1 卒 論
「岬《みさき》……?」
と、塚川亜由美《つかがわあゆみ》は訊《き》き返した。「岬——何ていうんですか?」
「岬|信介《しんすけ》。知らないでしょうね」
と、倉本《くらもと》そのみは微笑《ほほえ》んで、「私も、ついこの間まで知らなかった」
——大学のカフェテリア。
二年生、十九歳の塚川亜由美は、先輩で四年生の倉本そのみと冷たいシェークを飲みながら話をしていた。
六月の日射しはもう強くて少し汗ばむくらい。大学も新年度のあわただしさからやっと抜け出して、落ちついて来ていた。
「その人を卒論に選んだんですか」
「そう。——小説家でね。でも、地方の文壇で多少知られたくらいで、中央では全く無視されていたの」
と、倉本そのみはノートを開いて、「ま、三十五で死んじゃったんだから、仕方ないけど」
「天才は若死にするんですよね」
と、亜由美は肯《うなず》いた。「それで……私に何か?」
「うん」
と、先輩は言った。「卒論のために、夏休みにこの岬信介の住んでた所を訪ねてみようと思ってるの。塚川さん、一緒に行かない?」
「私、ですか?」
亜由美も、まさかそんな話と思わなかったので、当惑した。
「何か予定ある? でも、夏休みの間、ずっと、ってわけじゃないのよ。一週間もあれば充分でしょ。生れた家とか、もし知ってる人がいれば話を聞いて」
「その人、死んでから——」
「十五年。十五年たつの」
「じゃ、知ってる人もいますね、きっと」
「そうね。相手[#「相手」に傍点]の人のことも」
「相手?」
「岬信介って、女の人と心中したの」
と、倉本そのみは言った。「それで心がひかれたのよ」
「へえ……」
やっぱり変ってるわ。
この先輩、とてもおっとりしたいい人なのだが、とかく浮世離《うきよばな》れしている。
家が「凄《すご》い金持!」と神田聡子《かんださとこ》が興奮して言っていたが、いかにも「お嬢様育ち」の血筋のよさが感じられる。
「ね、塚川さんが一緒に行ってくれると、母も安心するの」
「え?」
確かに、文化祭のときだかに、母親に会ったことがある。
凄い(やたらとこの形容詞が出てくるが)毛皮のコートなどはおって、
「そのみがいつもお世話になって」
と、挨拶《あいさつ》され、焦ったものだ。
「母がね、『あの方と一緒なら、行ってもいい』って言ってるの」
「私となら? どうしてですか?」
「強そうだし、しっかりしてるし、何があっても大丈夫って」
——用心棒ってこと、それ?
十九歳の乙女心は少々傷ついたのであった。
「そりゃ、倉本さんのお母さん、見る目がある!」
と、神田聡子が肯いて、「ね、ドン・ファン? お前もそう思うでしょ?」
「ワン」
決して「ツー」とは言わないこのドン・ファン、亜由美の「愛犬」のダックスフントである。——「愛犬」と、あえて「 」をつけたのは、ちょっと特別な犬だから。
「からかってりゃいいわよ」
と、亜由美はベッドにゴロリと横になった。
ここは塚川家の二階、亜由美の部屋。親友の神田聡子は年中ここへ入りびたっている。
十九歳のうら若き女子大生が、いつもこうしてゴロゴロしているというのは、いかに二人がもてないかの証明でもある。
もっとも、亜由美の方は今、大学の谷山《たにやま》という助教授とお付合いしている。とはいえ、あまり進展らしきものは見られない様子。
「で、結局、どういうことになったの?」
と、聡子が訊《き》くと、
「ま、仕方ないでしょ。先輩のたっての頼みとあれば」
「何だ、行くんじゃない、やっぱり」
「そうよ。——聡子、行く?」
「どうして私がついてかなきゃいけないの?」
「別に行ってくれって頼んでるわけじゃないのよ。ただ、往復グリーン車で、向うじゃ温泉に入り放題、料理も最高のものばっかり、って旅はなかなかできないかな、とか思ってね」
亜由美の言葉に、聡子はガバと起き上り、
「何よ、何よ、それ!」
「ちょっと! 迫って来ないでよ! 私、谷山先生という立派な男の[#「男の」に傍点]恋人がいるんだからね」
「迫ってないでしょ! どうして温泉に入り放題なのよ!」
「だって、岬信介って作家がいたの、K温泉なんだもん」
聡子は床にきちっと正座すると、
「同行してあげてもいいわ」
「結構よ、忙しいんでしょ、聡子」
「クゥーン……」
「ドン・ファン! 何よ、お前まで」
「ドン・ファンも温泉が好きなのかね」
と、聡子は笑って言った。
「——じゃ、ちゃんと手伝ってよ」
と、亜由美が念を押す。
「もちろん! でも——二人で行ってもいいの?」
「ワン!」
ドン・ファンが存在を主張している。
「——倉本さんがね、列車に乗るときは四人がいいって言うの」
「どうして?」
「座席、向い合せにしとくと、他の人と話さなくてすむでしょ」
「凄《すご》い理由ね」
「じゃ、私と聡子と——ドン・ファン? あんたも行くの?」
「ワン!」
「ま、いいか。何かあったときは、命がけで守るのよ、私を」
「倉本さんを、でしょ」
「どっちも!」
と、亜由美は言った。
「——何なら、お母さんが行く?」
と、突然ドアが開いて、亜由美の母、清美《きよみ》が顔を出す。
「お母さん! いきなり入って来ないで!」
と、むだと知りつつ、亜由美は文句を言った。
「あら、ごめんなさい。じゃ、一旦《いつたん》閉めてノックするわね」
ここにも浮世離れしている人がいるのである。
