1 二人の「あなた」
昼休みまでにまだ間があるのに、お腹がグーッと鳴るというのは情ないものである。
まあ、自分でギョッとしているほどには、その音は人に聞こえていないものだが、やはり同じ課で机を並べている山崎聡《さと》子《こ》には聞こえてしまったようで、
「辻《つじ》山《やま》さん」
と、仕事の手を休めて、「朝、何も食べて来なかったの?」
その口調には少々非難めいたものも混じっている。しかし、山崎聡子は決して辻山房《ふさ》夫《お》当人を非難しているわけではないのである。
「いや、寝坊してね」
と、辻山房夫はお茶をガブガブ飲んで言った。「食べてる暇がなかったんだよ」
「でも、奥さんが起すべきよ」
と、山崎聡子は腹立たしげである。
「まあ、女房も仕事があるからね。そう無理も言えない」
「でも、体に悪いわ。ちゃんと食べるものは食べないと」
「大丈夫。食べてるよ」
と、辻山房夫は肯《うなず》いて見せた。
二人の間にある電話が鳴る。すぐに山崎聡子が取った。
「——はい。——ちょっとお待ち下さい」
聡子は、少し冷ややかな感じで言って、受話器を辻山の方へ差し出した。
「辻山さん。奥様から」
「あ、そう。ありがとう。——もしもし」
辻山房夫は三一歳。年齢の割に少し頭が薄くなりかけているのを除けば、まあごく当り前の(ということは、少しくたびれた印象の)サラリーマンである。
〈K事務機株式会社〉の総務に勤めて七年。——平社員のままでいることに、別に何の劣等感も抱いていない。
おっとり、のんびり、というのが生まれつきの性格で、死ぬほど働いてまで、「長」の字を名刺に印刷してほしいとは一向に考えていないのである。
隣の席で、そんな辻山の呑《のん》気《き》ぶりを、やや苛《いら》々《いら》と眺めているのが山崎聡子。二八歳になる独身の聡子は、この四年間、辻山と仕事上のパートナーである。
もちろん、辻山の方が先輩なのだが、今ではすっかり聡子が辻山を「見守る」という関係になってしまっている。
なかなか端正な顔立ちの聡子だが、性格的に何でも思ったことをポンポン口に出すのと、それに(当人の見解によると)何とも時代遅れなグレーの事務服のおかげで、ひどく老けて見られるのが大いに不満である。
——〈K事務機〉の事務服が時代ものなのは、社長がケチで、従って、その下の部長、課長、みんながケチだからだ。
当然、月給だって喜んで出しゃしない。
噂《うわさ》によると、この〈K事務機〉の社長、倉田は、毎月月給日になると、社員に支払う給料の額がどうしてこんなに多いのかと涙する、ということだった……。
「——うん。今日はいつも通り帰るよ。——ああ、それじゃ」
と、辻山房夫は電話を切った。
「——奥様、何て?」
と、聡子が訊《き》く。
「うん? ああ、別に大したことじゃないんだ。帰りの時間が分ると、よく待ち合せてスーパーで買物して帰るもんだからね」
「幸せね、奥さん」
と、聡子は伝票を束ねながら言った。
「どうかな。こんな安月給の亭主じゃね」
「でも、問題は人間でしょ。お金じゃ代えられないわよ」
と、聡子は言って、「奥さん、何ていったっけ? 京子さん?」
「洋子だよ。太平洋の〈洋〉」
「洋子さんか」
聡子は肯《うなず》いて、「一度お会いしたいわ」
と、言った。
辻山が一瞬ドキッとしたことには、幸い山崎聡子は気付かなかった……。
「ね、涼《りよう》子《こ》!」
と呼ばれて、水野涼子は足を止めた。
五月の午後、明るい坂道を駆け下りて来るのは、同じS大学二年生の池山リカ。
「リカ! 走らなくていいわよ。待ってるから」
と涼子は大声で言った。
「走ってんじゃないのよ! 止まらないだけなの!」
運動神経がまるきりゼロの池山リカは、ドタドタと涼子めがけて坂を駆け下りて来る。
「危い! リカ!」
「止めて! どいて!」
と、矛盾したことを言って、リカは涼子に抱きついた。
「キャッ!」
二人して引っくり返りはしたものの、リカの重さは涼子が大分引き受けていたので、二人とも、多少スカートが埃《ほこり》になったくらいですんだ。
「——ああ、びっくりした」
と、水野涼子は立ち上がって、リカの手を取って立たせると、「けが、しなかった?」
「うん……。ごめん」
と、池山リカは大きな目をパチクリさせている。
自分の方がびっくりしているのである。
「本当に、リカって……」
と、涼子は仕方なしに笑う。
大学での一番の仲良しである。こんなことで、いちいち腹を立ててはいられない。
「何かあったの?」
と、涼子は落した教科書を拾いながら言った。
「聞いた? 久《く》仁《に》子《こ》のこと」
「久仁子?」
と、並んで歩き出しながら、「久仁子って……。ああ、金田久仁子のこと、一年生の?」
「そうそう。知ってるでしょ? 同じ演劇部だもんね」
「でも、あの子、あんまり練習とか出て来ないわよ」
と、涼子は言った、「あの子がどうかしたの?」
水野涼子、池山リカ、どちらも二〇歳。
若さが匂《にお》うような、この明るい日射しの下でいかにも快げな二人である。——まあ外見上、涼子がほっそりして、リカが多少太めという違いはあるにしても、どっちもまぶしいような「青春」のエネルギーを感じさせる。
