11 リハーサルの日
電話がかかって来たとき、水島は風呂から出たばかりだった。
「——あなた」
と、久仁子が呼んだ。「お電話」
「誰だ?」
「草間さんっていったわ」
「草間。——そうか」
水島は、裸で、バスタオルを腰に巻きつけただけだ。
「後で、かけますって言う?」
「いや、すぐすむ」
水島は、その格好のまま、電話に出た。「——もしもし。ああ、どうも。——そうですか。——いや、仕方ないですよ。——いつの号です?」
すぐに話は終った。
「あなた。何だったの?」
「いや……」
水島は、曖昧に首を振って、「牧子は?」
「もう寝たわ」
「そうか」
——水島は奥へ入って行った。
久仁子は、夫の様子が、どこかいつもと違っていることに気付いていた。
確かに、クリスマス・イヴの仕事はもうあさってに近付いている。明日はリハーサルだと言っていた。そこで、夫は川北と会うことになる。
久仁子は、夫が何か言い出すだろう、と分っていた。
何と言われても仕方ない。一《いつ》旦《たん》思い切ったつもりでも、また川北の誘いに乗ってしまう。
自分が、つくづく情なかった。
「風呂へ入らないのか」
と、パジャマ姿の夫が戻って来る。
「入るけど……。一息入れてるの」
見たくもない夕刊を手にとる。
「そうか」
水島は、大きく息をつくと、「——久仁子」
と、言った。
「なに?」
「引越すか」
久仁子は夫の顔を、まじまじと見た。——無表情で、捉《とら》えどころがない。
「どういうこと?」
「年明けの週刊誌が、記事をのせる」
と、水島は言った。「川北と、その愛人の写真入りで。たぶん、お前の名前も出るだろう」
久仁子の手から新聞が落ちた。
「団地で当然評判になる。幼稚園でも、その話が出るだろう。——お前が普通の主婦ならともかく、俺《おれ》の女房だ。どうしても名前を伏せるってわけにゃいかないそうだ」
水島は、淡々と言った。「ここに居るのも辛《つら》いだろう、そうなったら」
「あなた……」
「先のことは、また相談しよう。離婚したきゃ、それもいい」
久仁子は顔を伏せた。水島は続けて、
「ともかく、年が明けるまで間がある。その時間を、有効に使おう。暮れ間際で、みんなバタバタしてる。その間に引越しちまえば、何が何だか分るまい。金のことは、何とかする」
水島は立ち上った。「——引越し先を、探しといてくれ。そういうことは、お前の方が得意だ」
「あなた」
「先に寝る。おやすみ」
水島が行ってしまうと、久仁子は体中の力が抜けてしまったかのようで、ぐったりとソファに身を沈めた。
何ということをしてしまったんだろう?
夫を愛していて、子供と、三人の家庭が何より大切と分っていながら……。
久仁子も、子供ではない。川北のせいにできないことは、分っていた。あくまで、その誘いを拒み切れなかった自分の責任だ。
しかし——もう、はっきりと、久仁子は分った。
自分にとって、夫こそが大切なのだということを……。
もう遅すぎるだろうか?
久仁子は両手で顔を覆って、声を殺して泣き出した……。
「——もう四時だ」
と、水島は言った。「どうする?」
「そうね」
永田エリは首をかしげて、「ホテルの方はどうなんですか?」
「いや、どうも……」
と、担当の佐々木は困り切った様子で、「昨日も、ちゃんと確認の電話を入れておいたんですがね」
ホテルの中の会議室が、〈ミステリー・ナイト・イヴ〉の控室になっていた。
水島と永田エリは、午後三時ちょうどにやって来た。他にエキストラが数人。——ところが、肝心の川北が現われない。
ドアが開いて、佐々木の部下が息を弾《はず》ませて入って来た。
「どうだ?」
「まだです。TV局にも連絡してるんですが——」
「事務所は?」
「誰も出ません」
永田エリが言った。
「私はね、死体の役だから、別にリハーサルなしでも構わないけど、他の人は困るんじゃないですか?」
「そう。特にシナリオが変わってるからな。庄子ユリアを出すので、無理に筋を変えてあるし」
と、水島は言った。「庄子ユリアもまだだな」
「当然、一緒でしょ」
と、永田エリが苦々しげに言った。
「そうだな……」
水島は肯《うなず》いた。——いや、そうじゃないかもしれない。一緒なのは、他の女かもしれないのだ……。
「仕方ない、二人抜きでやりますか?」
と、佐々木が言った。
永田エリが反対した。
「川北竜一が来たら、きっと細かい部分を色々変えるわ。それをまた憶えるのは大変よ」
確かにそうだ。——みんな黙り込んでしまった。
すると、急にドアが開いて、その川北と、その後ろに庄子ユリアが立っている。
「やあ、待たせたね」
と、川北は明るく言って、「何しろ車が混んでさ。——やあ、水島」
