協 力
体育の時間だった。
バレーボールで、亜紀は精一杯駆け回っている。
よく晴れた午後だった。ボールを打つポーンという音、その度に上る女の子たちの甲高い声。
亜紀は、汗が流れ落ちるのを手の甲で拭《ぬぐ》った。
意地でも、頑張って学校へ来てやる! ——亜紀はそう決心していた。
ミカは相変らず口をきいてくれないが、亜紀は仕方のないことと割り切ることにした。自分がミカの立場だったら、と思えば、無理もない。
「——はい、ゲームセット」
と、体育の先生が手を上げる。「次のチーム、コートに入って!」
亜紀はコートの外へ出て、
「ああ、やれやれ」
と、呟《つぶや》いた。
「亜紀、おばさんみたいよ」
と、友だちが笑う。
「つい出ちゃうのよ」
と、亜紀も笑った。
——そう。もしかすると、お金の問題で、学校へ来られなくなるかもしれないと思うと、今まで適当にやっていたことも必死でやりたくなってくる。
亜紀には、学校での一日一日が、いっそう大切なものに思えて来るのだった。
「——あれ、何だろ?」
と、一人の子が言った。
振り向くと、校庭を囲む柵《さく》の向うでキラッと光るものがあった。
「ヤクザだ」
と、誰かが言った。
亜紀はギクリとした。
男たちが四、五人、柵のそばに立って、コートの方を眺めているのである。
しかも、光ったのはレンズで、双眼鏡を持っているらしい。
「——何かしら?」
「こっち見てるの?」
「いやらしい!」
みんながザワついた。
亜紀には分っていた。——あいつらだ。
考えるより早く、亜紀は柵の方へと駆け出して行った。
やっぱり! あの白いスーツの男が真中に立ってニヤニヤしている。
「——何してるんですか」
と、亜紀は男をにらみつけながら言った。
「立ってるだけさ」
と、男は肩をすくめて、「道に立ってるのは法律に触れないぜ」
「可《か》愛《わい》い足を眺めるのもな」
と、もう一人が双眼鏡を手にして、「なでてやりたいぜ、全く」
「やめて下さい」
と、亜紀は男たちに言った。「警察を呼びますよ」
「呼んでみな」
と、白いスーツの男はじっと亜紀を見つめて、「後がどうなっても知らないぜ」
「クラスの子たちに迷惑かけないで」
「そりゃお前の気持一つだ」
「どういう意味ですか」
と、亜紀は言った。
「俺《おれ》はお前のことが気に入ってるんだ」
と、男は言った。「どうだ。——俺の言うなりになりゃ、借金だって、帳消しにできるかもしれないぜ」
亜紀はカッとなって、
「松井さんのお兄さんに、あんなひどいことして! あんたなんか人間じゃないわ!」
と、叫ぶように言った。
「まあ、その気の強いところが可愛いのさ」
と、男は笑った。
「ともかく、帰って下さい」
「俺はいいけど、他の連中がまだ見ていたいって言うんでな」
「へへ……。こんないい眺めはめったに……」
と言いかけて、「——何だ?」
足音がして、振り向いた亜紀はクラスの子たちがゾロゾロやってくるのを見て、びっくりした。
先頭に立っているのは、ミカだ。
「亜紀。——そこをどいていただきましょうよ」
「ミカ……」
「恐れ入りますが、そこをどいて下さいませんか」
と、ミカがていねいな口調で言った。「邪魔なんですけど」
「おあいにくだなあ」
と、白いスーツの男が言い返す。「断ったらどうする?」
「そうですか。じゃあ……」
と、ミカが振り向いて、「ほら、みんな!」
ワーッと女の子たちが駆け寄って、コートに線を引いたりする白い粉の一杯に入った箱を一斉に柵に向って投げつけた。
白い粉はたっぷりと男たちの上に降りかかって、たちまち一人残らず真白になってしまった。
白い煙が上って、男たちがむせて咳《せ》き込むとブワッと粉が舞った。
「——この野郎!」
「何しやがる……ゴホッ!」
粉が目にも口にも入って、文句も言えない。
「どいて下さいとお願いしたんですからね」
と、ミカが言った。
「畜生! ——ふざけやがって!」
白いスーツの男は、服はもともと白だが、頭まで真白になっていた。
「浦島太郎だね」
と、誰かが言って、みんな、ドッと笑った。
