2 過 去
「おい、可愛《かわい》い足してんじゃないの!」
舌のもつれた甲高い声を上げると、その酔った客は紀子の着物の裾《すそ》をパッとめくって、ふくらはぎをサッとなでた。
「キャッ!」
紀子は飛びはねるようにしてその客から離れた。だが、何しろ手にした盆にはビールが五本ものっていたのだ。
よろけた弾みに、三本が倒れ、どっと溢《あふ》れたビールが、あぐらをかいて酒をくみ交わしていた客の襟首へザッともろにかかってしまった。
「ワッ!」
と、その客が飛び上って、「何するんだ、こいつ!」
と、紀子の胸を突く。
紀子は後ずさって畳に足を滑らし、引っくり返ってしまった。むろん、ビールも全部畳の上に転がって、たちまちビールの池ができる。
「——太腿《ふともも》まで見えたぞ!」
と、声が飛ぶ。
「もう少し上まで見せろ!」
ドッと笑いが起る。
紀子は夢中で飛び起きると、広間から逃げ出した。
——もういやだ。もういやだ。
顔が火をふくように熱い。——よろけながら、誰《だれ》とも会いたくない、二度と人の前には出たくない、と思い詰め、ともかく階段を上って行く。
息を切らして、廊下にペタッと座り込んでしまうと、紀子は泣こうとした。思い切り声を上げて、泣こうとした。
でも——涙は出て来なかった。
泣けない。泣かないのでなく、泣けないのだ。
涙は十五年前に使い果してしまった。
ようやく下をバタバタと足音が駆けて行って、騒ぎになったらしい。
この旅館の女将《おかみ》さん——黒田忍《くろだしのぶ》が、さぞ今ごろは畳に両手をついて、謝っていることだろう。むろん、やったのは紀子だと知っているわけで、当然、その償いは回ってくる。
それは避けられない運命なのだ。
どうして——どうして放っておいてくれないのだろう。私は一人になりたいだけなのに。一人で、誰にも迷惑をかけずに、ひっそりと生きていたいのに……。
廊下で膝《ひざ》を抱え込んでじっとしていると、やがて階段を上って来る足音。
もう来てしまった。ほんの数分でも、そっとしておいてくれたら……。
もうだめだ。殴られるか、髪を引張られてあのお客の前まで引きずって行かれ、謝らされるか。
どれにしたって、逃げ道はない。
「何してるんだね?」
男の声にびっくりして顔を上げると、六十くらいか、湯上りの、タオルを手にした白髪の穏やかな紳士。
「あ……。すみません」
と、立ち上る。
「何もしてないのに謝ることはない」
と、その人は笑って言った。「君はここで働いてる人だね」
「はい……」
と、目を伏せて、「ちょっと——隠れてたんです」
「隠れんぼでもしてたのかね」
そこへ、下から、
「紀子! ——紀子! どこにいるの!」
黒田忍の声が火の矢のように飛んで来た。
「——あれは君のことか」
「ええ……」
「何を怒ってるんだ。女将は?」
「私……宴会のお客にビールを出してて、足に触られたんです。逃げようとして、ビールを他のお客さんにかけちゃった……」
「そりゃ面白い」
と、笑う。
「面白くないですよ。女将さんにぶたれるわ」
「なるほど。しかし、そのときの光景は、想像するだけでおかしいよ」
「そうですか?」
と、恨めしそうに言う。
そこへ、
「いたのね!」
と、黒田忍が上って来た。「紀子! あんたいくつになったと思ってるのよ。十や十二の子供じゃあるまいし、ちょっと足に触られたぐらいでビールをお客様にかけるなんて」
「かけたわけじゃありません。かかっちゃったんです」
つい、こうして言い返してしまうので、バシッと平手が飛ぶのである。
「まあまあ」
と、その紳士が中へ入って、「女将、その客のことは、私が償いをしよう。いくら払えばいいんだね?」
「まあ、大江《おおえ》様。お騒がせして申しわけありません」
「いや、そんなことはいい。女将さん、この子も悪気があったわけじゃない。大目に見てやりな」
大江と呼ばれた紳士は、穏やかに言って、「なあ、君もやはりひと言|詫《わ》びてくることだ。なに、酔いがさめればそう悪い連中じゃないのさ」
「はい……」
と、紀子は消え入りそうな声を出す。
「この子は変ってるんですよ」
と、女将の黒田忍が言った。「ほら、あの小説家——岬信介の娘ですもの」
紀子は、頬《ほお》をポッと染めて、
「だからどうなんですか!」
と、むきになって言った。
「ほら、こうですからね、父親のことを持ち出されると」
分っていてからかっているのだ。——しかし、大江は笑わずに、紀子のことをじっと見つめて、
「君が、あの人の娘? そうか」
と、肯《うなず》いた。「女将、そういう言い方は良くない。誰でも親や兄弟に一人や二人、あれこれ言われる者があるもんだ」
「ええ、まあ……」
