8 炎の危機
「——ここに立ってたんですね?」
と、殿永が岩の上に進み出て、下を覗《のぞ》き込み、「やあ、凄《すご》いもんだ」
剣呑《けんのん》、剣呑、という様子で後にさがる。
「——どうせ信じないんでしょ」
と、亜由美は言った。
殿永はため息をついて、
「いいですか、私はミステリーに出て来る馬鹿《ばか》な刑事の役回りは好かんのです。誰《だれ》も信じないなどと言ってないじゃありませんか」
と、苦情を述べ立てた。
「ワン」
ドン・ファンが面白がっている。
——一夜が明けて、まだ朝の光。
ゆうべ大騒ぎしていたTV局や記者たちはまだ起き出していない。
「確かに、岬信介だと言ったんですね?」
と、殿永は言った。
「そう見えた、って。——でも、紀子さんも七歳のとき以来、見てないわけですから、もちろん見分けられるはずが——」
「それはどうですか」
殿永は、含みのある口調で言った。
「殿永さん、それって……。何か知ってるんですね?」
「ちょっと! 押さんで下さい。滝壷《たきつぼ》へ落ちる」
「五メートルもありますよ、岩の先端まで」
と、亜由美はむくれた。「素直に言ってくれないからでしょ」
「いいですか。私は調べてみました。十五年前の心中をね。しかし——死体が上ったのは、大江俊子の方だけだったんです」
亜由美は愕然《がくぜん》とした。
「じゃ——本当に[#「本当に」に傍点]岬信介は生きてるとでも?」
「落ちついて下さい。死体は単に流されてしまっただけかもしれない」
「でも、見付かってないってことは——」
「生きている可能性は、ゼロとは言えません、確かにね」
と、殿永が肯《うなず》く。「しかし、そうなると、問題だらけです。なぜ十五年も姿を隠しているのか。どこにいるのか。——殺された三人の娘との係《かか》わりは?」
そうか。生きているとなると、岬信介が犯人とも思える。却《かえ》って、紀子にとっては辛《つら》い話だろう。
「でも——まさか、あの旅館の女将《おかみ》さんを殺したりしませんよね」
と、亜由美は言った。
「忘れてるかと思ってました」
と、殿永がニヤリと笑う。
「人を馬鹿にして!」
「いや、とんでもない。塚川さんのことを馬鹿にしたら、正義の剣士にやられちまうでしょう」
少女アニメ狂の父のことを言われると、亜由美も弱い。
「あれは犯人のしくじりです。大きな、ね」
「というと?」
「三人の娘たちは、みんなあの旅館に泊っていたのです」
「じゃ——」
「あの女将は、何かの形で係わっていた。死体が見付からない限りは、それでも良かったのです。誰もが忘れていたから。ところが、事件が繰り返されると、やはりまずあの旅館に目が向く」
「それで消された」
「おそらくはね」
と、殿永が肯いて、「おや、倉本さんですよ」
そのみがやって来て、
「おはようございます」
と、ていねいに頭を下げる。
「ゆうべは大騒ぎでしたね」
「でも、楽しかったわ。普段、めったに使えないんですもの、合気道、習ってても」
亜由美は目を丸くした。
「じゃ、ゆうべTV局の人が『乱暴された!』と喚《わめ》いてたのは……」
「向うが粗暴だったのです。正当防衛ですわ」
「同感です」
と、殿永が肯いた。
「刑事さんがそう言うんだから、大丈夫ですね」
と、亜由美が微笑《ほほえ》んだ。「そのみさん、卒論のテーマ、変えた方がいいかもしれませんよ。『岬信介にインタビュー』とかって」
「あら。でも——。これが今朝届いたんですよ」
と、そのみは一通の大分黄ばんだ封筒を取り出した。
「それは?」
「〈遺書〉とありますわ」
「岬信介の?」
「たぶん。——まだ開けていません。自分一人で開けてしまったら、私が偽造したと思われそうで。刑事さんに証人になっていただければ安心です」
「喜んでなりましょう」
三人は(ドン・ファン付きで)あの廃屋へと戻った。
「それ、どこから届いたんでしょうね」
「あの町役場の若い人。何だか今朝、会議室を使おうとしたら、これが床に落ちてたそうです」
「じゃ、落としてったのかしら? ドン・ファン、何であんたが気が付かないのよ!」
亜由美が言ってやると、ドン・ファンは聞こえないふり[#「ふり」に傍点]をして、そっぽを向いている。
