帰 宅
穏やかな日だった。
もう季節の上ではすっかり冬で、日によっては北風に首をすぼめる寒さもやってくるのだが、今日は春先の暖い日を思わせる天気だった。
「——まだ?」
と、松井ミカが亜紀に声をかける。
「うん……。まだみたい。遅いわね」
亜紀は多少苛《いら》々《いら》している。苛々したって早くなるものでもないのだが。
日曜日。表に出ると、珍しく元気に駆け回っている子供たちがいる。——いつもTVにかじりついていることの多い子供たちも、思わず外の空気が吸いたくなる、そんな午後だったのだ。
サンダルを引っかけた亜紀が通りに出て、車が見えないかと眺めていると、遠くからトラックがやって来た。
何だか、あのトラック、君原さんの仲間の、人形劇の人たちが乗っていたオンボロトラックと良く似てるわ、と亜紀は思った。もちろん、今日ここに来るわけないけど……。
ガタガタ、ドカン。——今にも分解してしまいそうな音……。やっぱりあのトラックだ!
びっくりした亜紀は、思わずトラックへ向って駆け出していた。
君原が手を振っている。運転しているのは佐伯だ。
「——どうしたの?」
と、トラックが停って、その窓の下へ駆け寄ると、亜紀は大きな声で言った。
「今日、お父さんが帰ってくるんだろ?」
と、君原が窓から顔を出して言った。「もう着いたの?」
「いいえ。今、タクシーで来るのを待ってるところよ」
「じゃ、間に合った。いや、みんなでお父さんの退院祝いをやろうと思ってね」
「ええ? だって——」
「分ってるよ。お父さんだって、敷居が高い思いをしてるだろう。だからこそ、にぎやかに迎えてあげた方がいい」
君原の言葉に、亜紀は感動した。
君原は、あの浅香八重子たちに、あんなひどい目に遭わされたのだ。もとはと言えばそれも父が騙《だま》されたから。
君原が父のことを恨んでいたとしても当然だ。しかし、それをわざわざ仲間と一緒に祝おうというのだから……。
「ありがとう」
と、亜紀は素直に言った。「じゃ、お願いね」
「任しとけ!」
君原はしっかり肯《うなず》いた。
亜紀は、小走りに家へ戻り、家の中へ駆け込んだ。ミカがびっくりしている。
「どうしたの?」
亜紀の話を聞いて、ミカは玄関から表に出てみた。
トラックが停って、ワイワイと人が降りて来る。そして何が入っているのか、大きな箱を次々に運び下ろし始めた。
「君原さん!」
亜紀が出て来て、ミカのわきをすり抜けていく。
ミカは、
「いいなあ……」
と、思わず呟《つぶや》いていた。
亜紀には、君原がいる。——ミカにもすてきな「お兄ちゃん」はいるけれど、「兄」ではあっても「男」ではない。
つい、亜紀のことを羨《うらや》ましく思ってしまうのも、仕方のないことだったろうか。
「あ! ——亜紀! 車だよ」
と、ミカは大声で言った。
亜紀が急いで通りへ駆けていく。
でも——タクシーではなかった。
「大きなハイヤーだよ」
と、ミカも一緒に出て行って、「お父さんじゃないみたいね」
「うん……。でも、誰だろう?」
車が停って、助手席のドアが開く。
「あ……。藤川さん」
祖父のそばについていてくれる、藤川ゆかりである。
「亜紀さん、こんにちは」
もう、亜紀も何回も祖父の見舞に行って、ゆかりとは親しくなってしまった。
「どうして?」
「お客様ですよ」
と、ゆかりがニコニコしている。
ハイヤーの後部座席のドアが開くと、
「家の前までつけますか」
と、男が顔を出した。
「江田、おぶっといで」
と、ゆかりが言うと、
「自分で歩ける!」
と、声がした。
「おじいちゃん!」
亜紀が目を丸くした。——祖父、金倉茂也が、支えられて車から降りて来たのである。
「先生の許可を取りましてね」
と、ゆかりが言った。「今夜は外泊できるんです」
亜紀は、祖父が見違えるほどしっかりした足どりで歩いてくるのを見て、目がうるんだ。ここまでリハビリをするのは、どんなに辛かっただろう。
「おじいちゃん!」
と、駆け寄って手を振ると、
「ぐうたら息子に、文句の一つも言ってやらんとな」
と、茂也は笑って言った。「——何の騒ぎだ?」
トラックや大勢の人を見てびっくりしているのだった。
亜紀が、人形劇団の人たちだと説明していると、佐伯がやって来た。