「いいわよ! 何か用? 夕ご飯には早くない?」
「お客様よ」
「へえ。谷山先生? なら、待たせといて。今行くって」
「違うわ。この方よ」
と、清美がわきへ退くと、
「や、お元気ですか」
と、人なつこい笑顔が覗《のぞ》いた。
「殿永《とのなが》さん!」
亜由美はあわてて起き上ると、「お母さん、どうして——」
「下で待っていただこうと思ったんだけど、今、お父さんがアニメを見てるの」
「あ、そう」
——亜由美の父、塚川|貞夫《さだお》はれっきとしたエンジニアであるが、趣味が「少女アニメを見て泣くこと」。
確かにそこでは話もできまい。
殿永は大きな体をもて余し気味に、カーペットにあぐらをかくと、
「旅行の打ち合せですか」
「え?」
「K温泉。——いいですなあ!」
「は?」
亜由美は呆気《あつけ》に取られた。この部長刑事、これまでも何かと事件に巻き込まれる亜由美と、すっかり仲良くなっているのである。
「殿永さん」
と、聡子が言った。「もしかして、K温泉って、麻薬組織の秘密基地か何かなんですか?」
「どうしてそんな突拍子もないことを?」
「だって——」
「簡単です。倉本そのみという人の母親がやって来まして、『娘の身に万一のことがあったらよろしく』と」
「倉本さんのお母さんが?」
「亜由美さんと私が親しいことを、ちゃんと調べたようですよ」
「呆《あき》れた! 結婚相手でもないのに」
殿永は笑って、
「よほど大事な一人娘ですな。ま、あなたが一緒なら心配ないでしょうが」
「どうせ私のとりえ[#「とりえ」に傍点]は腕っぷしだけですよ」
と、いじけている。
「K温泉の駐在所へ連絡しておきます。ま、何ごともないとは思いますがね。のんびり温泉に浸《つか》って来て下さい」
「連続殺人でも起ったら、ご連絡しますわ」
と、亜由美が言うと——。
「実はですね」
殿永が真顔になって、「この七、八年の間にあそこで三人の若い女性が姿を消しているんです」
亜由美と聡子は顔を見合せ、
「——冗談でしょ?」
「本当です。死体も見付かっていない。ただ、姿を消しているんです。——いいですね。用心して下さいよ。あなたの行く所、事件ありですから」
「好きで係《かか》わってるんじゃありません!」
と、亜由美は抗議した……。
車のドアをパッと開けて、娘は夜の道へ飛び出した。
「——江利《えり》! 待てよ!」
運転席からあわてて出ると、沢木浩二《さわきこうじ》は呼び止めた。
「何よ」
と、娘が振り向く。
「送るよ、家まで。な?」
「結構よ!」
と、叫ぶように、「振った女を送り届けるのが趣味?」
「違うよ。——な、落ちつけって」
沢木は、周囲へ目をやった。
夜といっても、にぎやかな通りから少し入った辺りで、恋人たちが腕を組んで通って行く。
「もう放っといて」
と、矢田部《やたべ》江利は硬い表情で言った。「分ってるのよ」
「何が?」
「どうして私と別れたいか。——倉本そのみ。そうでしょ」
沢木がたじろいだ。
「どうして彼女のことを……」
「知ってるわよ。大金持の一人娘。可愛《かわい》くてね。私なんか比べものにならないでしょ」
江利は唇を震わせて、「——一生、恨んでやるから!」
と言うと、泣き出してしまった。
「おい……。人が見てるだろ」
沢木は困り顔で、「な、ゆっくり話そう。車に乗れよ」
「触んないで!」
と、沢木の手を振り離す。
沢木は、一見|隙《すき》のないお洒落《しやれ》なスタイルだけに、困って突っ立っていたりすると、おかしく見える。
「な、そう困らせるなよ。——じゃ、二人きりになれる所に行こう。な?」
江利はじっと沢木をにらんでいたが、
「じゃ、今夜は帰らないで」
と言った。「一緒に泊って」
「分った。そうするよ」
沢木は江利の肩を抱いて、何とか車の方へ連れ戻した。
中古の国産車。——倉本そのみと結婚したらポルシェにしよう、と決めている。
しかし、ポルシェの前には「邪魔者」が立ちはだかっている。——江利だ。
矢田部江利とはほんの遊びのつもりの付合いだった。しかし、江利の方はすっかり沢木と結婚するつもりになっていた。
ドジな話だ。今のところ、江利のことは倉本そのみに知れていない。もし知れたら……。
何しろ江利と寝たのは、そのみと付合い始めた後のことで、言いわけのしようがない。
だが、何としても、ポルシェを手に入れてみせる。
諦《あきら》める気はなかった。全くなかった。
「——どこへ行く?」
と、沢木は車のエンジンをかけて、訊《き》いた。
やさしい笑顔を作るのはお手のものだ。
「どこでも」
と、つい突《つつ》けんどんに答えて、「——あなたの好きな所でいいわ」
と、言い直す。
「分った」
沢木はゆっくりと車を広い通りへ出し、「——誤解してるぜ、江利。倉本そのみって、確かに大金持だけどな、とんでもなくわがまま娘なんだ。お前とは大違いさ。向うだって、俺《おれ》みたいな貧乏な遊び人、本気で相手にするわけない。そうだろう?」
「本当? 本当ね?」
江利は、しっかりと沢木の左腕にしがみついた。「捨てちゃいやよ!」
「おい、危いよ! 運転できないだろ!」
沢木は笑った。
「ごめんなさい」
と、江利も笑った。
結構、沢木は本当におかしくて笑っていたのだ。——殺してやりたい相手といても、人間は笑うことがあるのだと沢木は初めて知ったのだった……。