崩 壊
夢だったのかな……。
正巳は、明るい日の射し込む窓へと顔を向けて考えていた。
ゆうべ……。眠っている間のことだが、何だか妻の陽子がそばに来たような気がしたのだ。
きっと夢を見たのだろう。陽子がここを知っているわけもないのだし。
それにしても——沙恵子と二人で新しい生活を始めようというのに、こんなざまでは困ったものだ。
といって、じっと寝ているより他にすることがない。こうしているのが「治療」だというのだから……。
しかし、ぼんやりと寝ていると、自然正巳の頭に浮かぶのは、やはり陽子、亜紀との日々の思い出だった。それは仕方のないこと、と割り切るべきだろう。そうでなければ、沙恵子に対してすまない。
頭でそう考えても、正巳の心はいつしか「わが家」へ帰っている。
——正巳は、どうして家族を捨てるなどということができたのか、自分でもふしぎだった。いくら沙恵子を愛したとしても、こんな風に逃げてくる以外に、道はなかったのだろうか……。
胸が痛んだ。病いとしての痛みは、むしろ正巳の苦しみをやわらげてくれる。
俺は——俺はもう家に戻ることなどできない。しかし、沙恵子一人に働かせて、こうしてのんびり入院しているのも……。
そうだ。いっそ死んでしまえば、どっちにとっても、いいことかもしれない……。
「——あなた」
「うん」
反射的に答えていたが……。正巳は、ゆっくりと顔をその声の方へ向けた。
陽子が立っていたのである。
「夢じゃなかったのか」
と、思わず正巳は言った。
「——気分はどう?」
と、陽子は椅《い》子《す》に腰をかけた。
「まあ……良くはない」
「そうね、病人なんですものね」
「ああ……」
正巳は、じっと陽子を見つめた。——どこか、別人のように見える陽子だった。
「断っておくけど」
と、陽子は言った。「あなたを連れ戻しに来たわけじゃないの。これからどうするか、話したかったのよ」
「うん……」
「だから、ここから逃げ出したりしないでね。絶対安静だって、お医者様もおっしゃってるんだから」
「分ってる」
と、正巳は言って咳《せ》き込んだ。
陽子は少し辛《つら》そうにそんな夫を見ていた。
「ゆうべここへ来たけど、起さなかったのよ」
と、陽子は言った。「今日、担当のお医者様から、病状はうかがったわ」
「俺《おれ》のことはいいが……。後はどうしてる?」
と、正巳はかすれた声で言った。
「後? ——後のことなんか、心配してくれてるのね」
陽子は、窓の方へ目をやって、「大変よ。当然でしょ。亜紀が明るくしてるから救われてるけど」
正巳は、何とも言葉がない。
「いけないわね。ちゃんと注意されてたのに、ついグチが出ちゃう」
「それは……仕方ない」
「ええ。でもね、あなたも苦労したのね。気《き》胸《きよう》って、過労のせいだって聞いたわ」
陽子は大きく息をついて、「円谷沙恵子さんは?」
「東京へ行った」
「まあ。そうなの」
「仕事で……。俺がこんな風じゃ、無理な仕事でも引き受けなきゃな」
「それだけの値打ちのある人だと思われてるのね」
「誤解だよ」
「そう。誤解ね」
そう言って、陽子は笑った。「——おかしいわね、笑いごとじゃないのに」
「そうだな」
と、正巳は言った。
「円谷さんはいつ戻るの?」
「今日は帰ってくると言ってた。何時になるか知らないけど……」
「そう。——私は、ずっとここについてるわけにいかないの。亜紀もいるし。だから、円谷さんとこれから先のことを話し合うわ」
「陽子……」
「どうしても戻って来て、とは言わないわ。ただ——お義《と》父《う》さんには何もお話ししてない。その内、お話ししないわけにいかないでしょうけどね」
正巳は、じっと陽子を見て、
「俺を……恨んでないのか」
と言った。
「恨んでる暇はないの。生きて、食べていかなきゃならないんですもの」
陽子の口調はきびきびとして、明るかった。
むろん、あえてそうしていたのだが、今の正巳を責めたところでどうにもならないということは、よく理解していた。
「——何か食べたいものでも、ある?」
と、陽子は訊《き》いた。
そのとき、ドアが開いて、
「帰ったわよ」
と、円谷沙恵子が入って来ると、陽子を見て足を止めた。
陽子は立ち上って、
「円谷さんですね。金倉陽子です」
陽子は自分でも気付かないで、「金倉陽子」と名のっていた。これまでなら、「金倉の家内です」と言っていただろう。
「奥様……。いつ、こちらへ?」
沙恵子の顔は紙のように真白だった。
「ゆうべ。もうこの人が寝ていたので、出直して来ました」
と、陽子は言った。「二人でお話ししたいわ。あなたもでしょう?」
陽子自身が驚くほど、少しも興奮していなかった。冷静に、「夫の愛人」と対している自分が、ふしぎだった。
「あの……ご主人に食べるものを買って来たんです」
と、沙恵子は言った。
「まあ、それじゃ話は後にしましょう。ともかく病気を治してもらわないと」
陽子は、バッグを取って、「廊下の休憩所にいます。食べさせてやって下さい」
「はい」
沙恵子は、かすかに頭を下げた。
陽子は病室を出て、ソファのある一画へと歩いて行った。
何も、あの女と夫を二人にしてやることはない。けれども、今の陽子は、「夫を奪い合おう」という気持になれないのだった。
たとえ、夫を取り戻しても、心が戻らなければ同じことだ。
陽子はソファにかけて息をついた。この、自分の落ちつきは何だろう?
