つながり
「じゃあ……。また来ます」
と、亜紀は立ち上った。
「いつもありがとう」
と、松井健郎はベッドで小さく肯《うなず》いた。
「もう、ずいぶん良くなった。無理して毎日来なくてもいいよ」
と、健郎は言ってから、「——来てもいいけど」
と、付け加えた。
二人は一緒に笑った。
亜紀は嬉《うれ》しかった。健郎が一緒に笑ってくれること。それだけ元気になったことが、嬉しかった。
「あら、楽しそうね」
病室のドアが開いて、ミカが入って来る。「お邪魔だったかしら?」
「今、失礼しようと思ってたとこよ」
「ゆっくりしていけばいいのに。お団子、買って来たのよ」
と、ミカは紙包みを見せた。
「誘惑されるなあ、それには。でも、お母さんが待ってるから、じゃ、ミカ、またね!」
亜紀は鞄《かばん》を手に、病室を出て行った。
「——どう?」
ミカがベッドに近付いて、「お団子、食べるでしょ」
「俺《おれ》を太らそうって陰謀だな」
と、健郎は手を伸ばした。
「だめだめ。ちゃんとおててをきれいにしないとね」
ミカが熱く濡《ぬ》らしたタオルで、兄の手を拭《ふ》く。「——はい、これでよし」
「いやに親切だな。後が怖い」
と、健郎は串《くし》に刺した団子を食べながら、「——旨《うま》い」
「お兄ちゃん」
ミカは椅《い》子《す》にかけて、「亜紀を縛っちゃだめだよ」
「何の話だ?」
「亜紀には、君原さんって人がいるんだから。でも、お兄ちゃんにけがさせた責任が自分にあると思ってるから、亜紀はこうやって毎日お見舞に来てる」
健郎は、ミカの顔を見て、
「何だ、急に。——何も、今すぐ結婚しようってわけじゃない。お前が心配することないだろ」
「心配よ」
ミカは、明るい日射しの入って来る窓辺に行った。
土曜日なので、学校も午前中。亜紀は、いつもは夜八時ごろまでここにいて、帰るのである。
「退院すりゃ、見舞も毎日ってことなくなるさ。そうだろ? 入院している間はいいじゃないか。ちっとは病人にもいい思いさせてくれなきゃな」
と、健郎は言って、最後の団子を口へ入れた。
ミカは、窓辺に立ったまま、兄の方を振り向いた。
「私が看病しても、『いい思い』できないのね」
「おい……。お前は妹だぞ。他人とは違うだろ」
「他人でしょ。——血のつながってない妹なんだから」
つい、言ってしまった。
健郎はじっとミカを見つめて、
「どうして知ってる」
「いつか、お兄ちゃんとお母さんがしゃべってるの、聞いたの」
「そうか……」
健郎は、団子の串をわきのテーブルに置くと、「しかし、ずっと一緒に育って来たんだ。そうだろ?」
「私、誰の子?」
と、ミカが訊《き》く。
「そんなこと聞いて、どうするんだ」
「知る権利があるわ。そうでしょ?」
健郎は、天井へ目をやって、
「俺だって、よく知らないよ」
「嘘《うそ》! 隠さないで、教えてよ。——中途半端に秘密を知ってるなんて、いやだ」
ミカは、後へは引かないという目で、じっと兄を見つめている。
健郎はため息をついて、
「俺に言わせるのか。親《おや》父《じ》かお袋に訊けよ」
「正直に言うわけないじゃない」
確かに、ミカの言う通りだ、と健郎も思ったのだろう。
「——俺は、今の親父の子じゃない」
「え?」
「お袋は二度目の結婚なんだ。俺は前の亭主の子。分るか?」
「うん」
ミカは、椅《い》子《す》にかけて肯いた。
「お前は……。そう言えば分るだろ」
ミカは、少し青ざめていた。
「私は……お母さんの子じゃないのね」
