9 屈 折
夜中の一時に電話が鳴った。
こんな時間の電話は、佐々木からに決っている。——啓子も、そろそろ寝ようかと思っていたところで、すぐに電話に出た。
「はい。——もしもし。——佐々木さん?」
向うが黙っているので、啓子はちょっと心配になった。
「君か……」
低い声だったが、すぐに分った。
「塚田君……。あなた——」
「佐々木って誰だい? いや、別に誰だっていいけどさ」
と、塚田は笑った。
「あなた、酔ってるのね」
「少しね。ただ……君がどうしてるか、気になってさ」
「私は元気よ」
「そう。——そりゃ良かった」
塚田は、くたびれたような声を出した。「いや、君に悪いことしたと思ってたんだ。僕のことを恨んでるんじゃないかと——」
「やめて。終ったことでしょ」
と、啓子は言った。「もうお互いに忘れるべきでしょ」
「うん……。そうだ。君はいつも正しいことを言う子だよ。君はいつも正しかった。いつもね……」
「塚田君。——夜中よ。もう切るわ」
「分ってる。ごめんよ」
と、塚田は早口で言った。「君にはね、ぜひ幸せになってほしいんだ。本当だ。それだけは言いたかったんだ」
啓子は、塚田の声に、低い呻《うめ》きを聞きとったような気がした。
「塚田君。いつかの人と、うまく行ってるの?」
「え?——ああ、彼女かい? 元気だよ。うん、うまく行ってるとも。来年の春、結婚なんだ」
「そう。おめでとう」
「ありがとう。本当にね……。おめでたい奴《やつ》さ、僕は」
塚田が笑い出した。
「もしもし。大丈夫なの?」
「うん……。いいんだ。僕がどうなっても、自業自得さ」
「塚田君——」
「じゃ、悪かったね。こんな時間に。おやすみ」
「おやすみ……なさい」
もう、電話は切れていた。
塚田は泣いていたのだろうか? 笑いながら、その声は自分を笑っていた。
何かあったのだろう。——あの「彼女」とのことで。
でも、もう私には何の関係もないことだ。
そうよ。あっちが私から離れて行ったんだもの。
それでも、もちろん塚田に同情する気持はなかったものの、啓子は彼のことを全く気にしないわけにも、いかなかった……。
何があったんだろう?——塚田は今、糸の切れた凧《たこ》のように、風のままに漂っている。
それが啓子には、よく分った。
「やっと会えましたね」
と、原は言って、大きな体を、可《か》愛《わい》いピンクのカバーをかけたソファに沈めた。
「ともかく一人になる時間がないんですもの」
と、庄子ユリアは言った。「何かお飲みになります?」
「いや、表で散々飲んで来たのでね」
と、原は首を振った。「大丈夫ですか、川北竜一の方は」
「彼は明日、仙台で舞台挨《あい》拶《さつ》」
と、ユリアは言った。「私にも一緒に来い、って言ってたんですけど、仕事が入ってる、って断っちゃった。嘘《うそ》じゃないから、大丈夫」
ユリアの、小さなマンションである。
華やかなアイドルといっても、大した給料をとっているわけではない。
「長居はしません」
と、原は言った。「お話を伺いましょう」
「いつか、おっしゃったでしょ。その——川北と切れる方法がある、って」
ユリアは、神経質そうに、手にしたブラシをいじっていた。
「危険は伴いますよ」
と、原は言った。「それに、問題はあなた自身の気持です」
「どういう意味?」
「川北に、少しでも未練があるのなら、やめた方がいい。もう完全に縁を切って、彼がどうなろうと構わない、という決心がついていない限り、同情する気持のひとかけらがあっても、失敗しますよ」
アイドルは、この世界の裏を知り尽くしたようなこの男を、じっと見つめていた。
川北のいた劇団のマネージャーだった男。ユリアが言ったことを、川北へ告げ口しないと、どうして分るだろう?