それは——少し大胆な言い方かもしれないが——夫を失っても、それで自分がだめになってしまうわけではない、という自信のようなものだった。
円城寺との恋——恋と呼んでいいものかどうか分らないが——が、陽子を「妻」から「女」に戻したのかもしれない。
少なくとも、円城寺とのことは、「夫が愛人をこしらえたんだから私も」という単純なものではなかった。それは陽子の人生を豊かなものにしてくれたのだ。
「——失礼します」
と、男が声をかけて来た。「金倉陽子さんでは?」
「そうですが」
男が二人、立っている。
「良かった! ホテルの方へ伺ったんですが、もう出られた後だったので」
「はあ……」
「東京から来ました。N署の者で」
と、警察手帳を出して見せる。
「刑事さんですか」
「ご主人が、ここに入院中ですね」
「ええ……」
「円谷沙恵子という女は来ていますか」
と、刑事は訊いた。
「今、病室に」
と、陽子は言った。「あの……何かあったんでしょうか?」
「ゆうべ——というか、今朝早くですが、お宅に押し入ったのが何人かいましてね」
陽子は青ざめた。
「娘が——亜紀は、大丈夫でしょうか!」
「ええ、ご心配なく。通報があって、パトカーが駆けつけたんです。何とかいう……そう、君原という男性がけがをしましたが、大したことはありません」
それを聞いて陽子はよろけた。
「大丈夫ですか!」
「ええ……。すみません、安心して、つい……」
「分ります。ま、かなり危なかったようですよ。お嬢さんも乱暴されかかって、あわや、というところだったようです」
「でも——良かった!」
と、胸に手を当てる。
「それで、逮捕した連中の自供から、円谷沙恵子の名が浮かびまして」
「あの人が——」
「その女も、逮捕された浅香八重子という女に使われていた一人なんです」
と、刑事は言った。
「——おいしいな」
と、正巳は沙恵子の買って来てくれた和菓子をたちまち二つ、ペロリと食べてしまった。
「良かったわ、喜んでくれて」
と、沙恵子は微《ほほ》笑《え》んで、「甘いものは疲れてるときにとるといいのよ」
「ああ……」
沙恵子は、ティッシュペーパーで正巳の口を拭《ぬぐ》ってやると——そのまま覆いかぶさるようにして唇で正巳の唇をふさいだ。
「あなた……」
「沙恵子、僕はずっと君と一緒だ」
正巳の言葉に、沙恵子は泣き出してしまった。声を押し殺しても、涙は止らない。
「沙恵子——。そう泣くなよ。二人で何とかやっていけるさ」
「あなた……」
沙恵子は正巳の手に顔を伏せ、ひとしきり泣くと、やがて息をついて、
「——あなたがそんな風に言ってくれるなんて。幸せだわ。どうなってもいい、私」
「僕が良くなれば、元の通りにやっていけるじゃないか」
「いいえ」
と、沙恵子は首を振った。「——いいえ。そうはいかないわ」
「どうして?」
沙恵子が答える前に、病室のドアが開いて、陽子と一緒に、二人の男が静かに入って来た。
沙恵子は立ち上った。
「円谷沙恵子さん?」
と、男の一人が言った。
「はい、そうです」
「ちょっと——」
と、男が言いかけると、陽子が、
「こちらの方がご用ですって。廊下でお話ししてらっしゃい。ここには私がいるから」
と、遮って言った。
沙恵子は少しの間、陽子を見つめていた。そして、首を振ると、
「いいえ。ここで話して下さい」
と言った。「何もかも、正巳さんに聞いていただいた方がいいんです」
男の一人が警察手帳を覗《のぞ》かせて、
「今朝早く、浅香八重子とその身内たちが逮捕されたよ」
と言った。「傷害、脅迫、暴行未遂……。こっちも目はつけてたんだが、なかなか挙げるだけの証拠がなかった」
「浅香八重子が……」
と、正巳が呟《つぶや》いた。「そうか! 良かったな。もう心配しなくてすむ」