「何かお手伝いしましょうか?」
と、佐伯が茂也に言った。「人手はいくらでもありますが」
「いやいや、大丈夫」
と、茂也は首を振って、「孫がお世話になって」
そこへ、藤川ゆかりが大きなバッグを車のトランクから出して来た。
「これ、あなたの荷物。さ、ともかく中へ入りましょ」
と言って、佐伯を見ると、「あら!」
「やあ、こりゃ……」
と、佐伯が目を丸くして、「その節はお世話になりました!」
と、頭を下げる。
「いいえ。まさかこんな所でね」
聞いていた亜紀もびっくりして、
「お知り合いですか?」
「いや……。以前にね、我々の公演場所が見付からず、困ってたとき、助けて下さったんだ」
と、佐伯は言った。
「まあ! 偶然ね」
「さ、あなた。足元に用心して」
ゆかりが茂也を支えて行く。江田と呼ばれた男がバッグを抱えてついて行った。
「——あの人、おじいちゃんの奥さんになるの」
と、亜紀は言った。
「そうか……。いや、きっとおじいさんには話してないんだろうな」
と、佐伯は言った。
「何を?」
「君も黙っててくれよ。——あの女の人は、元、ヤクザの親分の奥さんだった」
亜紀は目を丸くした。
「ゆかりさんが?」
「あの江田ってのも、そのときの子分だ。——亭主を殺されてね、あの人は跡を継いで流血ざたをまとめてしまうと、組を解散したんだ。大した顔役だったんだよ」
「へえ……」
「僕らが道端で人形劇を見せてたとき、ヤクザに絡まれてね、大変なことになるところだったんだ。そこへ車で通りかかったのが、あの人で、『弱い者いじめをするんじゃないよ』って、ひと言。凄《すご》い迫力だった」
亜紀は言葉もなかった。
「それで、すっかり僕らのことを気に入ってくれてね。会場を捜してくれたり、切符を買ってくれたりしたこともある。——頼りがいのある人だったよ」
と、佐伯は言った。
——もしかしたら、浅香八重子たちから救ってくれたのは、ゆかりさんなのかもしれない、と亜紀は思った。
「あなた。——大丈夫?」
と、陽子が言った。
「うん……」
正巳は肯《うなず》いた。
大丈夫なわけがない。しかし、大丈夫と言うしかないではないか。
「あと三十分くらいかかるわ。眠っててもいいわよ」
陽子だって、分っている。夫が眠れるはずのないことぐらい。
しかし、他にどう言いようがあるだろうか……。
「陽子」
と、正巳は言った。「亜紀は、家にいるのか」
「いるでしょ、きっと」
と、陽子は夫の方を見ずに、「父親の退院の日なんだもの」
普通なら。——そうだ、普通なら家族総出で、迎えてくれる。
しかし、俺《おれ》はそうはいかない。家も家族も、一《いつ》旦《たん》捨てて出てしまった人間なのだ。
——体の方は順調に回復し、肺の穴もふさがって、正巳はいくらかふっくらと太っていた。病人らしくない、と言われれば確かである。
「陽子、やっぱり——」
「あなた」
と、陽子が遮って、「先のことは、ゆっくり考えればいいわ。今はともかく家で静養すること。先生にも、そう言われて来たでしょ?」
すぐに無理をすれば、また気《き》胸《きよう》になる可能性もある、と注意されている。
「家も土地も大丈夫なんだから、焦らなくても、当面食べてはいけるわ。心配しないで」
妻にそう言われるのも、正巳にとっては辛《つら》いのである。己れの馬鹿さ加減を、あの出来事で思い知らされた。
浅香八重子と手塚、そして円谷沙恵子は、これまでも一緒になって、正巳のようなお人好しをカモにして来たのだ。
沙恵子はキャッシングローンの会社に勤めていたことで浅香八重子に目をつけられ、手塚の誘惑にコロリと騙《だま》されて、顧客のデータを流した。
それが次のターゲットを狙《ねら》うための資料だったのである。
浅香八重子の逮捕で胸をなで下ろした者はすくなくなかったのだろう。何十枚もの借用証が見付かったが、どれも現実に金を貸したのでなく、脅されて印を押しただけのものだった。
——一家離散してしまった家族も、父親だけが蒸発してしまった家族もあった。
いや、正巳だってそうだったのだ。ただ——円谷沙恵子が、この仕事にいやけがさしていたことも事実で、そのとき彼女は正巳に出会ったのだった。