しかし、直感的に、ユリアはこの男を信じたいと思っていた。
「平気です」
と、ユリアは言った。「川北がどうなろうと。もううんざりしてるんです」
「なるほど」
と、原は肯《うなず》いた。「では、やりようもあるでしょう」
ユリアは、表情の全く読みとれない、この太った男をじっと見つめて、
「力になって下さる?」
と、訊《き》いた。「もちろん、お礼はします。あなたのご希望は?」
原は黙っていた。
ユリアは、ちょっとためらってから、
「お金でも……。私のこと——私の体でもいいわ」
原はニヤリと笑った。
「自分のことはよく分ってますよ。お言葉だけで結構」
「でも……」
「あなたのような若い娘を満足させられる自信もありませんしね」
と、原は言った。「こういう話のときは、相手が切り出すまで待つんです。そうでないと、自分が弱い立場になる」
ユリアは、この不思議な男を眺めていた。
「来週はイヴだ」
と、原は言った。「川北は、ホテルSのイベントに出る。あなたもね」
「ええ……。そのまま泊ろうって。頭痛がするって、逃げて来ようかと思ってるんです」
と、ユリアは口を尖《とが》らした。
「いや、言われる通りにしておきなさい」
と、原は言った。「イヴの夜がチャンスです。——色んなことが起こる夜だ。何があってもおかしくない。そうでしょう? 終りのない夜、とでも言いますかね」
「何が起こるんです?」
「まあ、私に任せて下さい」
原は、大きく息をついた。「うちの劇団の人間が二人出ます。スケジュールは全部つかんでいる。——ただ、あなたといつ連絡できるか、ですね」
「ここに来て下さって構いません。川北は決してここに泊らないわ。夜中なら、たいていここにいます」
「この一週間のスケジュールを、見せて下さい」
ユリアがノートを取って来て、原に差し出す。原はしばらくそれを眺めていたが、パタッと閉じて、ユリアへ返し、
「殺人的だな、正に」
と、笑った。「いいですか、この一週間、川北に逆らったりしないように。甘えてみせるんです。そうすりゃ、ああいう男は、すぐつけ上る」
「分りました」
「では——」
と、原は重そうに体を持ち上げると、「またお会いしましょう」
「待ってますわ、連絡を」
原は首を振って、
「あなたは、あまり知らない方がいい。後で何も知らなかった、ということにするためにもね」
と、言った。「では、おやすみなさい」
原は、静かに出て行った。
「不思議だな」
と、村松は言った。
「何が」
五月麻美が後ろの座席で、面倒くさそうに言った。
村松はチラッとダッシュボードの時計を見た。——大丈夫。TV局に十五分前には着ける。
赤信号で停っていると、横断歩道を渡って行く、セーラー服にコート姿の女学生たちの一団が、麻美に気付いた。
みんな口々に何やら騒ぎながら、車の中を覗《のぞ》き込んでいる。
信号が変わって、車が走り出すと、女学生たちが手を振った。麻美も手を振り返してやると、またキャーキャー騒いでいる。
「——私も、あんなころがあったのね」
と、少ししてから、麻美は言った。「スターに憧れた時代。大人の汚ない世界も、何も知らない時代がね」
「今だって若いですよ」
と、村松が言うと、麻美は笑って、
「今さらセーラー服の役はできないでしょ」
と、ため息をついた。「一瞬の内に過ぎ去っちゃうわね、若さなんて。——ね、完ちゃん」
「はあ」
「さっき『不思議だ』って言ったのは、どういう意味?」
「ああ……。いや、大したことじゃないんです。川北のこと、どうして手を切らないでいるのかと思って」
「あら、やきもち?」
と、麻美は楽しげに言った。
「違いますよ」
村松は少し赤くなった。「ただ——もうちっとも未練なんかないみたいに見えるもんですから」
「お互いにね」
と、麻美は肯いた。「私も、もう川北には飽きたし、川北はあの子に夢中」
「庄子ユリアですか。いい加減、事務所の方じゃ迷惑顔みたいですよ」
「川北はそう思ってない。そういう男よ」
「他にもいるらしいですしね、女が」
「知ってるわ。昔いた劇団の女ね。——ね、完ちゃん」
「はあ」
「今、私が川北と別れたら、世間にはどう見える? 今は悔しいけど川北の方が売れてるわ。私の方がずっと年上。私が川北に捨てられたと見られる。そんなのごめんよ」
スターのプライドが、少し強い口調に出ていた。「特に、あんな女の子に取られた、なんて週刊誌に書かれたら、冗談じゃないわ」
「そうですね。しかし——このまま、放っとくんですか?」
麻美はそれには答えず、
「そうだ。完ちゃん、クリスマス・イヴは空けてあるんでしょ?」
「はあ、一応……」
「いいのよ。もし彼女でもいるんだったら、そっちへ行っても」
「そんなの、いませんよ」
と、村松は苦笑した。
「じゃ、ホテルSに付合ってね」
「取れたんですか」
と、びっくりして訊《き》く。
「もちろんよ」
無理を通すことに慣れた、スターの言い方だった……。