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くちづけ39
日期:2018-06-26 17:54  点击:327
 眠 り
 
 
「そこを何とか……」
 
 と、陽子は言った。「東京から来て、真《まつ》直《す》ぐこちらへ参ったんです。何とか会わせていただけないでしょうか」
 
 若い看護婦は、ちょっと困っている様子だったが、
 
「少しお待ち下さい」
 
 と言って、行きかけ、振り向くと、「どうぞ、おかけになってお待ち下さい」
 
「はい」
 
 陽子は、薄暗く照明を落とした廊下の長《なが》椅《い》子《す》に腰をおろした。
 
 新幹線で新大阪駅へ着くと、タクシーでこの病院へやって来たのである。
 
〈金倉正巳〉の名は、確かに入院患者の中にあった。しかし、面会時間を大分過ぎていて、
 
「明日にして下さい」
 
 と言われたのだ。
 
 入院しているのだから、明日にしたところで逃げはしないだろうが、ともかく夫の姿を、この目で確かめたかった。
 
 陽子は、列車の中、タクシーの中で考えていた。
 
 夫に会ったら何と言うのか。そしてどうすればいいのか。
 
 強引にでも連れて帰るか。しかし、相手は子供ではない。夫が拒んだら、どうするのか……。
 
 円谷沙恵子のこともある。今、病人に付き添っているのかどうか分らないが、いずれにしても一度正面切って話をしなくてはならない。
 
 ——陽子は、自分がこんな局面に出会ったことなど、人生で一度もなかった、と思った。
 
 いつも何となく頼る人がいて、肝心のことは誰かが決めてくれて、やって来られた。でも、今度ばかりは、そうはいかない。
 
 しっかりしなくては。自分のことだけじゃない。亜紀だって、ここで父親を失ったら、これからの人生が大きく変ってしまう。
 
 しっかりしなくては……。
 
「——お待たせしました」
 
 と、声がして、年配の、穏やかな感じの看護婦がやって来た。
 
「どうも——」
 
「婦長です。少しお話を」
 
「はい……」
 
「こちらへ」
 
 と、廊下を一緒に歩きながら、「金倉さんの奥様?」
 
「はい。主人はどんな具合でしょう?」
 
「気《き》胸《きよう》です」
 
「気胸……」
 
「肺の片方に穴があいています」
 
「まあ……」
 
「でも、じっと安静にしていれば大丈夫。命にかかわるほどひどくありません」
 
 婦長の言葉に、陽子はいくらか安《あん》堵《ど》した。
 
「奥さんとおっしゃる方が、入院の手続きをされたんです」
 
 と、婦長が言った。「とても若い方で、娘さんかと思った、と看護婦が言っていました」
 
「その人と主人が……二人で東京から大阪へやって来たんです」
 
「そうですか。保険証も後で、ということらしかったので、事務の方はおかしいと思っていたようですが」
 
「お恥ずかしい話で」
 
「いえいえ」
 
 と、婦長は首を振った。「誰でも、みんな過去を持っています。私どもは患者さんの私生活にはかかわりません」
 
「はあ……」
 
「ただ——お分りいただきたいんですが、ご主人は目下絶対安静の状態です。自然に肺の穴がふさがるのを待つしかないので」
 
「そうですか」
 
「一か月はかかるでしょう。その間、無理に動かすことは避けたいのです」
 
「分りました」
 
「奥様としては、今すぐにもご主人を連れてお帰りになりたいでしょう。でも、差し当りは無理とご承知下さい」
 
「——はい」
 
 と、陽子は肯《うなず》いた。「今、会えますか」
 
「薬をのんで眠っておられるんです。起したくないので、お話は明日にしていただけませんか」
 
「分りました」
 
「お顔を見ていただくことはできますよ」
 
 と、病室のドアの前で足を止め、「ここです」
 
「あの——その女の人は付き添っているんですか」
 
「いえ、仕事があるとかで、今夜はおられません。明日来られるということだったそうです」
 
 婦長が静かにドアを開けた。「——こちらのベッドです」
 
 手で示してくれて、それから中へは婦長は入らなかった。
 
 陽子は、そっとベッドに近付いた。
 
 夫の顔が、廊下の明りを受けて、はっきり浮かび上って見える。
 