陽子が、正巳のベッドのわきに立つと、
「亜紀が危なかったのよ。でも君原さんって方が、けがしながら守って下さったの」
「亜紀が? けがしたのか?」
「少々のかすり傷ぐらいです」
と、刑事が言った。「しかし、現行犯逮捕ですからね。言い逃れのしようがない。こっちとしては助かりました」
沙恵子は大きく息をつくと、椅《い》子《す》にペタッと座り込んで、
「——無事だったんですね! 良かった!」
「良かった? 妙な言い方だね。あんたのボスが捕まったっていうのに」
刑事の言葉に、正巳は眉《まゆ》を寄せて、
「刑事さん……。どういう意味です、それは?」
と訊いた。
「この円谷沙恵子も、浅香八重子の身内の一人でしてね」
「——まさか」
「本当です。手《て》塚《づか》良《りよう》一《いち》という男、ご存知ですか?」
「手塚……。ええ、もちろん。僕が殺したんです。殴ったはずみでしたが」
「あなた……」
と、陽子がびっくりして夫の手をつかんだ。
「殺した? 手塚をですか」
「ええ。それを届けずに、死体を川へ捨ててしまったんです」
「それはおかしい」
刑事は愉快そうに、「手塚良一は今朝、傷害罪で一緒に逮捕したんですがね」
と言った。
しばらく、重苦しい沈黙が続いた。
沙恵子は青ざめた顔で、じっと椅子に座って動かない。正巳が狐につままれたような顔をしていた。
「——なるほど」
と、刑事が肯《うなず》いて言った。「それで、この女と深みにはまったんですな。なに、手塚は死んじゃいない。あなたを引っかけるための罠《わな》だったんですよ」
「そんな……」
正巳が呆《ぼう》然《ぜん》として、「沙恵子……。どういうことなんだ」
沙恵子がフッと肩を落とすと、笑った。
声を上げて笑った。
「——あのとき、手塚は死んだふりをしてたの。私が手首の脈をみたりしたけど、あなたは触りもしなかったでしょ? 死んだってことにして、川へ放り込んだ。全部、予定の行動だったのよ」
と、沙恵子は言った。「私が連中に捕まって裸にむかれてる写真もね。あなたは私を自由にするために、家も土地も抵当に入れて一億円の借用証に印を押した」
「どういう性根をしてるんだ。こんな人を騙《だま》して。——さあ、罪は償ってもらうぞ」
刑事が促す。
沙恵子は肩をすくめて、
「行くわよ。みんな捕まっちまったんじゃ、仕方ないもんね」
と、立ち上った。「手錠、かけるの?」
「逃げないと約束すりゃ、病院を出てからにしてやる」
「ありがたくって涙が出るわね」
と、沙恵子は言った。「かみついて逃げてやる」
「よし、それじゃ……」
沙恵子が揃《そろ》えて出した両手首に、カシャッと手錠が鳴った。
「さ、行こう」
と、刑事が腕を取った。
ドアの方へ行きかけたとき、
「沙恵子!」
と、正巳がベッドに起き上った。
そして、激しく咳《せ》き込む。
「あなた——」
と、陽子は言いかけて、沙恵子がハッと振り向いた、その表情を見た。
陽子は、夫を元通りに寝かせると、
「さ、静かにしてるのよ……」
「沙恵子……。君は本当に僕が好きだったはずだ。そうだろ?」
と、正巳がかすれた声を出した。
沙恵子は、ドアの方へ向いて、身じろぎもしなかった。
「なあ……。わずかの間でも、一緒に暮したんだ。本当か嘘《うそ》か、分らないわけがない」
正巳は苦しげに息をついた。
陽子は、夫が円谷沙恵子に話しかけるのを、止めなかった。
本当なら、夫を騙し、家も土地も取り上げようとしていた一味の一人なのだ。沙恵子がどうなろうと知ったことではないはずだ。しかし、夫が咳き込んだとき、ハッとした沙恵子の表情は、嘘ではなかった。
