?」
「そうなんだ!」
君原はため息をついた。「一週間も休んじまって、どうしよう! 先生のところへ行って頼み込まなきゃ!」
その君原の情ない表情に、亜紀は思わず笑ってしまった。
亜紀もきれいにお弁当を食べてしまい、二人は、しばらく人形劇の話で時を忘れた。
亜紀も、しばし父や母の気がかりな行動のことを傍へ置いて、君原の話と、目の輝きにうっとりとしていた。
「——やあ、もう行かないと」
君原が時計を見て立ち上る。「レポートでもあったら徹夜だ」
「体、こわさないでね」
玄関まで君原を送りに出て、亜紀は、「——もう一度」
と、君原の肩に手をかけ、そっと唇を重ねた。
今度はひげが当らないように、うまくできた。
「——何かあったら、いつでも僕を呼んでくれ。いいね。遠慮なんかしなくていいんだから」
「うん。私、図々しいからね。本当に遠慮しないよ」
「僕も図々しいからな。もう一回」
亜紀が笑って、ちょっと伸び上った。軽く触れ合う音がして、
「ちょっとひげが当った」
「この次は、剃ってくる」
君原が笑って、「じゃあ!」
亜紀は表まで出て、見送った。
ホッと息をつく。——人ってふしぎなものだ。その人と会っただけで、気持がすっかり明るくなってしまう。こんなことがあるんだ。亜紀はしばらくその場に立っていた。
君原の姿が見えなくなって、亜紀は家の中へ入った。
玄関から上ろうとすると、外で車の停る音がしたので、振り返り、
「お父さんかな」
まだ母は帰らないだろうと思ったのだ。
そっとドアを開けて覗《のぞ》くと、母の陽子が車を見送っていた。——車は、チラッと見えただけだが、タクシーではない。
あの形はたぶん外車——BMW?
陽子が足早にやって来て、亜紀が中からドアを開けるとびっくりしたように、
「亜紀!」
「お帰り」
と、亜紀は言った。「今の車、誰の?」
陽子は詰った。
「——別に誰でもいいけど」
と、亜紀は言った。「嘘《うそ》つかないで。私、お父さんにしゃべったりしないから」
陽子は言葉を失って立ちつくす。
亜紀は、
「お弁当食べたから、私。——部屋に行ってるわ」
と言い捨てて自分の部屋へ。
母を追い詰めるつもりではなかった。ただ、母が嘘をついていたことがショックだったのである。
ドサッとベッドに横になる。
むろん、母にしてみれば、
「男の人と会ってくるわね」
とは言えないだろう。
ああ言わざるを得なかったのだということは分っている。けれども、父のことに胸を痛めていた亜紀にとって、母が円城寺と会っていたに違いないと知るのは、やはり不愉快であった。
「——亜紀」
と、ドアの外から母の声がした。「入るわよ」
亜紀が起き上ると、陽子は入って来て、
「誰が来てたの」
と訊《き》いた。
「友だち。そう言ったでしょ」
説明するのも面倒だった。
「友だちって、誰? どうしてお風《ふ》呂《ろ》を使ったの?」
亜紀はすっかり忘れていた。あまりに自然なことで、別に隠そうとも思わなかったのだ。
「汗かいてたから。それがどうかした?」
「どうかした、って……。男の子だったんじゃないの?」
亜紀は、母の考えていることがやっと分った。つい、笑ってしまう。
「何がおかしいの!」
陽子の口調が鋭くなって、亜紀の耳を刺した。亜紀はムッとした。お母さんこそ、何して来たのよ!
