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ゴールした花嫁03
日期:2018-06-28 20:54  点击:232
 2 前 夜
 
「ワン」
 と、ドン・ファンが笑った[#「笑った」に傍点]。
「人のこと馬鹿《ばか》にして」
 と、亜由美はドン・ファンをにらんで、「あんただって走ってごらん。私の方が速いんだから」
 比較するのは酷というものだ。ドン・ファンは、胴長短足のダックスフントなのだから!
「ドン・ファンに当って、どうするの」
 と、母の清美《きよみ》がたしなめた。「自分が馬鹿なんだから仕方ないじゃない」
「あのね」
 亜由美は、夕ご飯をやけ[#「やけ」に傍点]気味に詰め込みながら、
「自分の娘をそう『馬鹿、馬鹿』って言わないでくれる?」
「一回しか言ってないわ。二回も続けて『馬鹿、馬鹿』なんて言わないわよ」
 母親に言ってもむだなのである。
「明日、四十二・一九五キロを走り切った所でバッタと倒れて息を引きとったら、泣いてよね」
「大丈夫。死ぬ前に貧血起して倒れるわ」
 と、清美が保証(?)すると、
「何にせよ、力を尽くして死ぬのなら、誇るべきことだ」
 と、父、塚川|貞夫《さだお》が言った。「そこに記念碑をたててやる」
「〈アホな娘、ここに眠る〉とでも彫るんでしょ」
「何を言うか! 私はいやしくもお前の父だぞ! 当然、〈娘は父親に似ず馬鹿だった〉と彫るのだ」
「ワン!」
 ドン・ファンが賛意を表して、亜由美は一人、ふてくされていたのである。
「おかわり!」
「そんなに食べて大丈夫? マラソンの途中でトイレに行きたくなったらどうするの?」
「そんな心配しないで! エネルギーのもとは食事!」
「はいはい」
 と、清美はご飯をよそって、「明日の朝、炊かないと間に合わないわね」
「明日、日曜日よ」
「だって、お弁当作ってかなきゃ。長いんでしょ、マラソンって」
 亜由美は、まさか、という顔で、
「——見に来る、なんて言わないよね」
「あら、どうして? もちろん行くわ。ねえあなた」
「むろんだ! 娘が、我が身の処刑の身代りとなった友人を救うために走るのだ。見逃せるものか」
「それって、〈走れメロス〉じゃない?」
「そうだ。あれのアニメはこの間再放送していた。しかし、お前のマラソンは再放送はないだろうからな」
「どういう理屈?」
 と、亜由美はふてくされたが、父に何を言ってもむだだと分っていたので、諦める。
 エンジニアの父は、少女アニメを見て泣くのが唯一の趣味、というちょっと[#「ちょっと」に傍点]変った人なのである。
「あら、大変」
 と、清美が何やらポンと手を打って電話へと駆けて行く。
「——亜由美」
 と、貞夫が言った。
「何?」
「最後まで、力を振り絞って走り抜くのだぞ!」
「冗談じゃないわよ!」
 と、亜由美は目をむいて、「駅まで走ったって、ハアハアいってしばらく動けないのに、四十二キロも走れるわけないでしょ」
「いや、人間、その気になればやれないことはない」
「私はね、お父さんのお気に入りのハイジと違って、年中アルプスの山を駆け回ってるわけじゃないの」
「哀れなハイジ!」
 たちまち、貞夫はアニメの思い出にはまってしまった。「お婆《ばあ》さんのためにとっておいた白いパンを、捨てられてしまう。大人は、幼い純真な心を、踏みにじっていることに気付かんのだ!」
「はいはい」
 と、亜由美は肩をすくめた。
「——良かったわ」
 と、清美が戻って来て、「殿永《とのなが》さん、まだいらしたわ」
 亜由美の、はしを持つ手が止った。
「——お母さん、今、殿永さんって言ったの?」
「そうよ」
「あの——刑事の殿永さん?」
 亜由美がよく事件に巻き込まれると、何かと「手数をかける」のが殿永部長刑事。
「他に同じ名前の人、知ってるの?」
「そうじゃないけど……。何で殿永さんにお母さんが電話するの?」