「よし、じゃ、君、私の相手をしてくれ。軽く一杯やろう。——女将、酒と何か肴《さかな》を」
「はいはい、すぐに。——じゃ、よろしいんですか?」
「この子と少し話をしたい。下の客には弁償すると言っといてくれ」
「いえ、そんなこと……。ま、うまく言いくるめときますよ」
と、紀子の方へ向き、「大江さんにお礼申し上げるんですよ」
とひと言、トントンと階段を下りて行った。
「——ありがとうございました」
と、紀子は頭を下げた。
「ともかく、お入り」
大江は自分の部屋へ紀子を入れると、座布団を二つに折って、枕代《まくらがわ》りに畳の上に横になった。
「——君も楽にしなさい」
「はい……」
「いつからここで働いてるんだ?」
「三か月ほど前からです」
「そうか。——ずっとこの町にいたわけじゃないだろう?」
「ええ。母の方の親戚《しんせき》の所にいたんですけど、何かと居づらくて」
と、目を伏せる。「父が好きだったこの温泉町へ戻ろうと思って、出て来たんです」
「そうか。——すると今は一人?」
「ここに住み込んでいます」
「君、いくつだね」
「二十……二です」
「二十二。——二十二か。お父さんが亡くなったときは……」
「七歳でした」
「十五年前。——そう、そうだね。もう十五年になる」
大江は天井へ目をやって、呟《つぶや》いた。
「父のことを……」
「むろん知ってる。——いや、君は憶《おぼ》えていないだろうが、あの家へ行ったこともあるんだよ。君はまだ三つかそこらじゃなかったかな」
紀子は嬉《うれ》しそうに微笑《ほほえ》んだ。
「そうですか! でも——私、父のことももうよく憶えていません」
「そうだろう。七つではね。——しかし、君のお父さんは作品の中に残っている。そうじゃないかね?」
紀子の顔がやや寂しげにかげって、
「父の書いたもの、読んだことがありませんから」
と言った。
お銚子《ちようし》が来て、大江は起き上り、とりあえず盃《さかずき》を空けると、
「君も飲むか」
と言った。
「いえ、全然やらないんです」
「そうか」
「大江さん。——一つ、うかがってもいいですか」
と、紀子は座り直した。
「何だね?」
「父は……どうして……」
と言いかけると、突然紀子は前のめりに突っ伏して、呻《うめ》いた。
「どうした?」
びっくりした大江が腰を浮かす。
「頭が……頭が……痛い……」
紀子は両手で頭を抱え込むと、畳にこすりつけるようにして、呻き声を上げた。
「大丈夫か? ——君!」
大江が紀子の肩に手を置くと、紀子は飛び起きるようにして、大江に抱きついた。
「おい……。危いじゃないか」
危うく引っくり返りそうになるのを何とかこらえて、「落ちついて。——そうそう。もう大丈夫……」
と、紀子の背中を軽く叩《たた》く。
紀子は大江の胸に顔を埋《うず》めて、深く喘《あえ》ぐような息づかいを繰り返していたが、やがて穏やかになり、ゆっくりと顔を上げ、
「——すみません」
と、赤くなって離れた。
「もう大丈夫か? どうしたんだね」
「頭痛がするんです、ときどき。でも、しばらくすると治ります」
「しかし、普通じゃないね」
「よく分りません」
紀子は首を振って、「父のことを考えてると、時々ああして……。突然ひどい頭痛が起るんです」
「お父さんのことを?」
大江は考え込んでいたが、「——じゃ、今夜はとりあえずお父さんのことは忘れて飲むことにしよう」
と、微笑んだ。
紀子も、大江の笑顔にごく自然に引き出されるように、微笑を浮かべたのだった。
「——K温泉?」
サングラスを外して、その男は言った。
「ああ」
沢木はグラスを軽く揺らして、「もう一杯、同じのを」
と、注文した。
バーの隅のテーブルは、薄暗くてサングラスなんかかけていたら何も見えなくなってしまいそうだ。
「またずいぶんクラシックな道具立てだな」
沢木と遊び仲間で、感じも似ている——ただし、沢木より大分太っている——山辺《やまべ》は、ニヤリと笑うと、「で、どうしろって言うんだ?」
「彼女がK温泉へ行く」
「どっちの彼女だ?」
と、山辺がからかう「——俺《おれ》は水割り」
沢木の払いというので、平気で頼んでいるのだ。
「むろん、倉本そのみさ」
「例のお嬢さんの方だな」
「四年生だからな。卒論のための取材だとさ」
「温泉の研究か?」
「違う。そこにいた何とかいう、聞いたことのない作家のことを調べるんだ」
「ふーん。それで?」
「そのみを追って、江利の奴《やつ》がK温泉へ行く。お前、向うへ行って、彼女を消してくれ」
山辺は少しの間太い首をめり込ませるようにして、沢木を見ていた。
「その『彼女』は矢田部江利のことだな?」
「むろんだ。——ありがとう」