 陽子は、傍の椅子に腰をおろした。
 
 間違いなく、そこにいるのが夫、正巳だと分っても、何だか拍子抜けのような、脱力感があるばかりだ。
 
 それほど日がたったわけでもないのに、夫はずいぶん変ったように見える。ひげを剃《そ》っていないためもあるのか、やせて、やつれて見えた。
 
 いや、それは当然のことだ。
 
 病気なのだから。絶対安静にしていなければならない病人なのだ。
 
 眠っている正巳が、何かブツブツと呟《つぶや》くように声を出して身動きした。
 
 陽子はつい反射的に、
 
「なに?」
 
 と、そばへ顔を寄せて訊《き》いてしまった。
 
 しかし、正巳はそれきりまた寝息をたてているばかり。
 
 陽子は、涙が頬《ほお》を流れ落ちるのを感じて、あわてて手の甲で拭《ぬぐ》った。
 
 悲しいという気持の方が、涙の後からやって来た。
 
「——もうよろしい?」
 
 婦長が待っていてくれたのだ。陽子は急いで立つと、正巳のベッドから離れた。
 
 廊下へ出ると、
 
「明日、またおいで下さい」
 
 と、婦長は言った。「午前十時から面会できますから」
 
「はい」
 
 陽子は頭を下げた。「よろしくお願いいたします」
 
「色々、おっしゃりたいことはおありだと思いますけど、今は患者さんのストレスになるようなことは避けたいんです。冷静に話をされて下さい」
 
「分りました」
 
「追い詰めることのないように、——元気な人でも、たった一晩のストレスで、胃に穴があいたりするんです」
 
「気を付けます。それに、本当に話をしなきゃいけないのは、彼女の方だと思います」
 
「そうですね。——今夜はどうなさる?」
 
「どこか、近くにホテルでもあれば……」
 
 また一緒に歩き出しながら、陽子は訊く。
 
「それなら、この並びを十分くらい行くと、ビジネスホテルがあります。狭いけど、新しくてきれいですから」
 
「ありがとうございます」
 
 と、陽子はていねいに礼を言った。
 
 そして病院の〈夜間用出入口〉まで送ってもらって、もう一度、
 
「主人をよろしく」
 
 と、頼んでおいて、外へ出た。
 
 
 
 そのビジネスホテルはすぐに分った。
 
 事務的ではあるが、割り切っていて気が楽だ。どうせ寝るだけなのだから。
 
 シングルの部屋をとってもらって、キーをもらう。
 
 むろん、ベルボーイなどいないので、自分で部屋を見付ける。
 
 陽子は、早速家へ電話を入れてみた。
 
 亜紀が心配しているだろうと思ったからである。
 
 しかし、呼出し音は聞こえているのに、誰も出ない。
 
 少し心配だったが、後でかけ直すことにする。——お風《ふ》呂《ろ》へ入りたかった。
 
 小さなユニットバスではあるが、お湯を満たして体を沈めると、何か体のあちこちにこわばっていたものがゆっくり溶けていくような気がする。
 
 陽子は、いつも自宅で入るより、ずっと長い間、お湯につかっていた。
 
 ともかく、正巳を見付けたのだという安心感。そして、夫の身を心配している自分の「けなげさ」(?)に対する愛着とでも言うようなもの……。
 
 本当なら、一か月も入院しなくてはいけないというのだから、大変なことだが、ともかく今は安心感の方が大きかった。
 
 ——たっぷり時間をかけて上ると、家へ電話する。
 
「はい」
 
「亜紀、お母さんよ」
 
「ああ。——どう?」
 
「お父さん、いたわ」
 
「話した?」
 
「ううん。薬で眠ってた。明日、ゆっくり話してくる」
 
「病気って……」
 
 亜紀は不安げに言ったが、陽子の説明を聞いて、少し安心した様子だった。
 
「じゃ、時間がたてば治るんだね」
 
「そういうお話だったわ」
 
「ともかく——良かったね」
 
「まあね。そっち、大丈夫?」
 
「え? うん……。大体大丈夫」
 
「何よ、それ?」
 
「君原さんと替る?」
 
「来て下さったのね。もう遅いわ。寝てるんでしょ? よろしく伝えて」
 
「分った」
 
「じゃ、明日、また電話するわ」
 
「今、どこ?」
 
「あ、そうそう」
 
 陽子はこのホテルの電話番号を教えて、「——気を付けるのよ」
 
 と言って、電話を切った。
 
 
 
