9 過去を忘れて
「あ、そうだ」
と、江利は言った。「忘れてた。地下に、沢木がいたんだわ、のびて」
もう手遅れだった。
——何しろ、土蔵から江利が助け出されて何時間もたっていたので、土蔵の中はすっかり焼けてしまっていたのである。
「天罰だよ」
と、山辺が言った。
実際、あまりに色んなことがあり過ぎて、沢木のことなど、誰《だれ》も考えていなかったのだ……。
旅館の亜由美たちの離れには、紀子と殿永以外の面々が集まっていた。
紀子は、十五年ぶりの父との再会に呆然《ぼうぜん》としているだろう。
「——お待たせして」
と、殿永がやって来た。
「どうなりました?」
と、亜由美が訊《き》いた。
「今、父と娘は無言で、ともかく一緒にいます」
「良かったわ」
と、そのみが微笑《ほほえ》む。
「心の傷がいやされるまで、大分かかるでしょうがね」
「あの〈遺書〉が——。あれが残ってて良かったですね」
「役人が何でもしまい込んでしまったわけでね。おかげで大江も存在さえ知らなかった」
〈遺書〉は、岬のものではなく、俊子のものだった。——俊子は大江の養女だったが、小さいころから、大江にもてあそばれていたのだ。
ある列車で岬と一緒になった俊子は、初めて心を許す男と出会い、恋した。二人は話に夢中になって、二つも先の駅まで行ってしまったという。
しかし、大江がそんな恋を許すはずもなく、俊子は絶望して、〈遺書〉に大江とのことを書き遺《のこ》し、あの滝へ飛び込んで死んだ。
俊子を追いかけて行った岬は、〈遺書〉を読むことなく、その場で俊子の後を追おうと、飛び込んだ。しかし、結局、岬は下流で岸に打ち上げられ、それを知った大江は、こっそり岬を土蔵の中へ隠したのだった……。
「——岬さんは記憶を失ってたんですか?」
と、そのみが訊く。
「初めの内はね。次第に自分を取り戻したようだが、俊子の死が自分の責任と思って、苦しんでいたようですな」
「それを大江が利用して……。ひどい奴《やつ》!」
と、亜由美は憤然としている。
「全くね。大江は、あの女将《おかみ》の黒田忍のパトロンで、金を出してやっていた。それで、若い娘を連れ出しては、しばらくあの土蔵の地下へとじこめ、遊び飽きると殺して、あの家の屋根裏へ捨てたんです」
「岬さんをずっと生かしといたのは、いざってとき、犯人に仕立てられるから?」
「そういうことですな。——しかし、岬さんの父親の方は、事情が分れば納得《なつとく》するでしょう。問題は紀子さんの方でね」
「どういう意味ですか?」
と、聡子が訊く。
「大江が、七つだった紀子さんをもてあそんだことがあったのです。——紀子さんは憶《おぼ》えていない。というより、思い出すことを拒んでいたのです」
「それがあの頭痛……」
「そう。——当人は、大江のことを『親切な人』と信じていたわけですが、時として、小さいころの記憶が戻りそうになって、そうすると、あのひどい頭痛が起きたんでしょうね」
「ひどい人……。私、一発殴ってやりたい」
と、そのみは言った。
「紀子さんはそのことを?」
「いや、まだ知りません。やがて、それを受け容《い》れることができるようになるでしょう」
殿永は肯《うなず》いて言った。
「——ここの女将さんを殺したのは沢木ですか」
と、そのみが訊く。
「そう大江は言っています。沢木が金に困っていることを女将が大江に知らせたんですよ。女の子をさらう手伝いをさせるのに良さそうだと言ってね」
「その当人が殺されてしまったんですね」
「皮肉なもんね」
と、亜由美が首を振って、「倉本さん、沢木と結婚しなくて良かったですね」
「おかげさまで」
ていねいな口をきくところがおかしい。
「でも——卒論、どうします?」
「もちろん、やるわ! こんなにドラマチックな卒論って、ないと思う」
「確かにね」
と、殿永が苦笑した。「塚川さんのいる所、常に事件ありです」
「そういう言い方はないんじゃありませんか?」
と、亜由美はムッとしたように言った。
「ワン」
「変なところで吠《ほ》えるんじゃないの」
と、亜由美がにらむと、ドン・ファンは知らん顔をして、ゴロッと横になった。
「——そうそう」
殿永が思い出して、「あの山辺という男ですが——」
「沢木の友だちですけど、私を助けてくれたんです!」
と、江利が急いで言った。
「分ってますよ。そろそろ東京へ発《た》つと言ってたので」
「今日——ですか」
江利が目を見開いて、「今?」
「ちょうど玄関辺りにいるかもしれませんな」
江利は、急いで立ち上ると、
「あの——ちょっと失礼します」
と、出て行った。
下駄《げた》の音が庭を駆けて行く。
「——でもね」
と、亜由美が言った。「初めは殺しに来たんでしょ、あの人?」
「ま、いいじゃありませんか。『終り良ければ、すべて良し』です」
殿永はおっとりと言った。
「——待って!」
玄関へ駆け込んだ江利は、ハアハア息を切らして、ちょうど靴をはいた山辺と向い合って立っていた。
「——何だ、ずいぶん元気そうじゃないか」
と、山辺はボストンバッグをさげて、「俺《おれ》はもう帰るぜ。何日も泊る金もないし」
「だめ」
江利はボストンバッグを引ったくると、ポンと奥へ投げて、「あと一泊です!」
「おい——」
「散歩しましょ」
江利は、山辺の手を握った。
「痛いぜ、そんなに強く握ると」
「つべこべ言わないの!」
江利が強引に引張って、二人は通りに出た。
「——どこに行くんだよ」
「別に。ともかく歩きたかったの」
江利は、足を止めて、「ほら」
——昨日の、あのお婆《ばあ》さんがやって来た。
「ああ」
と、二人に気付くと、「どうしたね? やっと仲直りしたか」
「ええ」
と、江利は微笑んで、「ハニムーン[#「ハニムーン」に傍点]らしく仲良くなりました」
「そりゃ結構。年寄りの目は確かだよ」
「本当にね」
「ま、お幸せに……」
——お婆さんが行ってしまうと、
「お前、分ってんのか? 俺は——」
「私を好きなんでしょ?」
山辺は、ちょっと詰って、
「まあ……な」
と、言った。
「じゃ、いいじゃない」
二人は、手をつないで歩いて行く。
——まだ、旅館のネオンに灯《ひ》がともるにはいささか早かった。