「そういうことだ。親父が、恋人を作って、その女性がお前の母親だ」
ミカは、息することさえ忘れて、健郎を見つめていた。
「だけど、その人は病気で死んだんだ」
と、健郎は言った。「少なくとも、俺はそう聞いてる」
「私のお母さん……死んだの」
「それで、お前は赤ん坊のとき、うちへ引き取られて来た。——確かに、俺とお前は血がつながってない。だけどな、人間、自分が生れて来たときのことなんか、誰も憶《おぼ》えちゃいない。そうだろ? 育って、育てられて、親子、兄妹なんだ。だから俺とお前は兄と妹だ。——分るだろ」
ミカは、健郎の手を両手で包んだ。何も言わず、ただじっと包んでいた。
「ミカ——」
「黙ってて」
と、ミカは健郎の言葉を遮った。「すぐに納得しろって言われても無理よ。そうでしょ?」
「ああ……。そうだな」
健郎は、血のつながらない妹を、じっとベッドから見上げていた。
「——でも、私はずっとお兄ちゃんが好きだった。これからもよ」
「俺だってそうだ。——な、ミカ。恨むなよ、親父やお袋を。お袋は、俺を産むとき難産で、その後、子供のできにくい体になったんだ。だけど、親父はどうしても自分の子供がほしかった」
ミカは、じっと窓の方を見つめて、兄の話を聞いていた。
「お前を引き取って、お袋は自分の子供のように育てたんだ。それは大変なことだぞ」
「うん……。分る」
「いいな。何も知らないことにしててくれ。それが一番いいんだ」
ミカは微《ほほ》笑《え》んで、
「私だって、そんなことでグレたりするほど単純じゃないもん」
と言った。
健郎は、ホッとしたように笑った。
——亜紀は、気配を感じられないように、ソロソロと後ろへ退《さ》がった。
病室の中では、健郎の明るい声が聞こえている。亜紀は廊下を緊張した足どりで歩き出し、病室から遠ざかると、やっと普通の足どりになった。
玄関から外へ出て、足を止める。
振り向くと、病院の建物が午後の日射しの中で光っていた。
——聞いてしまった。
ミカに、学校のことで念を押しておきたいことがあったのを思い出し、亜紀は病室へ戻ろうとした。そして、ミカと健郎の話を聞いてしまったのである。
ミカ……。
大好きな「お兄ちゃん」が他人だったなんて。どんなに辛《つら》いだろう。
健郎と亜紀が付合うことに対して、ミカが見せる複雑な反応も、これで納得がいった。
とはいえ、亜紀にはどうすることもできないのだ。それは、ミカと健郎の問題なのだから……。
亜紀は、ゆっくり歩き出した。
家へ帰って、やっておくことがある。母、陽子が出歩いているので、亜紀が家事を大分やるようになっていた。
ふと、誰かが斜め後ろを歩いてくるのに気付いて振り向き、ハッとした。
あの男。——落合である。
しかし、今日の落合はサングラスをしていなかった。
「何の用?」
警戒して、亜紀はサッと落合から離れた。
しかし、昼間で、人通りも多い。ここでどうするということはあるまい。
「そう毛嫌いすんなよ」
と、落合は口を尖《とが》らした。「俺《おれ》だって、そう嫌ったもんじゃねえぞ。いいとこあるんだぞ」
「自分で言う人、ある?」
「そりゃそうだけど」
サングラスがないせいで、落合はひどく子供っぽく見えた。せいぜい二十一、二なのだろう。
強がって見せるためにサングラスをしているのだ。
「——サングラス、どうしたのよ」
と、亜紀が訊くと、
「この間、お前の仲間がめちゃめちゃにしやがったじゃねえか」
と、恨みがましい口調で言う。
「新しいの、買えばいいでしょ」
「こづかいがないんだ」
