7 裏工作
「どうぞ、入って下さい」
と、殿永が言うと、その男はおっかなびっくり、ドアを開けた。
「——〈Nシューズ〉の市原さんですな」
「そうです」
「かけて下さい」
市原和樹は、古びたロッカーの並んだ部屋の中を見回して、
「何の取り調べですか?」
と訊《き》いた。
「殺人事件と見られる死体が発見されましてね」
「死体?」
「〈Gスポーツ〉の植田英子さん。ご存知ですか?」
市原和樹は唖然《あぜん》とした。
「植田さんが殺された?」
「何か心当りは?」
「そんな……。知りませんよ!」
市原の言い方には、どこか不必要にむきになっているところがあった。
殿永のようなベテランの目はごまかせない。
しかし、もちろん殿永はそんな気配をおくびにも出さず、
「今日、この競技場で、植田さんに会いましたか」
と訊いた。
「ええと……。そうですね。ええ、スタートの前にチラッと」
「何か話は?」
「いや、よく憶《おぼ》えてません。こっちも妹のことで手一杯ですから」
と、市原は言った。
殿永の他に、部屋には木下がいた。
主催者側の責任者として、レースがどうなるか、気が気でない様子。
「木下さん、どうです?」
と、殿永が言った。「〈Gスポーツ〉と〈Nシューズ〉の間で、何かあったんじゃありませんか?」
「ああ……。そりゃもちろん、業界じゃ有名です」
と、木下は肯《うなず》いた。「〈Nシューズ〉は後発ですからね。こういう世界で、後発メーカーが売り込むのは凄《すご》く難しい。よほどのことがないとね」
「だからって——」
と、市原が言いかける。
「いや、植田君は良識のある人だったし、選手に不要なプレッシャーをかけるのを何よりも嫌った。だから市原ミキが急に〈Nシューズ〉の靴をはくと言っても、黙っていたんだ」
「問題があったんですか?」
「契約というわけじゃないが、覚書のようなものは交わしていたはずですよ。他のメーカーのシューズははかない、と。それを黙って破られたんだから——」
「僕は、何も知りません」
と、市原は言い張った。「妹が『大丈夫』と言うので信じただけです」
「それは妙ですな」
と、殿永が微笑《ほほえ》んで、「同じ業界にいて、いくらミキさんがそう言ったといっても、あなたが事情を知らんはずはない」
市原は、青くなったり赤くなったりしていたが、
「——確かに、知ってはいました」
と、渋々《しぶしぶ》言った。「でもね、上司からは『何が何でもうちの靴を使わせろ!』って怒鳴られて、こっちは『いやです』なんて言えますか? これぐらいのこと、仕方ないじゃありませんか」
「しかし、内心植田さんは怒っていたでしょうな」
「そりゃまあ……」
「そこで、たまたま更衣室の前で会ったとき、口論になり……。つい、カッとなって——」
「とんでもない!」
市原は真赤になって立ち上ると、「誰がそんなことするもんか! 馬鹿なことを言わないでくれ!」
殿永は至って穏やかに、
「たとえば、の話ですよ。——ま、落ちついて」
と言った。「ちゃんとレースが終るまではグラウンドの辺りにおられますね?」
「——むろんです。妹がトップでゴールインするのを見届けないと」
「なるほど。では、何かあれば呼出しをします。耳を澄ましていて下さい」
市原はせかせかと出て行った。
「忙しい奴《やつ》だ」
と、木下が言った。「ちょっと私も失礼して……。展開が気になるので」
「どうぞ。塚川さんがまだ走っておられるかどうか、確かめておいて下さい」
と、殿永も呑気《のんき》なことを言っている。
「分りました」
