2 死体と犯人
「おい、水島」
と、細い廊下を、苦労してすり抜けようとしているところを呼ばれた。
いくら細い廊下でも、人が通れるようにはできている。ただ、今はあれこれ小道具だの段ボールだのが積み重ねてあって、通れる幅は、廊下の半分ほどしかなかったのだ。
「呼んだか」
水島雄太は、振り返った。
「来てくれ」
原は、ほとんど肉に埋れた感じの顎《あご》でしゃくるようにして、言った。
水島は、劇団のオフィスへ入って行った。
オフィスといっても、実質上は物置に机と椅《い》子《す》と電話があるというだけの場所である。
「あら、雄ちゃん」
折りたたみの椅子に足を組んでいるのは、永田エリだった。
「やあ。戻ったのか」
水島は、原の机の空いた角に腰をかけた。
「TVのロケだったんだろう?」
「それがひどいの」
と、永田エリは顔をしかめて、「主役のアイドルが倒れちゃって。——つわりだったのよ。で、ドラマそのものがお流れ」
「へえ。ギャラは出たんだろ?」
「値切られたがね」
と、原が、唯一の肘《ひじ》かけ椅子に、重そうな体をのせて、言った。
椅子が悲鳴を上げている。
「私の分、懐へ入れないでよね」
と、永田エリが言った。
「馬鹿いえ。そんな額じゃないぜ」
原はタバコに火をつけた。「次のとき、役を回すからって、プロデューサーに頭を下げられりゃ仕方ないよ」
原は劇団のマネージャーである。
もちろん、弱小劇団の事で、志こそ高いものの、台所は火の車。原があちこちからぶんどって来る、TVや映画の端役の仕事で、大半の団員は生活している。
色の浅黒さが、少しも健康そうなイメージに結びつかない原は、いつも無愛想だが、仕事はちゃんとやる男で、そうでなければ、とっくにこの劇団は消えてなくなっていたに違いない。
「で、何か仕事の話?」
と、水島は訊《き》いた。
「うん……。今年のクリスマス・イヴだ」
「クリスマス・イヴ? まずいよ、そりゃ」
水島は顔をしかめた。「いつもろくに家にいないって、女房に文句ばっかり言われてるんだぜ」
「稼がなきゃ、文句も言われなくなるよ」
と、原はこともなげに言った。「やるだろう?」
「他の日じゃ?」
「一日だけ」
「そうか」
水島は、肩をすくめた。「夜中までかかるのかな」
「知らん。先方と相談してくれ」
「何の仕事だい?」
「ホテルS。クリスマス用のイベントだ」
「おい、待ってくれよ。まさかサンタクロースの衣《い》裳《しよう》つけて立ってろ、ってんじゃあるまいな」
「一応、台本がある」
と、原は苦笑した。「衣裳までは知らんよ」
「ああ、それ知ってる」
と、永田エリが言った。「最近よくホテルでやってるやつじゃないの? 〈ミステリーの一夜〉とかいって」
「ご名答」
原は、ポンと出張った腹を叩《たた》いた。「ホテルの中で殺人事件が起こる。それを名探偵が調査するって設定だ」
「なるほど。——俺《おれ》は探偵役かい?」
「いや。犯人だ」
水島はため息をついた。
「散々TVの二時間ドラマで犯人をやってんだぜ。たまにゃ、違う役が来ないのか」
「見込まれたんだ。我慢しろよ」
と、原は笑った。「いいな?」
「そういうことじゃ、夜中までかかるな」
水島は諦《あきら》めたように、「分ったよ」
と、肯いた。
「OK。——楽な割にゃ、払いがいいし、飯もつく。悪い仕事じゃないだろ」
原がノートにボールペンで書き込む。
「私の方は何の仕事?」
と、永田エリが訊いた。
永田エリは、三十代の半ば。美人とはいえないにしても、男っぽく、さばさばして、劇団の中でも頼られる存在だ。独り者で、気楽に暮していた。
「君も同じ仕事だがね」
「そのホテルの? じゃ、雄ちゃんと共演か!」
「犯人役じゃないんだろ? 犯人が二人じゃ見付ける方が手間どる」
原は、チラッと永田エリを見て、
「違う役だ」
と、言ったが……。
その微妙な雰囲気は、長い付合いの永田エリにはピンと来たらしい。
「ちょっと、ちょっと。——待ってよ! まさか……」
「その『まさか』さ」
と、原が言った。「君は死体の役」
「ありがたき幸せね!」
と、エリは両手を大げさにポンと打合せた。「ベタッと血を胸につけて、ドテッと倒れてるわけ? じっとして。それだけ?」
「それだけ」
「ひどい! いやしくも役者よ」
「何もしなくていいんだ。楽じゃないか」
「役者じゃない人間の言うことね」
「ともかく、ギャラは出るし、飯も食える」
原はボールペンを構えた。「——いいね?」
永田エリは、苦笑して、
「やるわよ。やりゃいいんでしょ。——探偵が来たら、ワッとおどかしてやろうかな」
「そうだ」
と、水島は言った。「他にも誰か?」