「あんたに変ったことがあれば知らせて下さいって言われてるんだもの」
「じゃ——マラソンに出るってこと、話したの、わざわざ? 呆《あき》れた!」
「TV中継があるから見て下さい、って言ったの。でも考えてみたら、あんたがTVに出るのって、きっとスタートのときだけでしょ。殿永さんがずっと十時間もTVを見てたら申しわけないから……」
「いくら何でも、十時間もやらないわよ」
「あらそう。——でも、大丈夫。明日はお休みなんですって、殿永さん」
 亜由美はまじまじと母を見て、
「まさか……見に来るんじゃないでしょうね、殿永さん?」
「喜んで応援にうかがいますって。頑張ってね。お母さん、殿永さんの分もお弁当を作るわ!」
 清美の笑顔を見て、亜由美は頭を抱えてしまった。
「クゥーン……」
 ドン・ファンが、一人[#「一人」に傍点]、同情するように鳴いた……。
 
「おやすみなさい」
 と、市原和樹が会釈した。
「おやすみ、お兄さん」
 と、ミキが手を振る。
 中里が、グラスを空けて、
「さて、行くか、俺《おれ》も」
 と、立ち上る。
「あ、ここは私が。——お任せ下さい」
「そうか? 悪いね」
 中里は、支払いを市原和樹に任せて、ミキと二人でホテルのバーの中に残った。
「さて、と……」
 中里が腕時計を見て、「もう寝た方がいいぞ。明日は早い」
「大丈夫。これぐらいで、調子崩しゃしないわよ」
 ミキは、カクテルを飲み干した。
 中里も、分っている。今のミキは、若く、天性の足を持っている。確かに、少々飲もうが、寝不足だろうが、明日のレースでは信子を抜くだろう。
 そういう時期があるのだ。長くは続かないのだが、当人はそう思わない……。
「どうする?」
 中里の目はテーブルのルームキーを見ていた。
「よく眠れるようにして」
 と、ミキは少しうるんだ目で中里を見つめた。
「よし。じゃ、行こう」
 中里がキーを取る。
 ホテルの部屋も、市原和樹が〈Nシューズ〉の払いで借りてくれたものだ。
 中里は、ミキの肩を抱いて、エレベーターに乗った。
「明日は、信子さんの引退興行ね」
 と、ミキが言った。「ショックで立ち直れないくらい、差をつけてやるわ」
 ミキが信子のようなタイプを嫌っていることは、中里も知っている。それが「ライバル意識」として、いい形で出ればいいのだが。
「あんまり信子のことばかりマークするな、他に何人もいるんだぞ」
 と、中里は言った。
「分ってるわよ……」
 ミキが中里の顔を引き寄せてキスする。
 エレベーターの扉が開いた。
 二人は、笑いながら離れてエレベーターを出ると——。
 目の前に、青ざめた女が立っている。
「——知香《ちか》」
 と、中里が言った。「何してるんだ」
「市原ミキさんね」
 と、女は言った。「中里の妻です」
 小柄な、スーツ姿の知香は、化粧っけのない、地味な印象である。
「どうも」
 と、ミキは会釈して、「じゃ、コーチ、また明日」
 と、中里の手からキーを取ると、スタスタ歩いて行った。
 中里は、しばらく黙って妻と向い合って立っていたが、
「俺はただ——」
 と言いかけて、「分った。むだだな、言いわけしても」
 知香は、じっと夫を見つめていた。
「言っとくが、謝る気はないぞ」
「謝ってくれなんて言ってません」
 と、知香は言った。「多田さんは知ってるの?」
 知香は、夫と信子の間を、以前から知っている。
「いや」
「嘘《うそ》。あなたは嘘つくとき、いつもそうやって目をそらすのよ」
「だったらどうだ。お前と何の関係がある!」
「多田さんのことは恨まなかったわ」
 と、知香は言った。「ただ、あなたなんかを愛して、気の毒に、と同情するだけだった。でも、市原ミキさんは違う。罪の意識も、遠慮もないのね」
「どっちだって同じだろ」
 と、中里は笑った。「女は女だ」
「いいえ」
 と、知香は首を振った。「——いいえ、全然違うのよ。あなたには分らないんだわ」