と、落合は言った。
何だか貧乏くさいヤクザである。
「今、あんたがひどい目に遭わせた健郎さんの所から帰る途中よ。いいとこがあるって言うんだったら、謝りにでも行ったらどう?」
一対一だと、何だかあまり怖く感じないせいもあってか、亜紀は言いたいことを言っていた。危険かもしれない。でも、黙っているのはいやだ。
だが、意外なことに、落合は怒りも凄《すご》みもしなかった。亜紀の視線を受け止めるのが辛いという様子で、目を伏せてしまう。
「悪かったとは思ってるよ」
と、口の中でボソボソと言う。「だけど俺だって……」
「え?」
「いや……。ま、謝っといてくれよ。代りに」
「どうして私があなたの代りに謝るの?」
「そう怒るなって」
落合は、ちょっとため息をついた。「だけど、お前もよく粘るよな。どうせ、すぐ尻《しつ》尾《ぽ》巻いて逃げ出すと思ってたのに」
「借金のかたに、って言うんだったら、さっさと手続きすりゃいいじゃない」
と、亜紀は言った。
そう。なぜ浅香八重子が、借用証書を見せつけて正面からやって来ないのか、亜紀にはふしぎだったのだ。
「色々あるのさ」
と、落合は肩をすくめた。「だけど、あの人にゃ用心しな。俺とは違うぜ」
「あの人って……。浅香とかって人?」
「ああ。俺だって、あの人は怖いからな」
落合の言い方は本気だった。
亜紀は、この落合という男が、浅香八重子の言うなりになっていることを恥じている、と感じた。
でも、怖いので離れられないでいるのだ。
亜紀は、チラッと通りを見渡して、バス停を見付けると、
「あのベンチに座らない?」
と言った。
「何だ、疲れたのか。もうトシだな」
と言い返しながら、落合は嬉《うれ》しそうだ。
二人でベンチに腰をおろす。——むろん、少し間を置いて座った。
「あの人は、金を取り立てるのが商売だ」
と、落合は言った。「だけどな、金は第一の目的じゃない。その家族をいじめて追い詰めて、怯《おび》えるのを見て楽しんでるんだ。それがあの人の一番の目的なのさ」
浅香八重子。——お父さんも、とんでもない女に狙《ねら》われたもんだわ、と亜紀は思った。
「だから、あの人にとっちゃ、お前のとこは頭に来るのさ。力になってくれる奴《やつ》が一杯いるし、お前とお袋も頑張ってるし」
「恐れ入ります」
と、亜紀は言ってやった。「あんた、いやなのね。その女の言うなりになってるのが。それならやめりゃいいじゃないの」
落合は苦笑して、
「すぐ消されちまうよ、そんなことすりゃ」
「殺されるってこと?」
「ああ」
落合は亜紀を見て、「用心しろ。お前らだって、いつまでもそうしちゃいられないぜ。あの人が本気で怒ったら……」
バスが来るのが見えた。落合は立ち上って、
「ちょうど来たか。俺は乗ってくぜ」
と言った。「——また会いたいな」
「こっちは会いたくない」
「そうだろうな」
落合は、停ったバスの方へ行きかけて、ふと戻って来ると、ポケットからメモを出し、
「お前の親《おや》父《じ》さん、入院してる」
「え?」
「これが病院だ。——じゃあな」
メモを亜紀の手に押し込んで、タタッとバスへ駆けて行く。扉がシュッと音をたてて閉まる寸前に、落合は飛び乗った。
亜紀は、バスが走り去るのを、唖《あ》然《ぜん》として見送っていたが……。
「お父さんが……」
入院? 急いでメモを見る。
大阪の病院だ。——本当だろうか?
亜紀は、今の落合の様子から見て、きっと事実だと思った。
メモには、病室の番号まで入っている。
入院してる……。お父さん!