木下がドアを開けると、目の前に谷山が立っていた。
「——ど、どうも」
木下があわてて出て行くと、谷山が入れ替りに入って来て、
「何か分りましたか」
「市原和樹という靴屋さん[#「靴屋さん」に傍点]は、すぐカッとなるたちだということくらいですかな」
と、殿永は言った。「塚川さんはどうしました?」
「まだ走ってるようです。——そう頑張らなくてもいいのに」
と、腰をおろす。
「意地っ張りのところが、あの人を何度も危険から救ったのです」
「まあね……。そうそう、TV局の人間がコーチを捜し回ってましたよ」
「コーチ? 中里とかいいましたね」
「そうです。インタビューの約束があったのにいないと言って」
殿永は少し考え込んでいたが、
「——行ってみましょう。ともかく事件の後、姿を消したということだけでも問題です」
と、立ち上った。
二人が、グラウンドへ出て行くと、むくれっ放しという顔の男が腕組みをして、立っている。
「——TV局の方?」
「そうですよ」
「私は……」
と、殿永が警察手帳を見せると、
「何? 二時間ドラマのロケかい?」
谷山が、TV局の男の肩を叩《たた》いて、
「本物[#「本物」に傍点]の刑事さんに、その言い方は失礼だと思いますがね」
と言った。
「まさか……」
と、目を丸くすると、突然、ハハハと笑って、
「いや、失礼しました! あまりにスマートな二枚目なので、本物のわけがないと思いまして!」
「それは皮肉に聞こえますが」
と、巨体の刑事は言った。「ともかく、中里コーチのインタビューのことを聞かせて下さい」
「いや、参りましたよ」
と、TV局のプロデューサーだというその男はこぼした。「レース中、市原ミキがトップに立ったら、すかさず画面に出てもらうということで、話をしてあったのに……」
「もうトップなんですか?」
「ええ、二位が多田信子ですが、もう何百メートルか離されています」
「ほう」
殿永が、掲示板の大スクリーンへ目をやると、市原ミキの姿が一杯に映し出されている。
「——ちゃんと謝礼まで前金で払ったのに……」
と、プロデューサーが口を尖《とが》らす。
「前金で?」
「そうです。——どうやら借金がかさんでいたようでね。それで、インタビューの話にも飛びついて来たんですよ」
そこへ、神田聡子とドン・ファンがやって来た。
「先生!」
「やあ、どうした? 亜由美君に会えたかい?」
「ちゃんと走ってますよ、亜由美! あの生沢範子さんって人と一緒に。凄《すご》いなあ」
「ワン」
「ドン・ファンも賞《ほ》めてら」
と、聡子は笑った。
「中里コーチは、今どこです」
と、殿永が訊《き》くと、プロデューサーは肩をすくめて、
「知ってりゃ、首に縄つけてでも引張って来ますよ!」
「中里って、多田信子のとこのコーチでしょ!」
と、聡子が言った。「車で私たちが戻って来るとき、見ましたよ」
「ど、どこで?」
と、プロデューサーが勢い込んで訊く。
「ええと……。もう、先頭に追いつくくらいじゃないですか? 車だったから」
「車?」
「自分で運転して。——コーチだから、文句も言われなかったみたい」
「中継車に捜させよう!」
と、プロデューサーは駆け出して行く。
「何だか忙しい人ね」
と、聡子が言った。
「借金がかさんで、か……。怪しいですね」
と、谷山が言った。
「谷山先生、亜由美の影響? 口のきき方まで似て来た」
と、聡子がからかう。
「その辺のことは、K食品の人に当ってみましょう」
と、殿永が言って、一旦《いつたん》戻りかけた。
そのときだった。
場内がどよめいた。——何ごとだ?