「沙恵子……。僕には分ってる。——君はいやいや言われる通りにしていたんだろ? 君は根っから悪いことのできる人じゃない。やり直してくれ。——な、沙恵子」
沙恵子の背中が震えた。
「あなた」
と、陽子が言った。「もう行かせた方がいいわ」
それ以上言えば、沙恵子にとって、辛《つら》いばかりだろう。
「うん……。沙恵子、ほんのわずかの間だったけど、僕は楽しかったよ」
と、正巳が言った。
刑事がドアを開け、
「さ、行こう」
と促した。
すると——突然沙恵子が刑事を突き飛ばして、駆け出した。
不意をくらって、二人の刑事はよろけ、
「畜生! ——待て!」
と、怒鳴りつつ追いかけていく。
廊下に悲鳴が上り、何かがぶつかったり、倒れたりする音がした。
陽子は急いで廊下へ出てみたが、もう沙恵子も刑事も見えなくなっていた。
「——どうしたんだ」
と、正巳がベッドから訊く。
「逃げ出したのよ、あの人」
と、陽子はベッドのわきへ戻って、「動かないで。またひどくなると大変」
「うん……」
正巳は、陽子が布団をかけ直してくれると、「陽子……」
「なに?」
「お前には……ずいぶんひどいことをしたな、俺《おれ》は」
陽子は、椅《い》子《す》にかけて、
「何よ、今ごろ」
と言った。
「ただ……俺はどうしても沙恵子を今、見捨てるわけにはいかないんだ」
「分るわ」
と、陽子は肯《うなず》いた。「あなたはやさし過ぎる人なの」
「やさし過ぎる、か……」
「やさしさも、過ぎると残酷になるのよ」
「うん……」
正巳は小さく肯いた。「そうだな」
廊下を、バタバタと駆ける足音。
何か騒がしい。——どうしたのかしら? 陽子はまた立って行って、廊下を覗《のぞ》いた。
何かあったらしい、ということは陽子にも分った。
しかし、具体的に何が起ったのかは分らない。看護婦が何人か、急いで駆けて行った。
「——何だ?」
と、ベッドから正巳が言った。
「分らない。見てくるわ」
陽子は、病室を出ると病院の玄関の方へと歩いて行った。
途中、刑事の一人が電話をかけていた。
「——そうなんです。つい、油断して。——申しわけありません」
と謝っている。「——いえ、まだ息はありますが、長くないと思います」
陽子は愕《がく》然《ぜん》とした。あれは円谷沙恵子のことだろうか?
「分りました。——はあ、浅香八重子とつながっていたことは、当人が認めました。——そうです。——ええ、また連絡します」
陽子は玄関へと急いだ。
病院の外、ちょうど正面の通りに、人だかりがしている。
陽子は、その人垣へと近付きながら鼓動の速まるのを覚えた。
——正巳の病室へ陽子が戻ったのは、十分ほどしてからだった。
「あなた……。何かほしいものは?」
と、声をかけると、
「陽子。——沙恵子が死んだんだな」
と、正巳が言った。
「あなた——」
「そうだろう?」
陽子は間を置いて、肯いて見せる。
「そう……。亡くなったわ」
正巳が深いため息をついた。悲しみと後悔の思いの入り混じったため息……。
「沙恵子は……」
「表へ飛び出して、走って来たトラックにひかれたの」
と、陽子は言った。「いえ……きっと自分からトラックの前へ身を投げたのよ」
「そうか……。可《か》哀《わい》そうに」
正巳は、じっと天井を見上げていた。
「ええ……。あなたのことが好きだったのよ。だから、自分のしたことを恥じて死んだんだわ」
正巳が陽子の方へ手を伸ばした。
陽子が急いでその手をつかむと、
「ありがとう」
と、正巳は言った。「ありがとう……」
「あなた……」
陽子は、正巳が泣いているのを見て、何も言えなくなった。
家も家族も捨てて行こうとした夫……。
しかし、円谷沙恵子のことを、正巳が本当に愛していたと知って、陽子はそれを責める気になれなかった。
陽子はただ、夫の手をじっと握りしめていた。