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クリスマス・イヴ12
日期:2018-06-28 20:39  点击:256
 12 混 雑
 
「雪でも降りそうよ」
 と、久仁子は言った。
「ちょうどいいさ。クリスマスだ」
 水島は、コーヒーを飲みながら、言った。「幼稚園はいつまでだ?」
「今日までよ」
 久仁子は時計を見た。「今日、クリスマスの会があるの」
「そうか。明日からは冬休みってわけだ」
「そうね……」
 久仁子は、ダイニングのテーブルにつくと、「何か、食べに行く?」
 と、訊いた。
「いや、夕食がホテルで出る。食べ残しちゃもったいないからな。できるだけ、腹を空かしとくさ」
「そんなこと……。食べる暇もなかったら、どうするの?」
「いいじゃないか。飢えた顔つきでホテルの廊下を歩いてるってのは、本物の殺人犯みたいで」
 と、言って、水島は笑った。
 ——いつも通りの、平和な会話である。しかし、話しながら、二人の視線は、絶えず出会うことなく、揺れ続けていた。
 週刊誌に、川北と久仁子のことが出る。——水島も久仁子も、すでに「言ってしまった」のだ。
 お互い、奇妙に礼儀正しく、気をつかっている。今日、昼近くになって起きて来た水島は、いつもよりよほどよくしゃべった。笑いもしたし、コーヒーを、旨《うま》そうに飲んだ。
 久仁子は、ゆうべの話が夢だったのではないか、とチラッと思ったりして……。しかし、楽しげに話しながら、夫の目が少しも自分の方へ向かないことに気付いたとき、儚《はかな》い希望は消えた。
 もう、おしまいなのか。謝って、やり直せないものだろうか。
 虫のいい話か、とも思いつつ、久仁子は、まだ諦《あきら》め切れなかった。そう、牧子のためにも。もう決して——決して、川北のような男の所へは行かない。
 その決心を、もう少し早くつけておいたら……。悔んでも、悔み切れなかった。
「さて、出かけるか」
 と、水島は空になったコーヒーカップを置いて言った。「今夜は……たぶん遅くなる。先に寝てろよ」
「ええ」
 と、久仁子は言った。「気を付けてね」
 仕事に行くのだから、「頑張って」とでも言えば良かったのだろう。しかし、夫は、自分の妻の浮気相手と仕事をしに行くのだ。
「気を付けてね」
 としか、言えなかった。
「雪が降り出したら、どうやって帰って来るかな」
 玄関で、水島が靴をはきながら、言った。久仁子は、一瞬、自分でも分らない内に、
「私が迎えに行くわ。何があっても、迎えに行く」
 と、一息に言っていた。
 水島が、面食らった様子で、妻を眺めている。——久仁子は、上り口に、座りこんだ。
「ごめんなさい」
 と、絞り出すような声で、「お願い。——もう一度……」
 後は言えなかった。——重苦しい沈黙の後、
「また考えよう」
 と、水島は言った。「行って来る」
 足早に出て行った水島の足音が、遠ざかると、久仁子はその場に座ったまま、静かに泣き出していた……。
 
