決 心
沙恵子は腕時計を見て、
「もう行くわ」
と言った。「仕事の時間だから」
正巳が小さく肯《うなず》く。
「ゆっくりやすんでね。帰りに何か食べる物を買って来るわ。体力つけて治さなくちゃって、お医者さんもおっしゃってるから」
「すまんな……」
と、正巳は言って、咳き込んだ。
「しゃべらないで。——ね。じっと目をつぶって、眠るのよ。心配しないで」
沙恵子は、そっと立ち上った。
——病院は古くて、暗かった。
正巳は、その八人部屋の病室に入院している。転んで打ったという胸の痛みがひどいので、沙恵子は午後、この病院へ正巳を連れて来た。
検査の結果、肋《ろつ》骨《こつ》にひびが入っていた。しかし、それは大したことではなかった。
「気《き》胸《きよう》です」
と、医師が言った。「片方の肺が破れている。風船が割れてしぼんだようにね」
レントゲン写真は、右の肺が三分の一ほどに縮んでしまっているのを映し出していた……。
絶対安静で、即入院。——沙恵子は、何とか手続きをすませ、正巳を入院させた。
肺の穴がふさがり、自然に機能を回復するまで、一か月以上かかると言われた。
沙恵子は、病院を出ると、コンビニへと向った。少し遅刻しそうだが、連絡は入れてある。
バスに乗っていると、涙がこぼれて来て困った。
「過労も原因だね」
と、医師は言ったのだ。「無理してたんじゃないですか?」
無理……。あの人に、カラオケビルで働かせた。
そもそも、そんな仕事などしたこともない人だ。沙恵子には何も言わなかったが、ストレスがたまっていたのは当然だろう。
ごめんなさい……。ごめんなさい。
沙恵子は、バスの周囲の客の視線も構わず、すすり泣いた。
浅香八重子は、正確に夜十二時に現われた。
「——ちょっと頼んでいい?」
と、沙恵子は大学生の子に言ってレジから出た。
浅香八重子と二人で表に出る。
パラパラと雨が降り始めていた。
「寒いわね、もう」
と、八重子が首をすぼめ、「——考えてみた?」
沙恵子は、エプロンのポケットに手を突っ込んで言った。
「やります」
八重子はちょっと意外そうに、
「やるって……。私の頼んだ通りにしてくれるってこと?」
「ええ」
沙恵子は八重子を見て、「その代り、約束して下さい。これで、もう私たちを追い回すのはやめると」
「いいわよ」
と、八重子は肯いた。
「それと……あと百万円。私たちが新しい暮しを始める費用に」
八重子は薄笑いを浮かべて、
「何があったのか知らないけど、あんたもまともになったわね」
と言った。「いいわ。ただし、その分は後払い」
「分りました」
沙恵子は、暗がりの方へ目をやって、「何をすれば?」
「金倉のものを何か使って、娘をおびき出したいの。何か持って来てちょうだい」
「分りました」
「まあ、当人に電話させるのは無理だろうけど、あんたのことはもう知ってるから、あんたが電話したら信用するわよ」
「おびき出して、どうするんですか?」
「落合が好きにするわよ。四、五人であの子一人、可《か》愛《わい》がってやれば、あの親子もこりるでしょ」
沙恵子は目を伏せて、
「——命をとったりしないでしょうね」
「それはないわ。傷一つつけないで帰してやるわよ。大丈夫」
「分りました」
「その後で、百万払うわ。現金の方が?」
「できれば」
「じゃ、後は二人で好きなようにしなさい。一切干渉しないわ」
「本当ですね」
と、念を押す。
「信用しなさい、たまには」
と、八重子は笑った。「じゃ、明日またね。何か持って来るのよ」
「ええ」
沙恵子は、八重子を呼び止めて、「ちょっと。店に来たんだから何か買ってって下さい」
八重子は苦笑して、
「商売上手になったわね」
と、コンビニの中へ入って行った。
沙恵子はレジに戻って、大学生の男の子へ、
「タバコ、喫《す》って来ていいわよ」
と、声をかけた。
八重子は、雑誌を持って来てレジに置いた。
「四百八十円です」
沙恵子は、五百円玉をもらって二十円のおつりを渡した。
