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くちづけ40
日期:2018-06-26 17:56  点击:313
 犠 牲
 
 
「お帰りなさい」
 
 と、その女は言った。「お留守の間に、ちょっとお邪魔してるわよ」
 
 この女が浅香八重子か。——一見、ごく普通の「おばさん」という印象だが、じっと亜紀を見据える目が鋭い。
 
 しかし、亜紀は君原の姿が見えないことの方が心配だった。
 
「どこにいるんですか」
 
 青ざめながらも、亜紀はしっかりした声で言った。「君原さんをどこへやったの!」
 
「気丈な子ね」
 
 と、浅香八重子は微《ほほ》笑《え》んで、「あんたのような『いい子』が大嫌いなの、私。でも、いじめがいもあるってものだけど」
 
 亜紀は、落合が何となくばつが悪そうにしているのに気付いていた。——俺《おれ》はやりたくないんだぜ。だけど、この人が怖いから……。落合はそう言いたげだった。
 
「君原さんはどこですか」
 
 体が震えた。もしや——もしや、どこかで殺されているのでは……。
 
「さあ、そんな人、見たかしら」
 
 八重子は、傍らの男に言った。
 
「知りませんね」
 
 肩をすくめたその男は、冷ややかな笑いを浮かべていた。
 
「ああ、そういえば、お風《ふ》呂《ろ》場《ば》の水が出しっ放しだったようよ。水をむだにしちゃいけないわ」
 
 と、八重子が言った。
 
 お風呂場の水……。
 
 亜紀は、浴室へと駆けて行った。
 
 バスタブから水が溢《あふ》れている。その中で、両手両足を縛られてもがいているのは君原だった。
 
「君原さん!」
 
 亜紀は夢中でバスタブへ飛び込むと、君原を抱き上げた。「しっかりして!」
 
 君原が激しくむせた。亜紀は水を止めると、栓を抜いて、君原の体をバスタブの外へ押し出した。
 
「——喉《のど》が渇いてたらしいから、たっぷり水を飲ましてやったぜ」
 
 あの男が、浴室の入口に立って笑っていた。
 
 ——落合が後ろに立っている。その細身の男は、落合よりずっと危険だ、と亜紀は感じた。
 
 君原が咳《せ》き込んで水を吐いた。
 
「君原さん……。ごめんなさい! 私が油断して——」
 
「早く……逃げろ」
 
 と、君原がかすれた声で言った。
 
「そうはいかないぜ」
 
 と、男がナイフを取り出した。
 
 長い刃が銀色にキラリと光る。
 
 亜紀は君原を後ろへかばうようにして、男を見上げた。
 
 どうすることもできない。
 
 君原は手足を縛られたままだ。亜紀は、あの円谷沙恵子のことを信じてしまった自分の甘さに歯ぎしりする思いだった。
 
 あの女が亜紀をおびき出し、その間にこの連中が——。玄関のドアを叩《たた》かれたら、君原は亜紀に何かあったのかと思って開けただろう。
 
 しかし、今はともかく誰もいないのだ。自分と、君原の二人きりなのだ。
 
 その男はナイフを持った手をわざとブラブラ振りながら亜紀の方へ近付いて来た。ナイフの刃が揺れて、亜紀の目の前をかすめる。
 
 怖い。当然のことだ。
 
 でも、負けん気をふるい起して、亜紀は男をじっと見返していた。
 
「早いとこ片付けなさい」
 
 と、浅香八重子が浴室へ入って来て言った。
 
「——ねえ、お嬢さん。その男の子はあんたの大事な人らしいわね」
 
 亜紀は、じっと唇をかみしめていた。何とか逃げ出す方法はないだろうか?
 
「あんたの気持一つにかかってるのよ、その『大事な人』の体はね」
 
「——どういうことですか」
 
「簡単なことよ。私はね、自分の子分たちに優しくすることにしてるの」
 
 八重子は、落合の肩にそっと手をかけた。「この子が、あんたに夢中になってるのを見てると可《か》哀《わい》そうでね。思いをとげさせてあげたいと思うのが、親心でしょ?」
 
 落合は、亜紀から目をそらしている。
 
「——私もね、女だからあんたにひどいことはしたくない。ほんの二、三時間でいいのよ。あんたがこの落合のものになってくれりゃいい。何も結婚しなさいってわけじゃないわ。一度だけ。——それで、あんたは、この家も土地も失くさずにすむ。悪い取引きじゃないでしょ」
 