「うちからは君ら二人だけ」
「探偵役は誰がやるの?」
原は、ちょっと間を置いて、ノートを閉じると、
「川北竜一」
と、言った。
水島と永田エリは、一瞬動かなかった。
「いやなら断るか?」
と、原が言った。「しかし、このイベントは毎年のもんだ。一年やりゃ、来年も回って来るかもしれん。今年断ったら、もう二度とウチへは言って来ないだろう」
水島と永田エリは、目を伏せた。申し合せたように、同時に。
「——どうする?」
と、原はたたみ込むように訊いた。
水島は答えなかった。——何といっても、エリが先に決めるべきだ。
エリは、水島の方へ、
「どうする?」
と、言った。
結論は分っているのだ。ただ、自分でそう決めたくないのである。
「——やろう。仕事だ」
と、水島は言った。
「そうね」
永田エリは、ホッとしたように言った。
「ありがとう」
原はニヤリと笑った。「詳しいことは、また連絡するよ」
水島とエリは、立ってオフィスを出ようとした。原が、
「クリスマス・イヴだぜ」
と、声をかけて来た。「空けといてくれよ!」
「クリスマス・イヴか」
と、水島は歩きながら言った。
「ロマンチックな響きよね」
と、永田エリが夜空を見上げる。「子供のころは、プレゼントの楽しみ。大人になると、あげる楽しみが」
エリの笑い声が、ズラッと並んだ街灯の青白い光の中で弾《はじ》けた。
「エリ……」
「大丈夫よ。ただ、思い出しただけ」
と、エリは言った。「あいつにあげたのがクリスマス・イヴだった、ってことをね」
水島は、横目でエリを見た。
「あいつが、初めてだったのか」
「そうよ。純情なもんでしょ。二七だった。それまではうぶな娘。それからは——」
「よせよ」
水島は腹立たしげに言った。「君は変わってない。あいつが卑劣だったってだけだ」
「男と女よ。——騙《だま》すのも悪いけど、騙されるのも悪い」
エリは、大きく伸びをして、「もう八年たつわ。大丈夫よ」
「川北の奴は相変わらずだろ?」
「人気の世界ですものね。仕方ないわ」
と、エリは笑った。「せいぜい恨めしそうな目で、あいつの探偵をにらみつけてやりましょ」
「そうだな」
水島は少し無理して笑った。「捕まるときは一発ぶん殴ってやるか」
「それもいいかもね」
エリは、ちょっと間を置いて、「でも……」
「うん?」
「考えてみて。川北は、結構売れてる役者——スターだわ、今は」
「いつまで続くかね」
「待って。私情を抜きにして、どう?」
と、エリは言った。「どうしてこんな仕事を引き受けたと思う?」
水島は足を止めた。考えてもいないことだった。
「どう思うんだ、君は?」
「そうね……。何かあって、引き受けざるを得なかったか、よほどギャラが良くて、ちょうどお金に困ってたとかね」
「他には?」
「そろそろ落ちめになりかけたか……。でも、そんなわけないわね。この秋のTVの新番組にも、二つ三つ、顔を出してるわ。となると、本人が出たかったのかも」
「なぜ」
「共演者を指名するって条件で。あるいは、こっちは先に決ってて、それを聞いて、やる気になったか……」
「俺たちに会いたくなった、ってわけか」
「私か、あなたか、どっちかにね」
——川北竜一は、かつて同じ劇団にいた仲間だった。
ちょっとニヒルな二枚目役がよく似合って、ひところは、劇団の人気を支えていたが、やがてTVが目をつけ、引き抜いて行った。
そのこと自体はやむを得ないことだ。しかし、川北は、永田エリと長く愛人同士の仲で、人気が出始めたとたん、エリを捨てて、有名な女優と同《どう》棲《せい》し始めた。
もちろん、今や川北は「スター」であり、水島など、たとえ同じドラマに出ることがあっても、声もかけない。
確かに奇妙ではあった。川北のようなスターが、やる仕事ではない。
何か他の目的があるのだろうか?
「あいつが俺に会いたがるとは思えないな」
と、水島は言った。「しかし、君だって——」
「言ったでしょ。もう平気よ」
と、エリは笑った。
水島は、他の劇団員の知らないことを、知っていた。
エリが、川北の子をみごもって、否《いや》応《おう》なしに堕《おろ》さざるを得なかったこと。それが原因で、エリが自殺未遂を起こしたこと……。
もちろん、ずっと昔といえば、その通りである。
しかし、女は、そういうことを忘れられるものだろうか。
「——じゃ、ここで」
と、エリは足を止めた。「ちょっとコンビニへ寄るから」
「じゃ、明日」
「おやすみなさい」
エリが、足早に陸橋を駆け上って行く。
いつもながらに軽快だが、その後ろ姿にどこか、無理をしている印象を受けたのは、気のせいだったろうか……。