正巳にとって、沙恵子が自ら命を絶ったことは、辛く、悲しい。
結局、正巳は沙恵子を浅香八重子たちからは救うことができなかったのだ。
それと同時に、沙恵子が本当に正巳を好きだったと知ることで、いくらか正巳が救われた思いなのは確かである。初めの内はともかく、深い仲になっていく内に、沙恵子は正巳と二人で、浅香八重子たちから逃れて、新しい暮しを始めようとした。
でも、正巳は体をこわして入院……。
「——円谷沙恵子さんのお骨が、親《しん》戚《せき》の方に引き取られて行ったそうよ」
と、陽子は、明るい外の風景へ目をやりながら言った。
「それは良かった」
と、正巳は言った。「死ななくても、やり直せただろうにな」
「そうね」
陽子は、夫の横顔へそっと目をやった。
正巳は、自分では気付いていなかったかもしれないが、陽子の目には、ずいぶん老けて見えた。当然のことと言えばそうだろう。
髪の生えぎわの白髪がめっきりふえたこと、額のしわが深くなったこと……。
苦労したのだ。悩んだのだ。
陽子たちも、もちろん辛かった。だが正巳は——。これまで、ほとんどそういう悩みを経験していなかった人だ。
そういう正巳だからこそ、沙恵子が罪の意識に負けて、死を選んだのだろう……。
陽子は、夫への腹立ちとか、そういう部分とは別に、真剣に円谷沙恵子を愛していたことを、いかにも夫らしいと思うことができた。
夫が入院していた一か月余りが、陽子の心に余裕を作ったのかもしれない。
「——土手の道だわ」
陽子が言った。
そう。タクシーは土手に沿った道を辿《たど》っていた。
正巳は胸が熱くなった。——帰って来た。俺は帰って来たのだ。
タクシーは、家の前に寄せて停った。
「——あなたは降りて待ってて」
と、陽子が料金を払っていると、
「お父さん!」
と、亜紀が駆けて来た。
「やあ」
「お帰り!」
と、亜紀は微《ほほ》笑《え》んだ。「荷物は?」
「トランクよ」
と、陽子が言った。
「私、持つ」
と、亜紀はふくれ上ったボストンバッグをトランクから出して、「さ、行こうよ、お父さん」
と、促した。
亜紀は、むろん父に対して複雑な思いがないわけではなかった。
その点、母以上に、父のしたことを怒っていたと言ってもいい。親友の兄にひどいけがまでさせることになってしまったのだから、充分すぎるほど、怒る理由はあった。
しかし——今、タクシーを降りて来る父を見て、亜紀はつい、
「お帰り!」
と、明るく呼びかけてしまったのである。
長く入院していたせいでもあるだろうが、足もとがやや危なっかしくて、一歩一歩、確かめるように歩き出す父を見て、亜紀は激しく胸を突かれる思いがした。
白くなった髪、ふっくらとはしたが、つやのない顔の表面。——時々病院へ行っていた母と違って、ずっと父を見ていなかった亜紀に、父の変りようは、ひときわ大きなものに見えたのかもしれない。
「——足もと、気を付けてね」
と、亜紀はつい口に出していた。
「大丈夫だ……」
正巳は、亜紀について玄関まで行くと、「母さんが来る。待ってよう」
と、振り向いた。
「何してるの? 早く入って」
と、陽子がタクシーの支払いをすませてやって来た。
「うん……」
正巳は、その場で二、三歩退《さ》がると、ふらついた。亜紀はびっくりして、
「お父さん! 危ないよ」
と、手を伸ばした。
「いや……。大丈夫。大丈夫だ」
正巳はそう言うと、「——亜紀。お前と母さんに、俺は謝らなくちゃならん」
と、言葉を苦しげに押し出すように言った。
「あなた、こんな所で——」
「いや、ここだからこそだ。——うちの玄関を、俺は入る資格なんかない。お前たちに詫《わ》びない内は」
正巳は、そう言うと、頭を深々と下げた。
「——すまなかった」
「お父さん……」
亜紀は、胸が詰った。「いいよ。——お父さんはお父さんで、そのときに一番いいと思うことをしたんでしょ。それなら……仕方ないじゃない」
「亜紀……」
と、呟《つぶや》くように言ったのは陽子の方だった。
「後で考えたら間違ってたと分ることを、しちゃうことって、誰だって、あるものね」
と、亜紀は言った。「だけど——私が、駆け落ちしても、お父さん、怒んないでよね!」