「ああ痛い……」
 
 亜紀は、お尻《しり》をさすりながら、「お母さんには何も言わなかった」
 
「うん」
 
 君原は、ソファに横になっていた。
 
「大丈夫? 骨でも折れたかな」
 
「いや、何とも……。いてて……」
 
「あわて者が揃《そろ》ってるね」
 
 と、亜紀は笑って言った。
 
 そう。何とか円城寺が土手を這《は》い上り、亜紀と君原を引張り上げてくれたのである。
 
 とんでもない展開で、小百合も自殺する気を失くしてしまったらしく、おとなしく夫と一緒に帰って行った。
 
 妙な夜だった、と亜紀は思った。
 
 母の電話で、一応父の様子も分ったし、亜紀はひと安心して、寝ることにした。
 
「君原さん。そこじゃ、体、痛くない?」
 
 と、声をかけてみると、もう君原はスヤスヤ眠っている。
 
「お疲れさま」
 
 と、そっと呟いて、亜紀は君原にキスした。
 
 さて、寝るか。
 
 君原の寝顔を見ていたら、急に眠気がさして来た。
 
 パジャマに着替えるのも、あちこち痛くて大変だったが、何とかやれた。ベッドへ潜り込むより早く、亜紀はぐっすりと眠り込んでしまった……。
 
 
 
 ルルル。——ルルル。
 
 電話の音。電話だよ。
 
 亜紀は、目を覚ました。——母がいないことを思い出した。
 
 私、出なきゃ。
 
 分っていても、動けない。ベッドから這い出すようにして、電話へ辿《たど》り着く。
 
「——はい」
 
 と、声というより「音」を出す。
 
「もしもし」
 
 女の人の声。誰だろ?
 