 亜紀は血の気がひいていくのを感じた。
 
 落合だけで終るはずがない。このナイフを持った男、他にも、学校の柵《さく》越《ご》しに粉だらけにされた男たちがいる。
 
 そんな……そんな目に遭うなら、死んだ方がましだ。
 
「あんたには、選ぶことなんかできないんだよ」
 
 八重子が凄《すご》みのある声で言った。「力ずくで、どうにでもできる。だけど、それじゃ落合も後味が悪いだろうからね」
 
「ちょっと痛い目に遭わせてやりゃ、言うことを聞くさ」
 
 と、男が言って、ナイフを持った手が伸びて来た。
 
 亜紀が反射的に身を縮めると、ナイフは頬《ほお》をかすめるようにして、倒れている君原の腕に切りつけた。
 
 君原が呻《うめ》いて身をよじった。
 
「君原さん!」
 
 亜紀が悲鳴を上げた。君原の右腕から血が流れ出している。
 
「やめて! ひどいことして……」
 
「お前がはっきりしないからさ」
 
 と、その男はナイフをティッシュペーパーで拭《ぬぐ》って、「分ってるだろうな。次はお前の顔に一生消えない傷が残るぜ」
 
「よしなさい」
 
 と、浅香八重子が言った。「頭のいい子なんだから、ちゃんと分ってるわよ。ねえ、そうでしょ?」
 
 亜紀は、君原のそばに座り込んで、しばし動かなかった。この連中は楽しんでいるのだ。亜紀と君原が苦しんでいるのを。
 
 亜紀がこの連中の言う通りにすれば君原が苦しむ。といって、亜紀が拒み続ければ、この男のナイフが、もっと君原を傷つけるだろう。
 
 すると、君原がかすれた声で言った。
 
「こんな奴《やつ》の言うことを聞いちゃだめだ! 僕はいいから!」
 
「君原さん……」
 
「泣かせるぜ」
 
 と、男は笑って言った。「俺《おれ》は弱いんだ、こういう場面に」
 
 ——亜紀は、覚悟を決めた。
 
 逃げるチャンスは、万に一つもあるまい。逃げられたとしても、君原がその後でどんな目に遭わされるか。
 
 それに比べたら……。何時間か、じっと堪えていればいいのだ。いや——堪えられなくて、どうかなってしまうかもしれない。でも、今は他に方法がない。
 
 亜紀は、君原の額に唇をつけると、立ち上って言った。
 
「この人にもう手を出さないで」
 
 八重子が微笑んで、
 
「覚悟ができた? いい子だわ」
 
 と、肯《うなず》く。「落合。あんたの恋しい彼女を連れて行きなさい」
 
「自分で行きます」
 
 亜紀は、震える足で、何とか真《まつ》直《す》ぐに立って歩き出した。
 
「亜紀君——」
 
 君原が呻くように、「やめるんだ!」
 
「黙ってねえと——」
 
 男がナイフを振りかざす。
 
「やめて!」
 
 亜紀は叫んだ。「約束よ。手を出さないで」
 
「分ったよ」
 
 男は苦笑した。「いつまで、そうやって強がってられるかな」
 
 亜紀は、落合のそばへ行って、
 
「どこで?」
 
 と言った。
 
「お前の部屋がいいな」
 
「分ったわ」
 
 亜紀は、自分の部屋のドアを開けて、中へ入った。
 