正巳は笑った。涙が一筋、頬《ほお》を落ちて行った。
正巳は、やっと玄関を入り、家の中に上った。
「あなた、疲れてたら横になる?」
と、陽子が言った。
「その前に、居間を覗《のぞ》いて」
と、亜紀が言った。
「どうしたの?」
「うん、お父さんを待ってる人がいる」
正巳と陽子が戸惑い顔で居間へと入ってみると——。「やあ、お父さんが帰って来た」
と、人形が言った。
正巳と陽子が呆《あつ》気《け》にとられている。
居間のテーブルの上に、小さな「茶の間」が作られていて、コタツに入っているのは、どうやらおじいさんとお父さん、お母さん、それに娘の四人。
「やあ、ずいぶん長いこと留守にしてたじゃないか、お前」
と、おじいさんが言った。
「いや、道に迷っちゃって。いつも通ってる道なのに、妙なことでね」
と、お父さんが頭をかく。
「本当に、心配してたのよ!」
と、お母さんが甲高い声で怒ると、
「いや、長い人生には、そんなこともあるものだ」
と、おじいさんが言った。「見慣れたものが急に違って見えたり、よく知っているつもりだった人間のことが、まるで分らなくなったり。——だが、そういうことがあるから人生は面白いのだ。お前もその内には分る」
おじいさんの言葉は娘へと向けられたもののようだった。
「私はまだ子供だから、よく分らないけど、自分もいつかお父さんぐらいの年齢になって、迷子になるかもしれないね」
「お前たちには心配かけて悪かった」
と、お父さんが頭を下げる。「だが、迷子になったおかげで、見たことのない所を、ずいぶん見て来たよ」
「大切なのは、迷った後だ。そこから何を手に入れるかだ」
と、おじいさんが言った——。
四人の人形が一斉に正巳の方へ向くと、
「お帰りなさい!」
と、声を合せて言った。
「——君原さんたちだよ」
と、亜紀が言った。「私のボーイフレンド!」
正巳が、目をパチクリさせて、
「この人と……駆け落ちするのか?」
と訊《き》いた。
「——まあ!」
と、陽子が目を丸くする。「お義《と》父《う》さん!」
茂也が、ゆかりに腕を取られて、しかし一歩ずつ自分の足で歩いて、やって来たのである。
「父さん……。大丈夫なの?」
と、正巳が進み出ると、
「息子がいい年齢をして、馬鹿なことをしてるからな。まだまだぼけるわけにいかん」
と、茂也は渋い顔で言った。「——ま、お前も回復して良かった」
「今日は、ここへ泊れるんだって」
と、亜紀が言った。
「ありがとう……。藤川さん、ありがとう」
と、正巳が涙ぐんで言った。
「あなた。ゆかりさん、ってお呼びしなきゃ。近々、『お母さん』って呼ぶことになるわよ」
ゆかりが初々しく頬を染めた。
正巳は、人形劇団の一人一人に挨《あい》拶《さつ》し、礼を言った。
「いやいや、我々には、これしかさし上げるものがありませんので」
と、佐伯が笑顔で言った。
正巳は、何とか涙をのみ込んだが、胸の内には熱い涙が滝のように流れ落ちていた。
「——あなた」
陽子が言った。
「うん……」
「これに着替えて。——少し太ったから、苦しいかしら」
寝室に入ると、正巳はベッドに腰をおろして息をついた。
「疲れた?」
「少しな……。大丈夫だ」
「無理をしないのよ」
陽子がベッドに並んで腰をおろす。
二人きりになると、何だか妙だった。
お互い、相手の胸に何が去来しているのかを知らない。ただ、二人の間を、二十年近い暮しと年月がつないでいることは事実だった。
「——元のようにはいかないかもしれないが、仕事を捜して、またやっていけるようにする」
と、正巳は言った。
「それは、あなたが考えて決めて。——ただ、亜紀のことを思うと……。あの子が一番辛《つら》い思いをしたわ」
亜紀……。
父の失《しつ》踪《そう》だけでなく、母もまた他の男の前で揺らいでいることを知っていた亜紀。
陽子は、結局亜紀がこの家を救ったのだ、と思った。
「——さ、着替えたら下りて来てね」
と、陽子は立ち上って、「皆さんに、軽く何か召し上っていただくわ」
「ああ、そうしよう」
と、正巳は肯《うなず》いた。
行きかけた陽子の手を、正巳がつかんだ。
陽子は正巳の方へかがみ込み、そっと唇同士を触れ合せると、そのまま足早に寝室を出て行ったのだった……。