「はい……」
 
「金倉さんのお宅ですね」
 
 そうだっけ? ああ、そうだ。
 
「はい、そうです」
 
「娘さん? 亜紀さんですね」
 
「ええ……」
 
「私——円谷といいます」
 
「つぶら……」
 
「円谷沙恵子です」
 
 ゆっくりと頭のもやが晴れていく。
 
「——あなたが」
 
「ご存知ね、私のこと」
 
 亜紀は座り直した。
 
「何のご用ですか」
 
「お宅には、本当に申しわけないことをして……。私、よく分ったんです」
 
 と、円谷沙恵子は言った。「あなたのお父さん、入院してます。私と逃げて、ストレスがたまってたんでしょう。やっぱり無理だったんです」
 
「今さら何ですか」
 
 と、亜紀は言った。「もう、父なんかいなくても充分やってます」
 
 つい、言いたくなってしまうのだ。
 
「亜紀さん。罪滅ぼしに、お宅の家と土地を担保にした、お父さんの借金の証書を、お返ししたいんです」
 
「え?」
 
「私、取り上げて来たんです。これ、お渡ししたいんです。取りに来て下さる?」
 
 亜紀は、君原の方へ目をやった。ぐっすり眠り込んでいる。
 
 時計を見ると、もう朝が近い。
 
 たぶん、外は白みかけているだろう。
 
「今、どこにいるんですか?」
 
 と、亜紀は訊いた。
 
「お宅のすぐ近くです」
 
 と、円谷沙恵子は言った。「コンビニの前、お分りでしょ?」
 
 コンビニか。あそこは二十四時間開いているから、店員がいる。危険なことはないだろう。
 
「こんな時間に、と妙に思われるでしょうけど、私、一番早い列車で発ちたいんです。連中が追って来るといけないので」
 
「分りました。これから行きます。待ってて下さい」
 
「ありがとう。店の前に立っています」
 
 亜紀は電話を切ると、急いで服を着た。ジーパンをはいて、玄関を出る。
 
 チラッと居間を覗《のぞ》いたが、君原は眠り込んでいて、起すのは可《か》哀《わい》そうに思えた。今はコンビニの所まで行くだけなのだし……。
 
 亜紀は、一応用心しながら、そっと玄関のドアを開け、外の様子をうかがった。——まだ暗いが、それでも真暗というわけではなく、辺りの様子もうっすらと見える程度。
 
 亜紀は、外へ出て鍵《かぎ》をかけると、急いでコンビニへと向った。朝の空気は冷たくて、亜紀の眠気を吹っ飛ばしてしまった。
 
 ——コンビニの明りが見えるとホッとする。その表には誰もいなかった。
 
 おかしいな……。
 
 亜紀がコンビニの前で足を止め、周囲を見回していると、店の自動扉が開いた。
 
「——亜紀さんね」
 
 と、その女はコンビニの袋を手にさげて言った。「ごめんなさい。待ってる間に、必要なものを買っとこうと思って」
 
「円谷さんですね」
 
「ええ。——これ、お返しするわ」
 
 と、大判の封筒を取り出す。
 
「これが……」
 
「借用証です」
 
 と、沙恵子は言った。「でも、憶《おぼ》えておいて下さいね。お父さんを責めないで。すべて私のためだったんです」
 
「あなたの?」
 
「私を助けるための借金だったんです」
 
 と、沙恵子は言った。「そのためにお宅にも、ご迷惑をかけてしまって……」
 
「そんなことより——」
 
 と、亜紀は封筒を受け取り、「お父さんと別れてくれるんですか?」
 
 沙恵子はやや目を伏せがちにして、
 
「どうなるか、私にも分りませんわ」
 
 と言った。
 
 もちろん、円谷沙恵子は大阪の父の所へ陽子が会いに行っていることなど知らないはずだ。
 
 しかし、父は一か月は入院したまま動かせないという。そうなれば、この女と母とが話をして、どうするかを決めるしかないだろう。
 
「分りました」
 
 と、亜紀は言った。「でも、父に伝えて下さい。私たちがどんな思いをしているか。どんなひどい目に——」
 
 亜紀は言葉を切った。
 
 言ったところでむだだろう。母が充分に話してくれるはずだ。
 
「じゃ、これで」
 
 と亜紀は言った。
 
 沙恵子はやや戸惑った様子で、
 
「何も訊《き》かないんですか? お父様がどこにいるか……」
 
「隣の家にいたって、帰る気がなければ同じです」
 
 と、亜紀は言った。「ともかく、私からは帰って来て、なんて言いません。父の方から『帰らせてくれ』と頼んでくるのならともかく」
 
 本音だったか、と言われれば、百パーセントその通りではない。けれども、これくらいの気持でいなくては、捨てられた自分たちがあんまり可哀そうだ。
 
「——分りました」
 
 と、沙恵子は言った。「でも——あの人も心配しています。それは本当です」
 
「『あの人』なんて言わないで」
 
 と、亜紀は今になって腹が立って来て、「早く行ったら?」
 
「ええ。——じゃ、お元気で」
 
 沙恵子は、半ば走るような足どりで行ってしまった。
 
 亜紀はホッと息をついた。——本当は、もっと話してみたいという気もあったのである。でも、いざ面と向ってみると、「この女のせいで……」という怒りがこみ上げて来て止められなかったのだ。
 
 家へ帰ろう。——亜紀は、封筒の中を覗いたが、何か書類が入っているのが分るだけで、道の真中で広げるわけにもいかなかった。
 
 家へと急いで戻る。
 
 母のホテルへ連絡しておこう、と思った。円谷沙恵子は、当然病院の父の所へ行くはずだ。
 
 玄関のドアの所で、亜紀は戸惑った。
 
 鍵がかかってない? ——かけ忘れたかしら、私?
 
 確かにかけたという記憶があるが……。
 
「君原さん——」
 
 居間を覗いて、亜紀は立ちすくんだ。
 
 落合と、男たちが二人、そして一人の女がソファにゆったりと腰をおろしていた。

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