 ロビーは、一瞬、何ごとかと思うような混雑だった。
 フロントにチェック・インを待つ行列ができている。客のほとんどは、若いカップル。
 自分も泊りに来たのではあるが、伊沢啓子は、見ていて照れてしまった。この分だと、いつになったら佐々木と話ができるか。
「夕方からは大混雑になるからね」
 と、言われて、早目に来たのだが、この有様。
 どうしよう?——といって、待っていてもあの行列が短くなるとは思えない。
 啓子は、ショルダーの、普通のバッグ一つという格好だった。いかにも「泊ります」という外見で、ホテルへ入って来るのは、何だか恥ずかしかった。
「伊沢さん」
 と、呼ばれて振り向くと、ラウンジの若いボーイで、「奥の席が空いてますから」
「ありがとう。でも、部屋の方が——」
「佐々木さんに頼まれてたんです。みえたら、教えてくれって。ともかく席に」
 啓子には、佐々木の心づかいがありがたかった。
 ラウンジも、当然、ここで待ち合せのカップルで一杯だが、奥の一画は、外から目に入らないようになっていて、いわば「特別の客」のための席になっている。
 座っていると、待つほどもなく、佐々木がやって来たので、びっくりした。
「来たね」
 と、佐々木はそう疲れている様子でもなく、「戦場だよ。弾丸に当たらないように」
「あなた……大丈夫なの? こんな所にいて」
「今の時間は、フロントが忙しいだけ」
 と、佐々木は言った。「チェック・インだけして、食事は何か月も前から予約したレストラン。帰って来るのは、まあ十時から十一時ってとこかな。それからシャワーを浴びて……」
 佐々木は、首を振って、
「夜中だよ、色々、トラブルがあったりして、てんてこまいになるのは」
「邪魔じゃないの?」
「時々君の顔を見に行く。すると、疲れがとれて、また張り切れる」
「まるでスタミナドリンクね」
 と、啓子は笑った。「——あのイベントは?」
「うん。問題ないさ。手順通りにやったとすりゃ。犯人探しに加わるカップルがどれくらいいるかね」
「川北竜一とか、もう——」
「いや、まだだ」
 佐々木は腕時計へ目をやった。「どうせぎりぎりにならなきゃ来ないさ。君、部屋へ入ってる? 食事は届けさせるよ」
「まだいいけど……」
「今の内に、お風呂に入っておいた方がいいよ。ピーク時は、いくら大ホテルでも、お湯の出が悪くなる」
「じゃ、そうするわ」
 佐々木が上衣のポケットからキーを取り出してテーブルに置いた。
「もうフロントを通さなくていいからね。——夕食は何時がいい? ルームサービスも混雑する。予《あらかじ》め頼んでおくよ」
「どうせ一人で食べるんでしょ」
 と、啓子は笑って、「じゃ、七時」
「分った。後で寄るよ」
 佐々木は、ニッコリ笑って、足早に立ち去った。
 ああ言ってはいるが、相当に忙しいはずだ。啓子に気をつかって、来てくれたのだろう。
 忙しいのは夜中。——ということは、今夜啓子が泊っても、佐々木と「そうなる」可能性はまずない、ということである。
 啓子はホッとしたような、少しがっかりしたような、妙な気分だった。ともかく、佐々木の仕事の邪魔をしてはいけない、と自分に言い聞かせる。
 塚田京介のことを、啓子は思い出していた。
 今夜、あの「彼女」と泊りに来る。——塚田は、気の小さな、ある意味では正直な男である。その彼女と、楽しげに過す演技をやり通せるだろうか。
 もちろん、啓子としては、今さら塚田のことに気をつかう義理はない。——啓子は、佐々木にも、塚田のことは黙っていよう、と思った。
 それにしても、こんな日の予約が、よくとれたものだ。
 コーヒーをもらって、飲みながら、ともかく部屋へ入って一息つこう、と思った。このラウンジとロビーの混雑、騒音。それだけで疲れてしまう。
 他の席を見渡しても、若いカップルばかり。
 仕事での打合せ、といったグループも、今日は遠慮しているか、それとも早々に退散してしまっているのだろう。
 ふと、啓子は、三つほど離れたテーブルに目をやった。
 女の子一人で、オレンジジュースのグラスを前に、座っている。啓子がちょっと目を止めたのは、その子がいかにも可《か》愛《わい》くて、誰かタレントか何かだったかしら、と思ったからである。
 しかし、どうやら、そうでもないらしい——。少し大人びた格好で、化粧をしているので、一七、八に見えるが……。
 実際はもっと若そうだ、と啓子は思った。女の目は、服や化粧でごまかされない。たぶん、一五歳くらいじゃないかしら、と啓子は思った。
 やはり、ボーイフレンドと待ち合せているのだろうか? まあ当節、あり得ない話ではないだろうが。
 見ていると、その女の子が、ホッとした顔になって、手を振った。ラウンジの入口の方へ目をやった啓子は、そこにえらく太った、中年男を見て、面食らってしまった。
 その男は、大して急ぐ様子でもなく(急ぎたくても、急げなかったのかもしれない)、女の子の所へやって来たが、腰はおろさず、二言三言、交わしただけで、伝票を取って、レジの方へ歩いて行ってしまった。女の子はバッグを手に、その後からついて行く。
 あの二人は何だろう?——父と娘でないことは確かだが、話している様子からみても、どうにも想像がつかない。
 といって——恋人同士?
「まさかね」
 と、つい、口に出して呟《つぶや》いている。
 あの二人がラブシーンを演じているところを、想像するのは、啓子には不可能なことだった。
「色んな人がいるわよね」
 と、啓子は独り言を言うと、コーヒーを飲み干し、立ち去った。
 もちろん、伝票は佐々木の方へ回すこともできるのだが、私用の場合は、ちゃんと払っておきたい。これが啓子の考えで、佐々木もそれを尊重してくれている。
 レジで、現金で支払いをして、エレベーターへと歩いて行く。
 こんな時間から、エレベーターもこれほど忙しく働いたことはないかもしれない。
「少々お待ち下さいませ」
 エレベーター前の案内嬢も、口調はていねいだが、額に汗が浮かんでいる。
 啓子は、あの少女と太った男が、同じエレベーターを待っているのに気付いた。もちろん、他に十数人の客——ほとんどがカップルだ——がいる。
 やっと上りのエレベーターが来た。
「お待たせいたしました」
 という言葉もすまない内に、ワッと客が乗り込む。啓子は、まるで発車のベルにせかされている電車の中みたいだわ、と思って苦笑した。
 ほぼ満員の状態で、エレベーターが上り始める。——幸い、啓子の泊る一八階は、誰かがもう押してくれている。
「ねえ、間違いないの?」
 と、低い声が耳に入って来る。「本当に川北竜一が来るの?」
 あの女の子だ。啓子は、例の太った男の肩に背中を押し付ける格好で立っていたのだった。
「大丈夫だよ」
 と、太った男が言っている。「ちゃんと部屋に入ってから説明する。今は口をつぐんで」
「はあい」
 女の子は、ゲームでもやっている感覚のしゃべり方だった。
 川北竜一。——確か、そう聞こえたけど。
 彼が今日のイベントに出ることは啓子も知っている。だが、この女の子と、川北竜一と、何の関係があるのだろう?
 カチカチと音がした。チラッと目をやると、女の子が、ルームキーを振り回しているのだ。
 プラスチックの札に金文字で入ったルームナンバーは、〈2511〉だった。

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