「じゃ、頑張って」
八重子はブラリと出て行った。
「——心配しないでね」
と、沙恵子は言った。
「そう言われても……」
正巳の声はかすれている。
「だめ。口をきかないこと」
沙恵子は正巳の方へかがみ込んで素早くキスした。
ベッドの周りはカーテンが引いてあって、見られる心配はない。
正巳が気にしているのはもっともで、沙恵子は初め入院させていた病院から、この新しくてきれいな大病院へ、正巳を転院させたのである。
病室はさすがに個室というわけにいかないけれど、二人部屋で、スペースもゆったりしている。明るい日射しが病室一杯に溢《あふ》れて、それだけで何となく元気になって来そうな気がするのだった。
「だけど……」
「いいの」
沙恵子は人さし指を正巳の唇に当てて、「例のお友だちの紹介でね、いいお仕事が回してもらえたのよ」
確かに、今日の沙恵子は真新しいスーツ姿で、どう見ても一流企業の秘書とでもいう感じだ。
「ただ、お給料がいい代りに忙しくなっちゃうけど。仕方ないわね」
沙恵子は腕時計を見て、「そろそろ行かないと。——東京で一晩だけ泊って、帰って来るわね」
正巳は、小さく肯《うなず》いた。
「すまんな」
と、呟《つぶや》くように言う。
正巳がいかに呑《のん》気《き》でも、二十何年もサラリーマンをやって来たのだ。働きもしないで給料をくれる所はない、と分っている。いい給料の所は、それだけの仕事をしなくてはならないのである。
「私に謝ったりしないでね」
と、沙恵子は手を正巳の額に当てて、「あなたに無理をさせて、申しわけないのは私の方だわ」
沙恵子は何となく目をそらしてしまった。
「新幹線の時間だわ。ここからは近いから、十分もあれば行くわね。——ちゃんと、食事もしてね。前の病院よりはずっとましでしょ?」
正巳がちょっと笑顔になって、肯く。
確かに、初め入院した病院の食事たるや、見ただけでげんなりするしろものだった。
「明日の夜には、来るわ」
沙恵子が正巳の手に自分の手を重ねた。
「僕は……大丈夫」
肺に穴が開いている正巳は、あまりしゃべれない。沙恵子の手を、力をこめて握るくらいしか、応《こた》えるすべがなかった。そして——正巳の目に、ふと辛《つら》そうな色が浮かんだ。
沙恵子は、正巳の表情を敏感に見てとった。
「なあに?」
と、ベッドの方へかがんで、小声でも聞き取れるようにする。
「いや……」
正巳はかすかに首を振った。
目をそらしている、その様子が、沙恵子に言葉以上に雄弁に語りかけていた。——口にするのは辛かったが、沙恵子は、その辛さを隠して言った。
「お宅のことね」
正巳が沙恵子を見る。沙恵子は続けた。
「奥さんと、お嬢さんがどうなさってるか、見て来てほしいんでしょ? そうでしょう?」
正巳は、沙恵子から目をそらした。
彼の胸中は痛いほど分る。——東京へ行くという沙恵子に、自分が出てしまった後の家の様子を見て来てほしい。しかし、沙恵子にそれを頼むのは、ひどいことだ。家も家族も、すべてを捨ててやり直すと決めたのに、今さら……。
「——やさしい人ね」
沙恵子は、正巳に微《ほほ》笑《え》みかけた。「いいわ、ちゃんと見て来るわよ」
正巳が、沙恵子を見つめた。
「その代り、あなたも早く元気になるのよ。お医者さんの言うことをよく聞いて。分った?」
正巳は肯いて、
「ありがとう……」
と言った。「すまん……」
「もう、しゃべらないで」
沙恵子は、もう一度正巳にキスして、立ち上ると、カーテンを開けた。
「じゃあ……行ってくるわね」
と、ボストンバッグを手にとる。
正巳が手を上げて、小さく振った。
沙恵子は笑顔で手を振り返すと、病室を出た。
廊下を行く内、沙恵子はふとよろけた。
ソファのある所まで何とか歩いて行くと、バッグを床に落とし、ソファにぐったりと座り込んで、両手に顔を伏せた。
声を上げて泣きたかった。泣き叫びたかった。
しかし、涙は出て来なかった。——そんなにも、自分の心は乾いてしまったのだろうか?