新しいグラスが来て、沢木は一口飲んで息をついた。
二人はしばらく黙っていたが、
「——つまり、こういうことか」
と、山辺が言いかけると、
「よせ、繰り返すな。——分ってるだろう」
と、遮った。
「ああ、しかし……。ことがことだからな。江利がもし行かなかったら?」
「行くさ。俺が行かせる」
「それなら分った。もう訊《き》かねえよ」
山辺は楽しげに、「娘一人か。——難しい仕事じゃねえな」
「油断するな。それに、江利がそのみに会う前に片付けてくれよ」
「任せとけ。慣れたもんさ」
山辺は、少し考えて、「写真、あるか」
「これだ。——こっちの端に立っているのが江利だ」
「ふむ。なるほど」
「こっちが、そのみさ。——くれぐれも間違えるなよ」
山辺はその写真をポケットに入れた。
「じゃ、乾杯しよう」
と、沢木がグラスを掲げると、
「その前に、謝礼の方を決めとこうぜ」
と、山辺が言ってニヤリと笑った。
——温泉。山辺にとって、温泉という舞台[#「舞台」に傍点]が実は大きな意味を持っていたのである。
「——何、これ?」
と、聡子が新聞の切り抜きを亜由美から渡されて、「〈女子大生行方不明〉〈女子高生、姿を消す〉〈女子大生、謎《なぞ》の失踪《しつそう》〉……」
「見た通りよ」
と、亜由美はボストンバッグのファスナーをシュッと引いて、「やっと見付けたのよ、その記事」
駅のホームで、列車を待ってる二人——いや三人[#「三人」に傍点]である。
ドン・ファンは窮屈な動物用のケースにおさまって、それでもむだな抵抗はしない主義なのか、ぐうたら眠っている。
「——倉本さん、遅いわね。もう来てもいいころだけど」
「来ないんじゃない? 帰ろうよ」
「聡子——。友情の証《あかし》でしょ」
聡子はため息をついて、
「分ったわよ。もう一つふえるのね。〈またしてもK温泉に消えた女子大生二人!〉とかさ」
「ブラックホールじゃあるまいし」
と、亜由美は笑って言ってから、「ともかく、どうも倉本さんの母親のことも気になってるのよ。——娘一人、K温泉へ行けるのかどうか心配なら、やめさせりゃいいでしょ、普通」
「簡単よ」
と、聡子は言った。「金持ってのは普通じゃないの。それだけよ」
「——ま、言えてる」
と、亜由美は肯《うなず》いた。「列車の中で退屈しないように、週刊誌でも買って来る」
「そのお金も倉本さんとこから出るの?」
「ケチなこと言わないで! ドン・ファンを見ててね」
と、ベンチを立って、売店へと小走りに急いだ。
まだ、列車はホームへ入って来ていないので、そうあわてることもないし、大体、肝心のそのみが来ていない。しかし、いつも呑気《のんき》な亜由美も、こういうことに関しては、割合せっかちなのである。
「——じゃ、これ」
と、お金を払って、週刊誌三冊、抱え込んだ亜由美はベンチへ戻ろうとして——、
「アッ!」
誰かとぶつかって、「ごめんなさい!」
何も自分だけが謝ることはないと思うのだが、つい言葉が出てしまう。
だが、相手の若い女は、謝る気などさらさらないようで、ジロッと亜由美をにらんでから足早に行ってしまった。
「——何よ、感じ悪い」
と、その後ろ姿に向って舌を出してやった(ほんの少しだが)。
そして亜由美がベンチへと戻って行くと、誰やらあわてて駆けて来て、後ろから突き当られた。
手から週刊誌が飛び出して落ちたが、文句を言おうにも相手は振り向きもせずに行ってしまう。
でも——ヤクザまがい[#「ヤクザまがい」に傍点]のスタイルを見送って、
「文句言わなくて正解だったかも……」
と呟《つぶや》いた。
ベンチへ戻ると、倉本そのみが来ていたのはいいが……。
「列車だわ」
と、聡子が言って、立ち上った。
「どうぞよろしく」
と、そのみの母親が亜由美に挨拶《あいさつ》している。
「いえ、こちらこそ」
「お母さん、もう行って。——さ、亜由美さん、乗っちゃいましょう」
亜由美たち三人と一匹は、グリーン車へ乗り込んだ。
座席についても、まだ気が抜けない。
何しろ、ホームにはズラリと倉本そのみの母親を始め、わけの分らない人々が並んで見送っている。
「——早く出ないかな」
と、そのみが情ない顔で、「あんなんで見送られて、どこへ行くんだかね」
「大勢いるんですね、使用人が」
「違うの。トラ[#「トラ」に傍点]よ」
「トラ?」
「エキストラ。お母さんが雇ったバイトよ。お見送りの」
「へえ……」
ベルが鳴って、やっと出発。
と、ホームに並んだ「トラ」たちが、一斉に、
「そのみさん、万歳!」
「お嬢様、万歳!」
とやり出した。
亜由美たちも真赤になってうつむき、ただひたすら列車が早くホームを離れてくれないかと祈っていたのである……。