聡子が、掲示板のスクリーンへ目をやって、
「見て!」
と、叫んだ。「市原ミキが倒れてる!」
大画面には、意識を失ったのか、目を閉じてぐったりと倒れている市原ミキと、急いで駆け寄る救急隊員、そしてマスコミのカメラマンの姿が映し出されている。
「あんなに調子良く走ってたのに」
と、聡子は唖然《あぜん》として言った。
「クゥーン……」
ドン・ファンも心配そうに鳴いた。
「こんなこと、聞いてませんよ! どうするんですか!」
男の声は、ほとんどヒステリックなほどの怯《おび》えを示していた。
声が階段の辺りに響く。
「——分ってます。——もしもし? ——ええ、そうですね」
と、やや諦《あきら》めた調子で、「でも、相手は警察ですよ。——ええ、もちろん植田英子を殺す理由はありませんからね。でも、何しろライバルメーカーだし、ミキのことはあるし……。いざとなったら、本当のことをしゃべるしかありませんよ。そうでしょう?」
市原和樹である。——人気《ひとけ》のない階段で、携帯電話を使っていた。
「——分りました。ともかく今のところは……。ええ、レースが終るまで、ここを出るなと言われてるんです」
市原は、息をついて、「じゃあ、何かあったら、またかけます。——はい」
と、電話を切った。
そして、やけ気味に、
「やれやれ……。言うだけなら何とでも言えるさ。畜生め!」
と、呟《つぶや》く。
電話をポケットへ入れ、歩き出そうとして——。
目の前に立っていたのは、加山だった。
「ああ、短距離の加山さんですね」
と、市原は営業用の笑顔になって、「〈Nシューズ〉の市原と——」
「知ってる」
と、加山は言った。
厳しい表情で、市原をにらみ、
「今、君は何と言ってた?」
「え? 聞こえましたか?」
「『植田英子を殺す理由』がどうとか言わなかったか?』
「え、ええ……。言いました』
「植田英子って、〈Gスポーツ〉の? 多田さんや僕にシューズを提供してくれている……」
「ええ、そうです。でもね、〈Nシューズ〉でも、短距離用のシューズを用意してるんですよ。ぜひ今度はいてみて下さい」
加山は、しかし靴のことなど関心がなかった。
「植田さんが殺されたのか? どういうことなんだ!」
と、市原の胸ぐらをつかんだ。
「ちょっと! ——落ちついて下さい! お願いですから、カッカしないで下さい!」
「返事をしろ!」
「分りましたよ……。ええ、殺されたんです、ここの更衣室の前で」
「いつだ?」
「さあ……。知りませんよ。僕が殺したわけじゃないんですから」
市原はややふてくされている。
加山はやっと市原から手を放して、
「誰がやった?」
「今、警察が調べてますよ。——レースが始まって間もなくじゃないですか」
「何てことだ……」
加山は、やっと信じる気になったらしい。
「もちろん、僕もライバルではありましたけど、あの人のことを尊敬してました。業界の本当の意味でベテランでしたね」
加山は皮肉っぽい口調で言った。
「じゃ、どうして彼女に断らずに、ミキちゃんに君の所のシューズをはかせたんだ」
「それは——」
「ちゃんと話せば、植田君はだめとは言わなかった。そういう点、よくものの分った人だったからな」
「でも、相手は大ベテランですよ。とても、正面切って、そんなお願い、できませんよ!」
加山はなおも市原のことを信じていない風だったが、
「警察はどこに?」
「この先を左に行った小部屋です」
「分った」
と、加山が歩き出そうとすると、階段をドドッと駆け下りて来る足音が聞こえて、思わず足を止める。
ただごとでない勢いだった。
記者やカメラマンが何十人も階段を駆け下りて行く。
「——何ごとだ?」
と、加山が言うと、市原は首をかしげた。
「おい!」
加山は記者の一人を捕まえて、「何かあったのか?」
と訊いた。
「市原ミキが倒れたんだよ!」
相手は怒鳴るように言い返して駆けて行く。
「——ミキが?」
市原はよろけた。
「しっかりしろ!」
「そんな……。そんな馬鹿《ばか》なこと……」
市原は青ざめていた。「ミキ……」
「早く行って、どこで倒れたのか、確かめて来い!」
と、加山にどやしつけられて、市原はやっとの思い、という様子で、グラウンドの方へと歩いて行った。