ガラガラと音がして、顔を上げると、点滴のスタンドを引張って覚《おぼ》束《つか》ない足どりの老婦人が、寝《ね》衣《まき》姿でやって来た。
見ていると、その老婦人はソファのわきに二台並んでいる公衆電話へと辿《たど》り着いて、一息ついている。
大方、家へ電話でもかけるのだろう。
沙恵子は髪をちょっと直すと、気を取り直して、バッグを手に立ち上ろうとした。
そして、妙なことに気付いたのである。
「もしもし。——はいはい、おばあちゃんよ。——うん、とっても元気よ。お母さんは? お買物? そう。じゃあ、昨日持って来てくれたお弁当はとってもおいしかったって、お母さんに言ってちょうだい。おばあちゃんがそう言ってたよ、って。分った? ——はい、そうね」
はた目には、入院しているおばあさんがうちへ電話をかけているだけで、特に珍しい光景でもない。
しかし、沙恵子は、その点滴の袋を連れた老婦人がやって来て公衆電話に向うのを、ずっと見ていた。——間違いない。
彼女は、公衆電話に、テレホンカードも、十円玉も入れなかった。ただ受話器を取ってしゃべり出したのである。
「——今日もお友だちが何人もお見舞に来てくれてね。楽しかったのよ。——ええ、忙しいでしょうから、無理をしないでね。——はい、待ってるわ。じゃあ、みんなによろしく。——はい、さようなら」
老婦人は受話器を戻した。十円玉も、テレホンカードも戻らない。
「おばあちゃん、またおうちにお電話してたの?」
と、通りかかった看護婦が声をかけた。
「はい。一日一度はかけないと、うちで心配するんでね……」
「そうね、みんな元気だった?」
「はい、おかげさまで」
「良かったわね」
老婦人は、また点滴のスタンドをガラガラと引張りながら、頼りない足どりで戻って行く。
若い看護婦は、それを見送っていた。
「あの……」
と、沙恵子は声をかけていた。
「何でしょう?」
「あの……。今のおばあさん、電話かけてたんですか。本当に?」
「ああ、見てらしたんですね」
と、看護婦は微笑んで、「お分りでしょ? 本当はかけちゃいないんです」
「やっぱり……」
「本人はどうなのか……。かけてるって信じているのかもしれません。それとも、見栄をはっているのか。——入院して一年以上たつんですけど、お宅の方がお見舞に来たことなんか、一度もないんです」
看護婦が肩をすくめた。「気の毒ですけど、私たちじゃどうしようもありませんしね」
——看護婦が行ってしまうと、沙恵子は自分がひどく寒々とした空地の真中にでも置き去りにされたような気がして、ゾッとした。
あの老婦人はいくつだろう? 七十か八十か……。
あと四十年もしたら、自分もああなるのだろうか。
いけない。
ぐずぐずしてはいられないのだ。
沙恵子は、気を取り直してボストンバッグを手に病院の玄関へと向った。
——新幹線のホームへ上ったときには、もう発車のベルが鳴っていた。
あわてて目の前の乗降口へ飛び込んで、息をつくと、スルスルと扉が閉った。
指定席券を手に、車両から車両へと歩いて行く。——車内は、ほぼ満席だった。
自分の席を見付け、バッグを棚へ上げておいて、腰をおろす。
「心配したわよ」
と、隣の席で浅香八重子が言った。
「病院へ寄っていたんです」
沙恵子は、座席のリクライニングを倒した。
「——大変ね、病人に惚《ほ》れると。一生、その調子で、あんたが面倒みることになるかもしれないわよ」
「構いません。私のことは放っといて下さい」
「もちろん」
と、八重子は眉《まゆ》を上げて、「あんたが、ちゃんと約束さえ果たしてくれたら、何も言わないわよ」
「そのために来たんですから」
沙恵子はそう言って、目を閉じた。「——ずっと、夜昼逆の生活だったんです。眠らせて」
「東京に着いたら起こしてあげるわよ」
八重子はそう言って、週刊誌を眺めた。
——むろん、沙恵子は眠っていたわけではない。八重子とは口をききたくなかったのだ。
正巳の体が元に戻るのにひと月かかるとして、入院の費用だけでどれくらいになるか。
その後も、正巳はそう無理がきくまい。
沙恵子の稼ぎで暮していくことになる。しかし、何をして?
沙恵子は、たとえ正巳が寝たきりの身になっても、自分一人で働いてやっていこうと思っている。でも、その気持と、現実にそれだけの金が稼げるかは別である。
少なくとも、普通の事務だの工員だので、生活を支えていくことはとても不可能だ。正巳が働いてくれたとしても、体に負担にならない仕事では、お金にもなるまい。
どうしたらいいのだろう。——どうしたら。
眠る気はなかったが、体は眠りを求めていたようで、ついウトウトした。
正巳と二人で川べりの道を散歩している姿が、夢に現われた。
二人で? ——いや、二人の間に、両方から手をひかれた、小さな「もう一人」がいる。
そう。私たちの子、正巳さんと私の子だ。
その光景は、ごく自然で、当り前のものだった。夢ではない、現実の風景のようで、沙恵子は胸が熱くなるのを感じたのだった。