しかし、そう言ってしまっては、引っ込みがつかなくなる。——亜紀は、何とか自分の気持を抑えた。
君原の穏やかな表情が頭に浮んだ。——人間、いくつになっても、迷うことはあるんだ。そうなんだ。
「男の子っていうより……男の人。大学生なの」
と、亜紀は言った。「でも、今日お風呂を使わせてあげたのは、人形劇をやって回ってる人たちなの。ずっとトラックで田舎の小さな学校を回って来たんで、みんな疲れてて……。だから、お風呂を使ってもらったの。本当よ」
何といっても、詳しく説明するには時間がかかる。母にそれだけで状況を理解してもらうのは、無理かもしれなかった。
「大学生……。人形劇? 何のことなの、一体?」
「だから……。そんな、お母さんの心配するようなことじゃないの。信用してよ!」
「ただ信用しろって言われても、分んないでしょ。どういうことなんだか、はっきり言ってみて」
亜紀も、つい険しい口調になって、
「はっきり言ってるでしょ。何もないんだ、って。それ以上どうするの? 病院に行って証明書でも書いてもらう? この子はまだ男を知りませんって」
「亜紀——。何をそんなに苛《いら》々《いら》してるの?」
「苛々なんてしてない! 何もないって言ってるだけでしょ。キスだけはしたけど、それ以上はしたことない」
つい、言ってしまった。
「当り前でしょう。そんなことでいばらないの」
母の言葉が、亜紀にはカチンと来た。
「いばってなんかいないでしょ。お母さんこそ——」
言っちゃだめ! それを言ったら——。
「お母さんこそ、いばらないでよ。円城寺さんと年中出歩いてるくせに」
言葉が、抑えようもなく飛び出してしまった。
母の顔がこわばる。——まさか亜紀が相手の名前まで知っているとは思わなかったのだろう。
まるで時間の流れが止ってしまったかのように、二人は息さえ殺して動かなかった。
亜紀は後悔していた。言ってはいけないことを言ってしまった。
しかし、一《いつ》旦《たん》口にした以上、もう引っ込めるわけにはいかない。ビデオテープのように、巻き戻してやり直すというわけにはいかないのである。
長い沈黙が続いた。
陽子のこめかみを汗が一滴、伝い落ちていった。
いつもなら、亜紀の説明で納得してしまうところだ。それをついしつこく追及してしまったのは、陽子自身、内に「やましさ」を抱えていたからである。
しかし、それが娘の口から思いもかけない言葉を引き出すことになった。——どうして亜紀が円城寺のことを知っているのだろう?
送ってもらった車のことで、男と会ってきたと察していたのは分る。だが、なぜ円城寺という名を?
陽子には見当もつかなかったのだ。
「——亜紀」
と、陽子が言ったとき、下の玄関で物音がした。
「ただいま」
夫の声だ。陽子は少しためらったが、
「はい!」
と答えて、亜紀の部屋を出ると、急いで階段を下りて行った。
「上にいたのか」
正《まさ》巳《み》が、ネクタイを外しながら、「やれやれ、疲れた。会議が長くてな」
「ご苦労様」
陽子は、上着を受け取った。「ご飯は?」
「うん、軽く食べたけどな。何かあれば食うよ。食欲があるんだ」
正巳は、いやに明るい。
「じゃあ、すぐ温めて食べられるものを」
「わざわざ作るのならいいぞ。お茶漬でも何でも」
と、正巳が行きかけた陽子へ声をかける。
「手間じゃないわ、少しも」
「そうか? ——ああ、急に出張になったんだ。着替えだけ、詰めといてくれるか」
「そう。何日くらい?」
「三日分ありゃ充分だ。行った様子で、多少長引くかもしれないけどな」
「分りました」
「頼む」
正巳が着替えに行こうとして、「何だ、いたのか」
亜紀が下りて来ていた。
「お父さん、電話があったよ」
「誰から?」
「伊東さん。会社の」
「ああ。——何だって?」
「電話ください、って。いくら遅くてもいいって」
「そうか。——分った」
正巳は肯《うなず》くと、「お前、晩飯、食べたのか?」
答えを期待する風でもなく、二階へ上って行く。
亜紀は、父の後ろ姿を複雑な気持で見ていた。そこにはどこか暗いかげが、まとわりついているように見えたのだった。