「ちょっと相談があるの」
と、リカが言った。「時間ある?」
「うん……。そう長くなくていいのなら」
と、涼子は腕時計を見て、「家庭教師があるから」
「すぐすむよ」
「じゃ、ケーキ一つだね」
というわけで……数分後には二人の前にケーキをのせた皿が置かれていた。
「——妊娠?」
涼子がスプーンを持つ手を止めた、「久仁子が?」
「そう。で、泣きつかれちゃって……。もし学校にばれたら、当然、親にも連絡行くしさ。何とかしなきゃ、ってわけ」
と、リカが肯《うなず》く。
「そう」
涼子は紅茶をゆっくりと飲んで、「——でも、どうしてリカが、あの子のために?」
「あの子、高校の後輩なの」
「へえ。知らなかったわ」
「同じバレー部にいてね。やっぱり、あんまり真《ま》面《じ》目《め》に出て来る子じゃなかったけど……。ま、一応先輩としては、放っとくわけにもいかなくてさ」
リカはあっという間にケーキを食べてしまって、何だか物足りない様子である。
「じゃ、手術代、集めるの?」
「それしか仕方ないでしょ」
「だけど、男の子は? 相手がいるわけじゃない」
と、涼子は言った。
「それがさ、家庭持ち」
「じゃ……不倫ってこと?」
「養子で、奥さんに頭が上がらないって男なんだって。同情して、つい……。でも、そんな言いわけ、怪しいと思うけどね」
「だから、その男はお金も出さないってわけね。——情ない!」
と、涼子は首を振った。
「本当でも嘘《うそ》でも、情ないよね。でも、そんな男、期待してたってだめだと思うんだ」
「うん、そうだね」
「ね、力貸して。涼子は先生の受けもいいしさ。そういうことしてても、ばれないでしょ」
「そうねえ……」
涼子は、何やら考え込んでしまっている。
「——あ、真《さな》田《だ》君」
と、リカが言った。
「え?」
涼子が店の入口の方を振り向くと、同じ二年生の真田邦《くに》也《や》が、入って来たところだった。
「真田君!」
と、リカが手を振る。
「やあ」
と、真田は二人のテーブルへとやって来て、「大事な話かい?」
「そう」
と、涼子は肯いて、「男は許せない、って話をしてたの」
「怖いね」
と、真田は笑った。
「ケーキ食べに来たの?」
リカに訊《き》かれて、
「いや、ゼミの会合のことで、五、六人集まるんだ。ここでやると女の子が必ず来るからさ」
と、店の中を見回し、「僕が一番乗りか。奥のテーブル、取っとかなきゃ。それじゃ」
店の奥へ入って行く真田を見送って、
「真田君って、いいよね」
と、リカが言った。「そう思わない?」
「そう?」
と、涼子はまだケーキを小さくフォークで切っては食べている。
「やさしそうだしさ。涼子、ああいうタイプ嫌い?」
「別に、好きでも嫌いでもない」
と、肩をすくめる。
「涼子って……」
「うん?」
「どうなってんの? いないわけないのに、男が」
「決めないでよ」
と笑って、「焦っても仕方ないでしょ」
「余裕あるご発言」
と、リカはおどけて、「美女はいいね」
「何言ってんの。——ね、そのこと、何をすればいいの?」
「助けてくれる? ありがとう! 恩に着る!」
「リカに恩に着てもらっても、あんまりメリットなさそうね」
「あ、言いにくいこと言って!」
二人は一緒に笑った。
十五分ほど話をつめて、二人は店を出ることにした。
「私、クリームが指についちゃった。手洗って来る」
と、リカが化粧室へ行く。
涼子は、チラッと奥のテーブルを見た。真田が文庫本を開いて、一人で座っている。
涼子は、足早に歩いて行くと、
「遅くなるの?」
と、小声で訊いた。
真田は顔を上げて、やはり小声で、
「いや。ここで一時間くらい話すだけさ」
と答えた。
「良かった」
涼子は微《ほほ》笑《え》んだ。「今夜のおかず、買っちゃってあるのよ。ちゃんと帰って来てね」
「うん、分ってる」
「じゃ、後で。——あなた」
と、小さくウインクして、涼子はレジへと歩いて行った。
「——ただいま」
辻山房夫は、アパートのドアを開けると、声をかけた。
もちろん——部屋の中は真っ暗で、何となく湿っぽい匂いがこもっている。
「やれやれ……」
辻山は、明かりを点《つ》けると、敷きっ放しの布団へ目をやった。
また今夜も、冷え切った布団で寝るのか。一人寂しく。
辻山は、欠伸《あくび》をした。晩飯は駅前のラーメン屋ですませて来た。そこが一番安くあがるのである。
カーテンを引き、ネクタイをむしり取ると、
「——そろそろ買って来ないとな」
と、かなりヨレヨレのネクタイを眺めて呟《つぶや》く。
辻山は、別に女房に逃げられたというわけではない。逃げられようにも、もともと女房なんて存在しないのだから。
トントン、と玄関のドアを叩《たた》く音。
「誰?」
「私よ」
と、「洋子」の声がする。
「ああ……」
辻山は玄関へ下りて、チェーンを外し、ドアを開けた。
「忘れなかったでしょ、電話するの」
と、隣の部屋の主婦が言った。
「はいはい」
辻山は、財布を取って来ると、二千円を渡して、「またよろしく」
と言った。
「また、ちゃんと電話してあげるわよ、あなた」
と、隣の主婦は笑って、二枚の千円札をエプロンのポケットへしまい込んだ。