「——じゃ、開けてみます」
そのみがそっと封を切る。
——その様子を、木のかげからそっと見ている男がいた。
「あら」
聡子は、旅館のロビーで、バッタリと山辺と出くわした。「階段から落ちた人だ」
「あのな……」
「じゃ、倉本さんに殴られた人」
「殴られたいか!」
と、山辺はむきになっている。
聡子が行ってしまおうとすると、
「おい」
と、山辺は呼び止めた。
「——呼んだ? 金貸せって言われても、ないわよ」
「この野郎! ——あの女、見付かったのかよ」
「え? ああ、江利さんのこと? まだみたいよ」
と、聡子は首を振って、「どうして気にしてるの?」
「いや……別に」
と、肩をすくめて、「ま、どうなったっていいけどな、あんな女」
「へえ。でも、ちょっと気になってんじゃないの?」
と、聡子が冷やかしていると、
「山辺様、いらっしゃいますか」
と、フロントで呼んでいる。
「ああ、俺《おれ》だ!」
ホッとして、山辺は駆けて行った。
「お電話でございます」
「どうも。——もしもし」
と、山辺が言うと、少し向うは黙っていたが、
「——いたのか」
「ああ……」
「どうなってんだ? 何だか、そっちの温泉、大騒ぎじゃねえか」
沢木である。
「うん。——何か妙なのが一杯いてな」
「江利の方、どうなった?」
山辺はぐっと詰ったが、
「ああ……。任せとけ。もう少し[#「もう少し」に傍点]だ」
と、何だかわけの分らない返事をしている。
「本当に大丈夫か?」
「やるさ。信じないのか?」
「そうじゃない。それじゃ、頼んだぜ」
「ああ、分ってる」
沢木の声の向うに、何だか妙な音がしていた。——何だろう?
「じゃ、切るぜ。今日は忙しくって」
と、沢木が言った。「うまくいったら、連絡しろよ」
「ああ、もちろんだ」
——山辺は、そっと電話を切った。
江利を殺す、か……。
山辺は、どうせ江利の行方が分らないので、却《かえ》ってホッとしたりしていた。
殺したくても、いなきゃやれないわけだしな。
それに——そうだ。例の三人の娘を殺したという犯人が、もし江利のことをさらって行ったとしたら……。
代りにやってくれるかもしれない。そうすりゃ、楽ってもんだ。
今ごろ江利は殺されているかも……。いや、殺される前に、散々もてあそばれて……。
「——何をボーッとしてんの?」
振り向くと、ギョッとするほど近くに聡子が立っていた。山辺は仰天して、
「立ち聞きしやがったな!」
と、喚《わめ》いた。
「誰がかけて来たの? こんな町に知り合い、いたの」
「ここじゃねえ。東京からだ」
と、山辺が言うと、
「嘘《うそ》。この近くよ」
「何で分るんだ?」
「鐘の音がしてた」
「鐘?」
「ほら」
と、聡子が指を立てる。
ゴーン、と遠い寺のものらしい鐘の音。
「ね? 電話で聞こえてたじゃない」
山辺は、電気にでも打たれたように突っ立っていた。
「——どうかした?」
聡子が心配そうに訊《き》くと、
「どこの鐘だ?」
「さあ。——お寺でしょ」
「どこの寺だ!」
「私、知らないわよ! 旅館の人に訊いてみたら?」
山辺は、
「おい!」
と、凄《すご》い剣幕でフロントの中へ飛び込んで行った。
聡子は呆気《あつけ》に取られて、
「やっぱり、打ちどころが悪かったのかね」
と、首を振って呟《つぶや》いた。
沢木は、重い戸を開けた。
——薄暗いのは、土蔵の中だからで、ひんやりと空気も明け方のようだ。
沢木は、両側に積み上げてある荷物の間を抜けて、奥へ入って行った。
高い窓から射し込む光だけが、足下を照らしている。
床に四角く切れ込みがあり、そこに丸い鉄の輪がついている。力をこめて引張ると、ふたがパックリと開いて、地下へ下りる急な階段が見えた。
沢木は、用心しながら階段を下りて行った。
小さな電球が点《つ》いていて、空っぽの部屋を照らしている。——いや、部屋というより、あなぐらである。
奥に、江利が縛られて横たえられていた。
「——やあ」
と、沢木が声をかけると、江利がハッと顔を上げた。
「何しに来たの」
と、沢木をにらむ。
「怖いな。もうちっとやさしくなれよ」
と、沢木は笑った。
「私をどうするの? こんな所へ閉じこめて」
「分ってるだろ」