水島は黙っていた。ニッコリ笑って会釈できるほどは、人間ができていない。
「エリ。久しぶりだな」
と、馴《な》れ馴《な》れしく肩に手を置く。
「プロは遅れないものよ」
と、エリは言った。
「厳しいね、相変わらず。——ああ、ともかく熱いコーヒーを一杯。ユリア、君は?」
入口の辺りにじっと立っていたアイドルは、
「何でも……。じゃ、ジュースを」
と、控え目に言った。
佐々木が急いでコーヒーとジュースを用意させる。
そして、長テーブルの上に図面を広げると、「ここが事件の起きる二五階です」
「どの部屋で、私は死んでりゃいいわけ?」
「この角のスイートルームです」
佐々木が図面の中の一部屋に印をつける。
「スイートね!」
と、エリが大げさにため息をついた。「生きた人間で、泊りたいわ」
笑いが起きた。
「で、段どりとしては?」
と、水島が図面を覗《のぞ》き込んだ。
川北は、大して関心なさそうに図面をぼんやりと見ており、ユリアの方は、まるで別のことに気をとられている様子だった。
——リハーサルの打合せは、奇妙な雰囲気の中で、始まった……。
伊沢啓子は、ホテルのラウンジにいた。
佐々木と待ち合せていたのだが、大分時間がずれているので、遅くなりそうだという連絡があった。
別にあわてることもない。啓子は、のんびりとコーヒーを飲んでいた。
もちろん、ここでも啓子のことはみんな知っているので、コーヒーなど、ちょうどいれたてのを持って来てくれるのだった。
明日、啓子はここへ泊ることになっていた。
もちろん佐々木が一部屋とってくれたのである。
イヴの夜など、あのイベントがなくても、目の回る忙しさらしいから、たとえ佐々木が啓子の部屋へ来たとしても……。
でも……そうだろうか?
部屋をとった以上、佐々木もそのつもりなのか。
もしそうだったら?
しかし、佐々木なら、はっきりと啓子の意志を訊《き》くだろう。
もし訊かれたら、何と答えるだろう?
啓子は、考え込んだ。——イヴの夜に、なんて、あまりに俗っぽいような気もするけれど、他人のことなんか関係ないと思えば……。
そう。もういい時機かもしれない。
そのときの気持で、自然にそうなるのだったら……。そうなってもいい。
啓子は、ゆっくりと香ばしいコーヒーを飲んだ。
誰かがそばに立っているのに気付いて、見上げた。
「塚田君」
あのときみたいだ。そう思った。
「何となく、君がいそうな気がしてね」
と、塚田京介は言った。「かけていいかい?」
あのときは、座らなかったのに。反射的に、啓子はラウンジの入口を見ていた。
「今日はいないよ、彼女」
と、塚田は言った。
「どうぞ」
塚田は、向い合って座ると、
「早いもんだね」
と、言った。「でも、あれから何年もたってるような気もするんだ」
確かに、塚田は急に老け込んでいるように見えた。
「すんだことだわ」
「そうだね。——待ち合せ?」
「ええ」
「僕は仕事の途中。明日の予約を確かめに来たんだ」
と、塚田は言って、オーダーをとりに来たウエイトレスに、「すぐ行くから」
と、手を振って断った。
「あなた……明日、ここに泊るの?」
「うん。奇跡的に部屋がとれてね」
「良かったわね。彼女と?」
「そう。——あの子とね」
塚田が目をそらした。
啓子は、自分でも気が付かない内に、口を開いていた。
「塚田君。うまく行ってないのね、彼女と」
「え? いや——そうじゃないよ。あの子の父親は大企業の重役だし、僕のことを気に入ってくれてる。それに、結婚式はうちの社長も出るんだ。こんな平社員の式にさ」
「でも……肝心の彼女はどうなの?」
塚田は肩をすくめた。
「見かけ通りってことはないさ、誰だって。そうだろ? 君は——君は例外だったね。今になって、よく分った」
傷ついている。打ちのめされていると言ってもいいくらいだ。
何もかも、適当にうまくこなして来た人間だ。たぶん、初めて、「幻滅」を知ったのだろう。
「塚田君」
と、啓子は言った。「どんなにいい家のお嬢さんか知らないけど、当人がどうしても気に入らないんだったら……。いやな相手と、ただ断りにくいからって結婚したら、一生後悔するわよ」
「一生か……」
「毎日、毎日のことよ。——よく考えて」
塚田は、ちょっと笑って、
「君はいい人だな」
と、言った。「僕のことなんか、放っときゃいいのに。——そうだろ?」
「塚田君……」
「じゃあ……。悪かったね、邪魔して」
塚田は忙しげに立ち去った。腕時計を見ながら、次の予定をこなしに行くのだろう。
啓子は、もの悲しくなった。
ああして、若さも情熱も失われて行く。
ただ、次の予定をこなすだけで手一杯になって、何十年も過すのだ。
外は木枯しが吹き、明日はクリスマス・イヴだった……。