「何だと! 俺は——ゴホッ、〈太郎〉なんかじゃねえぞ。落《おち》合《あい》マサルってんだ!」
亜紀は、男の名を初めて知った。
「浦島太郎も知らないの」
「いやね、教養ない人って」
みんな、すっかり馬鹿にし切っている。
「どういうことになるか、憶《おぼ》えてろよ!」
と、白いスーツの落合という若い男はかみつきそうな顔で言ったが、サングラスも粉だらけで、何も見えないらしい。
サングラスを外すと、今度は目の周りだけ白い粉がついていないので、却《かえ》っておかしい。
「パンダだ!」
と、女の子たちが大笑いした。
「こいつら……」
と、他の男たちが柵へ近寄ると、パッとフラッシュが光った。
「ちゃんと撮ってよ。せっかくお化粧したとこなんだから」
と、ミカは、使い捨てカメラを持った子の方へ言った。
そして、男たちの方へ向くと、
「もし、私たちの誰かに何かしようものなら、今撮った写真で誰が犯人か分りますからね。今、一一〇番してます。今の写真、警察へ渡しておきますから」
ミカの堂々とした態度に、相手もすっかり呑《の》まれてしまっている。ミカは、軽く会釈して、
「どうぞお引き取りを」
と言った。「それとも、白い粉を洗い流してからお帰りになりたいようでしたら、お水も用意してございますが」
クラスの女の子、三、四人が重そうなバケツを手にやって来た。
「水、たっぷり入ってるよ、ミカ!」
「どういたしましょう?」
男たちは、今にも沸騰しそうな様子だったが、そこへパトカーのサイレンが聞こえて来てギクリとする。
「——この仕返しはするからな!」
と、落合という男は亜紀をにらんで、「いいか、憶えてろ!」
と促して、足早に立ち去る。
いくら格好をつけても、真白で、しかも歩きながら粉が落ちていくから、ふき出したくなるような光景だった。
亜紀は、ほとんど呆《ぼう》然《ぜん》として成り行きを見守っていた。
「——亜紀」
と、ミカが亜紀の肩に手をかけて、「あんな奴《やつ》らに負けちゃだめよ! 応援してるから、みんな」
亜紀はこみ上げてくる涙を抑え切れず、ミカを抱きしめて、ポロポロと涙が溢《あふ》れ出るのに任せたのだった。
亜紀とミカの「和解」を、クラスのみんなが拍手で祝った。
「——ありがとう、ミカ!」
「頑張って!」
ミカは、他の子たちへ、「あの連中、一人じゃ何もできないんだから、みんなも、何人かでまとまって帰るのよ」
「やっつけてやる!」
「私、目つぶしのスプレー持ってるもん」
「だめだめ。うちのお兄ちゃんが大けがさせられたのよ。甘く見ないの。用心すれば大丈夫だから」
ミカは、いつもとは見違えるように大人に見えた。
「無茶なことして」
と、声がして、担任の笹谷布子がやって来た。
「あ、先生。でも、間違ってないですよね、私たち」
と、ミカが言った。
「そうね」
と、笹谷布子は言って、「私なら、問答無用でバケツの水をぶっかけたわね」
ワッと笑いが起った。
「——学校としても、生徒へのいやがらせには断固として立ち向います。心配しないで。金倉さん」
「はい」
「あなたは、自分がみんなに迷惑をかけているとか、そんな風に思わないこと。いいわね。それが向うの狙《ねら》いなんだから」
その言葉、みんなの励ましの拍手。それが一度に亜紀の胸の暗い雲を吹き払ってくれた。
「ありがとう!」
と、亜紀は、上気した顔で言ったのだった……。
金倉茂也は眠っていた。
病室は静かで、午後の日射しが入り、ポカポカと暖い。——充分寝足りているはずの病人でも眠気を誘われて当り前のようであった。
ドアが開いた。
そっと顔を覗《のぞ》かせたのは——サングラスを外しているが、落合である。
目立たないようにしようというのか、普通の背広を着ていたが、借りもののせいで似合わないこと。
茂也のベッドへそっと近付くと、枕《まくら》もとの名前を確かめる。
「よし……」
こいつだ。——見てやがれ。
落合は、ポケットへ手を入れた。
すると、いつの間に入って来たのか、
「何かご用でしょうか?」
と藤川ゆかりが、落合の後ろにピタリとくっついて立っていたのである。
落合はギクリとした。