 さっき、円谷沙恵子からの電話で起きたときのまま、ベッドはシーツがしわになっていた。
 
 落合が後ろ手にドアを閉めて、
 
「——俺のこと、恨むなよ」
 
 と言った。
 
「いいじゃないの、恨んだって」
 
 と、亜紀は言った。「恨むことぐらいしかできないんだから」
 
「俺は……気が進まないんだけどさ」
 
 と、落合は曖《あい》昧《まい》に、「でも、お前のこと逃がしたりしたら、あの人に何をされるか……」
 
「言いわけしないで」
 
 亜紀はベッドに座った。「逃げないわよ。君原さんが殺されちゃうかもしれないのに」
 
 落合は、やっと亜紀を見た。
 
「お前、いい度胸だなあ」
 
「やめて、そんなに強くないわ。泣き出したいのを我慢してるのよ」
 
 亜紀は、チラッとドアの方へ目をやって、「ぐずぐずしてると、叱《しか》られるんじゃない?」
 
 と言って、ベッドに身を横たえた。
 
 落合はゴクリとツバをのみ込むと、上着を脱いで椅《い》子《す》の背にかけた。
 
「——一つ、教えて」
 
 亜紀は落合がベッドに腰をおろすと言った。「あなただけじゃすまないんでしょ? あの怖い男も——他の男の人たちも……」
 
 落合は目をそらした。答えを聞いたのと同じだ。
 
「私……殺される?」
 
「そんな……。そんなこと、しねえよ」
 
「死ぬより辛《つら》いわよ。君原さんとだって、キスしかしたことない」
 
「あの兄貴は……怖い人なんだ」
 
 と、落合が言うと、こんなときなのに亜紀は笑ってしまって、自分でもびっくりした。
 
「怖い人ばっかりなのね」
 
「まあ……そうだな」
 
「いつも怖がってて、面白いの?」
 
「怖いから、いばりたくなるんだろうな」
 
 落合は亜紀を見て、「お前——」
 
「お父さんの病院、教えてくれてありがとう」
 
 と、亜紀は言った。「お母さん、会いに行ったわ」
 
「そうか……」
 
「今の内にお礼言っとかないと、後じゃ言えないと思うから」
 
 亜紀は、横になったまま、深く息をついた。
 
 これからの時間は、たぶんこれまでのどの時間よりも長いだろう。
 
 落合が緊張した面持ちで亜紀の方へ身をかがめると、そっと手を亜紀の頬に当てる。
 
 亜紀は目を閉じると、何も感じまいとした。不可能だと分ってはいながらも。
 
 
 
 その音は、初め、雑音のようだった。
 
 気のせいかしら? ——亜紀は思った。
 
 誰か助けに来てくれないかと願っているので、聞こえるような気がするだけなのだろうと思った。でも——。
 
 落合が顔を上げた。
 
「あれ……パトカーだな」
 
「やっぱり、そう?」
 
 そうだ。パトカーのサイレンに違いなかった。音が少しずつ大きくなってくる。
 
 でも、ここへ来るんじゃないだろう。だって、誰も通報なんかしていないのに、どうしてパトカーが来るだろう?
 
「違うわよね。どこか別の所へ行くのよね」
 
 亜紀のセリフとしては妙だった。でも、もし本当にここへ来るのだったら……。神様! どうかそうであってくれますように!
 