亜紀は、そのメモを大切に鞄《かばん》の中へしまい込むと、早く母にこのことを話そうと、足早に歩き出した。
家の前まで来て、亜紀は足を止めた。
玄関の所に立っている女の後ろ姿——。
「あら、良かった」
振り向いたのは、円城寺小百合だった。「呼んでたんだけど、お留守のようだったから」
「母、出かけてて……」
と、亜紀は言ったが、実際はもう帰るころだ。
少しためらってから、
「あの……どこか他で話してもいいですか?」
と言った。
「ええ。その方が話しやすいわね」
小百合は、大分元気そうに見えた。
亜紀は、近くに喫茶店などないので、仕方なくおそば屋さんに入って、そう食べたくもなかったが、ざるそばを一緒に食べることになった。
「——色々、大変だったのね」
小百合は、亜紀の話を聞いて肯《うなず》いた。
「何だか、もう毎日が大騒ぎで……。母はお友だちのご主人のつてで、仕事を捜してるんです。今日もそれで出かけて」
「じゃあ……お父様はそれっきり?」
「ええ」
亜紀も、父が入院しているという話までは、口にできなかった。この人には関係ないことなのだし。
「あなたも学費とか、色々かかるでしょう」
「当面は何とか食べていくぐらいのこと……。でも、何か月となると、どうなるか。——学校、やめて働いても、とも思ってるんですけど」
小百合は何だか少しふしぎな目をして亜紀を見ていた。
「いけないわ」
「え?」
「学校をやめるなんて。お友だちがいて、先生がいて、青春とか、若いころの思い出って、あなたの年ごろが一番豊かなのに……。ね、何としても、ちゃんと学校へ行くのよ」
小百合が熱っぽいほどの口調で語りかけてくるのを、亜紀は圧倒されるような思いで聞いていた。
もっとおっとりした、浮世離れした感じのある小百合だったが、今日はどことなく違っていた。
「——分りました。もちろん、学校やめたいわけじゃないんです。先生も、学費を免除できるように努力してくれてて」
「そうよ! そういう気持に応《こた》えなくちゃね」
「はい」
亜紀は明るく肯いた。
「——良かったわ、あなたと話せて」
小百合は立ち上った。
亜紀は、戸惑った。何か別の用件で来たんじゃないのだろうか。
小百合がおそばの代金を払ってくれて、
「ごちそうになってすみません」
と、亜紀は表に出て言った。
「いいのよ。——お母様のことを助けて、しっかりね」
「はい」
円城寺小百合は、
「じゃあ」
と、ひと言言って、足早に帰って行ってしまった。
亜紀は首をかしげた。
あの人、自分の夫とお母さんのことでやって来たんじゃないのかしら?
亜紀とも、前からそのことは話し合っている。どうして何も言わずに帰って行ったんだろう?
亜紀が家へ帰ってみると、母ももう戻っていた。
「——いつも、お弁当でごめんね」
と、陽子は言った。「今から作ってたんじゃ遅くなるし」
「いいよ、私は」
と、亜紀は鞄を開けながら、「仕事の方は?」
「うん……。今はそうでなくても人手が余ってるから。お母さん、何の特技もないものね。口はきいてくれたんだけど、向うも申しわけなさそうに、『辞める人がいたら、必ず連絡します』って」
「そうか……。甘くないね」
「そりゃそうよ」
と、陽子は微《ほほ》笑《え》んだ。「さ、食べましょ。お腹空いたでしょ?」
たった今、おそばを食べたとも言いにくかった。
「お母さん……」
母にショックを与えるのが心配で、さりげなくメモを渡す。「これ……」
陽子はメモを見て、
「この病院がどうしたの?」
「お父さん、そこに入院してるんだって」
陽子は、言葉を失っていた。
亜紀が、健郎の見舞の帰り、あの落合という男に会ったことを話すと、陽子はそのメモを手にしたまま、ダイニングの椅《い》子《す》に腰をおろした。
「お母さん……」
「入院……。どこが悪いの?」
「それは言ってなかった。電話してみる?」
陽子は、少しの間メモを見つめていたが、
「——行ってみるわ」
と言った。「電話して、もし私だと知れたら、いなくなっちゃうかもしれない」
「うん……。そうだね」
陽子は、時計を見て、
「今出れば、新幹線がまだあるわ。亜紀、今夜一人で大丈夫?」
母一人に行かせるべきだ。亜紀はそう思って、しっかり肯いた。