いつの間にその女が病室に入って来たのか、まるで気付かなかったのだ。
「付き添いか」
と、落合は言った。「しばらくどこかへ行ってな。何も見なかったことにしてな」
藤川ゆかりは、穏やかに、
「あなたが出て行った方が、きっと何ごともなくすみます」
と言った。
「おい、俺《おれ》はな、親切で言ってやってるんだぞ……。お前だって、こんなじいさんと心中する気はないだろ」
落合は格好をつけて、そう凄《すご》んだが、その瞬間、右側に鋭い痛みを覚えて飛び上りそうになった。
「いてえ! お前、何かしやがったのか?」
「しっ。ここは病室です」
と、ゆかりは全く平静な声で、「妙な真似はしない方が身のためですよ」
「何だと?」
落合は耳を疑った。何だ、こいつは? しかし、右腕を何かがツツと伝って、血が手の甲へ筋を描くのを見ると青くなった。
「血だぞ! 血が出てるぞ」
「お静かに」
と、ゆかりは言った。「廊下へ出るんですよ。いくら果物ナイフでも、先が尖《とが》ってれば、充分役に立つんですからね」
「お前……何だ?」
「私はこの患者さんのお友だちです。だからこの人の命を守るためなら、相手を刺し殺すことだってためらいません」
「俺が何をしたって——」
「静かに、と言ったでしょ。同じことを三回言わせましたね。今度はナイフがあんたの腹に食い込みますよ」
淡々とした調子なので、却《かえ》って凄みがある。
落合も、やっと女がただ者でないことに気付いた。
「分った。出るよ。出るから、そう怒んなよ」
「怒っちゃいませんよ。いや、怒っても、それを表に出さないくらいの度胸は持ってますよ。あんたは何も隠しておけない性格のようね」
落合は、脇《わき》腹《ばら》をチクリと刺す感覚に、今はすっかり青ざめ、冷汗をタラタラと流している。
廊下へ出ると、ドアを閉めたゆかりは、
「病人の邪魔にならないように、ね。でも情ないもんね。昔は、病人になって寝込んでる相手には手を出さなかったもんですよ」
「お前、一体——」
「動かないで。あんたのためよ。いくら病院の中でも、刺されたら痛いと思うけどね」
「冗談はよしにしようぜ」
と、落合は精一杯強がって見せる。
「このナイフが冗談? それならあと五ミリか一センチ、刺してあげようか?」
ゆかりがそう言うと、落合の脇腹に、さらに痛みが走った。
通りがかった看護婦が、落合の上げた声を聞いて、
「どうかなさいました?」
と訊《き》く。
「いえ、何でもないんですよ」
と、ゆかりはニッコリ笑って、「二日酔なんです、この人」
「あら、それで青い顔してるのね。いけませんよ、飲み過ぎは」
と、看護婦が笑って、行ってしまう。
「やめてくれ……」
落合は、ガタガタ震えていた。
「動くと痛いわよ。——ポケットのものを出しなさい」
「ポケットって……」
「あと一センチ、刺されたい?」
「やめてくれ!」
上ずった声で言って、「分った。——分ったよ。これだ」
ポケットから取り出したのは、ハンカチにくるんだ注射器だった。
「——中身は?」
「シャブだよ」
「何てことを……」
と、ゆかりは初めて感情を声ににじませた。「浅香八重子の指図?」
落合がその名を聞いて、目を見開いた。
「お前……どうしてその名前を——」
「代りにあんたに射ってやろうか」
「やめてくれ……。やりたかったわけじゃない。俺は……俺は……あの子に惚《ほ》れてるんだ……」
「あの子?」
「金倉……亜紀だ」
「お孫さんに? ふざけんじゃないよ」
と、ゆかりは言った。
そこへ、廊下をやって来たのは江《え》田《だ》だった。
「どうしました?」
「いいところに来てくれたね」
と、ゆかりは言った。「こいつからじっくり話を聞こうと思ってたんだよ」
「こいつ……浅香八重子のとこのチンピラですね。何て格好してやがるんだ」
「屋上へ連れてって、じっくり話そう」
と、ゆかりは言った。「先に連れてっておくれ。私はあの人の様子を見てから行く」
「分りました」
「あの人に万一のことがあったら、こいつを屋上から突き落としてやるわ」
落合は、ゆかりの、本気としか思えない言葉に膝《ひざ》が震えて立っていられなくなった。