 ドアが開いて、あのナイフを持った男が顔を出した。
 
「兄貴——」
 
「パトカーだ。まさかここじゃねえだろうけど、そいつに声を出させるなよ」
 
 と、男が言った。
 
 そのとき——サイレンが停った。
 
「兄貴、この家だぜ」
 
 と、落合がベッドから飛び起きると、「逃げよう!」
 
「待て!」
 
 玄関のドアを激しく叩《たた》く音がした。
 
「開けろ! 警察だ!」
 
 と怒鳴る声。
 
「畜生! どうしてだ?」
 
 男がナイフを取り出して、「おい、お前、こっちへ来い!」
 
 と、亜紀に言った。
 
 亜紀は黙ってベッドから出た。
 
「兄貴——」
 
「いざとなったら、こいつを人質にして逃げるんだ」
 
 男が亜紀の腕をつかんだ。すると——。
 
「やめてくれ!」
 
 と、落合が突然、亜紀を押しやって、「俺はいやだ!」
 
 と叫んだのだ。
 
 玄関のドアが大きな音をたてた。鍵《かぎ》を壊して入って来たのだろう。
 
「落合! 貴様——」
 
 亜紀が息を呑《の》んだ。ナイフの刃が落合の腹へ切りつけて、血がふき出していた。
 
 亜紀はとっさに部屋を飛び出した。
 
「誰か! 助けて!」
 
 と叫ぶと、警官が駆けて来た。
 
「ナイフを持ってます! 人が刺されて——」
 
 亜紀はそれだけ言って、よろけると壁にもたれかかり、そのまま膝《ひざ》の力が抜けて、しゃがみ込んでしまった。
 
 警官がさらに二人、三人と家の中へ入って来た。
 
 気を失っていたわけでもないのに、亜紀が我に返ったとき、何分間かが過ぎていた。
 
「大丈夫か?」
 
 覗《のぞ》き込んでいたのは君原だった。
 
 亜紀は肯《うなず》いた。黙って肯いた。——そして君原に抱きついた。
 
「いてて!」
 
 と、君原が飛び上る。
 
 やっと思い出した。君原が腕を切られてけがしていたことを。
 
「ごめんなさい! ——ごめんなさい!」
 
「いや……。大丈夫。大した傷じゃ……。いてて」
 
 と、情ない声を上げる君原を見て、亜紀は笑ってしまった。
 
 その拍子に涙が頬《ほお》へとこぼれ落ちる。助かった。助かったのだ。
 
「——今、救急車が来る」
 
 と、警官が言った。「あの刺された男の出血がひどいんで、先に運ぶが、いいかね?」
 
「ええ、もちろんです」
 
 と、君原は言った。「僕なら、タクシーででも行きます」
 
「だめよ! もう一台救急車を呼んでもらって」
 
 と、亜紀は言った。「私、一度乗ってみたかったの」
 
「おい……」
 
 と、君原が苦笑して、「しかし、あと少し遅かったら、そういうはめになっただろうな」
 
「そうね、でも……」
 
「何だい?」
 
「誰が通報したんだろ?」
 
 と、亜紀は言った。
 
 
 
「——もしもし」
 
「奥さん。お呼び立てして。江田です」
 
「ああ。待ってたよ。——それで?」
 
 と、藤川ゆかりは言った。「片付いたかい?」
 
「今、話しても大丈夫ですか?」
 
「ああ。ナースセンターは忙しそうだから、こっちの話なんか聞いちゃいないよ」
 
「危ないところでしたが、うまく現行犯逮捕ってことになりました」
 
「浅香八重子も?」
 
「はい。言い逃れできませんよ、今度は。娘さんの証言と、それにあの落合ってのも」
 
「脅していたのが効いたね」
 
「実は、あいつ一人が刺されて重傷です。しかし、命に別状ない様子ですから」
 
「少し痛い思いをしないと、ああいう手合いは出直せないよ。刺したのは?」
 
「浅香八重子の可《か》愛《わい》がってる奴《やつ》です。むろん捕まりましたが」
 
 と、江田は言った。
 
 
 
 救急車がやって来た。
 
「——どこだ?」
 
 と、担架を抱えて、救急隊員たちが上ってくる。
 
「その奥だ」
 
 亜紀は、君原の腕を取って(けがしていない方の腕だ)、
 
「あの落合って人、私をかばおうとして刺されたのよ」
 
「君がそうさせたんだ。君の力だよ」
 
「良くなってほしいわ」
 
 担架で、落合が運ばれてくると、亜紀はそばへ行った。
 
「ちょっと止めてくれ」
 
 と、落合がかすれた声を出す。
 
「急がないと——」
 
「そうよ」
 
 亜紀が落合へ微《ほほ》笑《え》みかけた。「入院したら、お見舞に行ってあげるから」
 
「本当かい?」
 
 落合は泣き出しそうな顔をして、「痛いんだ……。情ねえよな」
 
「刺されりゃ痛いわよ。痛いときは泣けばいい。ね? 強がってる必要ないもの」
 
「そうか……。そうだな」
 
 落合は、小さく肯いた。「良かったよ、間に合って」
 
「ありがとう。助けてくれて」
 
 亜紀は、かがみ込むと落合の唇にキスした。
 
 落合はポカンとしていたが、
 
「——やった!」
 
 と声を上げ、「いてて……」
 
「馬鹿ね」
 
 と、亜紀は笑った。
 
「俺《おれ》——元気になるぜ!」
 
「ええ」
 
 亜紀は、落合を乗せた救急車がサイレンもけたたましく走り去るのを見送った。
 
 君原は、パトカーで病院へ送ってもらうことになった。
 
「君は学校があるだろ」
 
 と、君原が言った。
 
 もうすっかり朝になって、近所の人たちが何事かと覗《のぞ》いている。
 
「さぼるつもりだったのに」
 
 と、亜紀は表に出て言った。
 
「ちゃんと行けよ。友だちが心配するぞ、休むと」
 
「うん」
 
 と、亜紀は肯いた。「じゃ、見送るわ」
 
「それだけかい? あの落合にはキスしたのに?」
 
「だって、けがの程度が——」
 
 と言いかけて、「こっちは、したいからするの!」
 
 亜紀は君原に抱きついて、しっかりキスした。
 
 近所の人たちの目が、むしろ快感だ。
 
「出血するぞ、興奮すると」
 
 パトカーの中の警官が、呆《あき》れ顔に言ったのだった。

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