「ああ、俺は分らず屋の亭主だ。それだからって、どうしろって言うんだ?」
「——どうもしてくれとは言ってない。ただ、市原ミキさんを見たかったの」
 知香は息をついて、「もう見たから帰るわ」
 知香がエレベーターのボタンを押す。すぐ扉は開いた。
「一人で帰るのか」
「じゃ、誰《だれ》と帰るの?」
 知香はそう言って、扉を閉めるボタンを押した。
 
 ハッ、ハッ、とリズミカルな呼吸。
 夜の道を走るランナーも、当節は珍しくない。車も少ないし、人の邪魔にもならない。
 ランニングをするためには、色々とメリットがあるのだ。
 むろん、欠点もないではない。——こんな時間に走っているのは、スポーツ選手ばかりじゃないのだ。
 加山俊二は、汗が背中をじっとりと濡《ぬ》らすのを感じた。マンションへ帰ったら、シャワーで流そう。
 その後で飲む生ジュースがおいしいのだ。
 いや、実際のところ生ジュースなんて、そんなに旨《うま》いものではない。しかし、人間、「ごほうび」を楽しみに張り切るという点、大人も子供も変りない。
 こんなときは、「自分で自分に、ごほうびをあげる」ことが効果あり、というわけなのである。だから、現実以上に、
「生ジュースはおいしい!」
 と、自己暗示をかけているのだ。
 さて、もう少し。
 角を曲ると、勤め帰りのOLらしい後ろ姿が見える。
 こんなときは気がねである。
「誰かが自分の後ろから走って来る」
 というのは、怖いものだ。
 加山は、わざと大きく足音をたて、道幅一杯、その女性から離れて走る。できるだけ遠くを駆けて追い越したいのだ。
 チラッと不安げに彼女が振り向くのが見えた。——見るからにランナーらしいウェア姿に、少し安堵《あんど》した様子だが、それでも、用心していることは気配で分る。
 大丈夫。僕は痴漢でも通り魔でもありませんよ!
 加山は少し足を速めて一気に彼女の前に出た。——これで安心しているだろう。
 すると——後ろからバイクの音が近付いて来た。
 加山はまた少し端に寄った。
「キャッ!」
 女性の甲高い声が耳に飛び込んで、加山は振り向いた。
「待って! 返して、私のバッグ!」
 バイクに乗った若い男が、そのOLのハンドバッグを引ったくったのだ。
 ブルル、とエンジンの音を高くして、バイクは走り去って行く。
「泥棒!」
 OLは追いかけようとしたが、ハイヒールでは数歩も駆けたら転びそうになってしまう。
 バイクは走り去って行く。
「待ってなさい」
 と、加山は言った。
 そして——バイクを猛然と追いかけたのだ。バイクまで、約四十メートル。
 たちまち加山の中の「エンジン」が全開になり、バイクの男の背中が見る見る近付く。
 男が振り向いた。——加山がぐんぐん迫って来るのを見て唖然《あぜん》とする。
 前方不注意。——後ろを向いていたのだから、当然である。
 道の凹《くぼ》みにタイヤがはまって、バイクは横転した。投げ出された男は、そのままのびてしまう。
 加山は肩で息をつくと、男の手からバッグを取り上げた。
 あのOLが、小走りに追いかけて来る。
「——さ、あなたのバッグだ」
「ありがとうございます!」
 と、バッグを抱きかかえるようにして、「今日、月給日だったんです! 助かりました!」
「僕は、一一〇番してこいつを突き出してやりたいんですが。——あなた、どうします?」
「ええ、むろん」
「決った。じゃ、電話して来て下さい。僕はこいつが逃げないように見張ってる」
「はい!」
 と、彼女は肯《うなず》いて、「あの……凄《すご》く速いんですね、走るの」
「え? ああ。——ま、一応百メートルの選手なので」
「まあ」
 目を丸くした彼女が、「この引ったくりも、運が悪かったのね」
 と、言って笑ったとき、加山は名前もまだ知らないこのOLと恋に落ちたのだった……。

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