冷ややかな口調は、江利にも伝わった。
「——殺すのなら、早くやって」
「まだまだ。俺がやるんじゃない。犯人[#「犯人」に傍点]はちゃんと上にいる」
沢木は天井の方へ目をやった。
「どうして私を殺すの? 結婚の邪魔だから?」
「初めはそうだったさ。しかし、事情が変ったんだ。——いつまで待っても、山辺の奴《やつ》はやりそうもないしな」
沢木は、壁にもたれてタバコを出すと、火を点けた。
「——山辺?」
江利は縛られたまま頭を起して、「あの旅館にいた人?」
「そうさ。俺がここへ来させたんだ。お前を殺すようにな」
「あの人が……」
「しかし、分ってたさ、やりっこないってことは。大して度胸のある奴じゃないんだ」
と、タバコの煙を吐き出して、「俺は後から来て、お前を殺す。山辺に罪をなすりつけてな。——あいつ、単純だから、引っかかるに決ってる」
江利は、床に横たわって、手足を動かそうとしたが、とても無理だった。手首、足首を縛った縄は少しも緩まない。
「諦《あきら》めろよ」
と、沢木が笑って、「こっちへ来て、違う話が舞い込んだのさ。もっと金になる話だ」
「倉本さんと結婚するより?」
「あいつは結婚しないよ、俺とは」
沢木は肩をすくめた。「俺のこと、調べさせてたんだ。それじゃ、すぐばれるからな、どうせ」
「じゃ——私を殺すのを手伝ってお金をもらうの?」
「どうせ死ぬとこだったんだ。諦めろよ。な? それに自分が手を汚さなくてもすむんだから。願ったりさ」
「卑怯者《ひきようもの》! どうせなら自分の手でやりなさいよ!」
「何とでも言うさ。——なあ、俺なんか小悪党だ。世の中、上にゃ上がいるんだぜ」
と、沢木は言って、「おっと、来たらしいな」
上で足音がした。
「じゃ、あばよ、江利。成仏してくれ」
沢木はタバコをくわえて、階段を上って行ったが——。
ダダダッと凄い勢いで落ちて来ると、沢木は大の字になってのびてしまった。
「——やっぱり、階段から落ちるのは危いな」
と、下りて来たのは山辺だった。
「山辺さん!」
「今、縄といてやるからな」
と、駆けつけると、江利の手足の縄をほどいて、「立てるか?」
「しびれて……動けない」
「頑張れ! 俺につかまって」
山辺は、ほとんど江利を背負うようにして、地下からの階段を上って行った。
「あなた……私のことを——」
「話は後だ」
やっと、地下から這《は》い上った二人の前に、誰かが立ちはだかっていた。
「——頼りにならん奴だ」
と、大江は言った。「すまんが、また逆戻りだね」
大江の手には、散弾銃があって、二連の銃口が山辺たちに向けられていた。「——古い銃だが、昔はこれでよく猟をしたもんだ。撃つのは慣れてるよ」
「私を殺せばすむんでしょ!」
と、江利が叫ぶように言った。
「もう、生かして帰すわけにはいかんね、君たち二人とも。むろん、下でのびてる馬鹿《ばか》もだ」
「上の人も?」
と、江利が言うと、チラッと大江の目が上を向いた。
山辺が飛びかかった。銃が火を吹いて、壁土が飛び散った。
大江は、山辺を振り離すと、土蔵の外へと転がり出た。山辺が追いかける。
「——山辺さん!」
江利は、煙が地下から立ち上ってくるのに気付いて、叫んだ。
タバコ——。沢木のくわえていたタバコの火が何かに移ったのだ。
江利は、しびれた手足で何とか立ち上ろうとした。よろけて、必死にそばの荷物につかまって出口へと進む。
上の人……。そうだ! 上に誰かいる!
江利が、何とか出口へ辿《たど》り着いたとき、
「江利さん!」
と、呼ぶ声と共に、亜由美が駆けて来た。
あの刑事も続いてやって来る。——江利はその場に座り込んでしまった。
「——しっかりして!」
亜由美は駆け寄って、江利を立たせようとした。
「中に……」
「中に?」
「上に誰かいるの……。鍵《かぎ》を、あの人が——」
大江の上に馬乗りになって、山辺がぶん殴っている。
亜由美は、落ちている散弾銃を拾い上げると、両手で抱えて、土蔵の上の階へ上る階段を上って行った。
火がすでに回り始めていた。
外では、殿永が大江に手錠をかけ、土蔵の方へ駆けつける。
「亜由美さんが……中に」
と、江利が言ったとき、中で轟然《ごうぜん》と銃声が響き渡った。