9 償いの品物
それは、何だか奇妙な光景だった。
床には倒れたワゴン、そして料理が散らばった中に、黒光りする拳銃が落ちている。
警察がやって来るまで、そのままにしてあるのだ。
そして、そこをよけてデザートのワゴンがテーブルのわきへやって来ると、
「デザートはどういたしますか?」
——そう訊《き》かれたってね。
涼子と邦也は、顔を見合せた。およそ、のんびりとケーキだのシャーベットだの選んでいる雰囲気ではない。
「君——どうする?」
「そうね……。コーヒーだけいただこうかな」
と、涼子が言うと、マネージャーがやって来た。
「——どうも騒がせて」
と、マネージャーが低い声で言った。
「別にいいですけど……。大変ですね」
と、邦也も小声で言った。
「このテーブルの支払い、安東さんが持つからってことで……」
「安東さん?」
「あの人さ」
二人は、あの白いスーツの男の方へ目をやった。——落ちついた様子で、食事を続けている。隣の女は、
「私、デザート三つ食べようかな。ねえ、どう思う?」
なんて呑《のん》気《き》に話しかけていた。
「とんでもない」
と、邦也は言った。「ちゃんと僕が払いますよ」
しかし、邦也の先輩に当るマネージャーは、
「払ってくれると言ってるんだ。その通りにしてもらえ」
と、かがみ込んで、「あの人には逆らわない方がいい」
涼子は、ついまたあの白いスーツの男——安東の方を見てしまった。同時に、安東が顔を上げて涼子を見る。
「——どうぞ、デザートも、お好きなだけ」
と、安東が言った。「ほんのお礼の気持ですから」
邦也が、小声で、
「何か頼んだ方が良さそうだね」
「そうね……」
と、涼子も肯《うなず》いたのだった。「じゃあ……このムースと、フルーツケーキ」
オーダーをすませて、ホッと息をつく。
こんなに緊張してデザートを注文したのは初めてのことである……。
そこへ、警官が何人か入って来た。マネージャーの説明を聞いているのは、なぜか頭に包帯を巻いた中年男である。
マネージャーの話に肯くと、
「——皆さん」
と、店内の客に向かって言った。「ご迷惑かと思いますが、これは殺人未遂事件と考えられます。ぜひ捜査にご協力を」
「そんな必要はないんじゃないか」
と、奥のテーブルで言ったのは、もちろん安東である。「やあ、室井さん」
その刑事は、ゆっくりと店の奥の方へとやって来た。
「悪運が強いようだね」
と、その刑事は言った。
「天は正直者を助けてくれるのさ」
と、安東は言い返し、「そこのお嬢さんを通してね」
涼子は、刑事に見られて、あわてて目を伏せた。
「——室井さん」
と、安東は言った。「俺を殺《や》ろうとした奴の顔なら、こいつらが見てる。何も、店のお客たちの手を煩わせることもないだろうさ」
「ちゃんと教えてくれるかな」
「話すとも。好きなのを連れてってくれ」
室井という刑事は、ちょっと苦々しく笑って、
「こっちが見付けたときにゃ、そいつはもう息の根が止まってるってことにならなきゃいいがね」
「そいつは俺にも分らねえな。何ごとも天の配剤さ」
と、安東は言ってからニヤリと笑い、「ところで、どうだね、女にフライパンで殴られたご感想は」
涼子は、邦也と顔を見合せ、改めてその刑事へ目をやった。——これが、「あの刑事」か!
「小田切和代も、可《か》哀《わい》そうな女さ」
と、室井は言った。「今ごろ、もう海の底ってことはないだろうな」
「あの女は殺人犯だぜ。捜してるのは、そっちだろ」
「今の言葉、憶《おぼ》えとくぞ」
室井の口調が、ふと厳しくなる。「あの女は殺させんぞ。島崎の奴は自業自得だ。和代はちゃんと罪を償ってやり直せる女だ」
室井の言葉に、安東の子分の一人が、
「島崎の兄貴のことを——」
と、真赤になって立ち上がる。
「やめろ」
安東の鋭い声が飛んだ。
子分が渋々椅《い》子《す》に腰を落す。——室井は安東へ、
「いいな。あの女は殺すな」
と、念を押した。
「くどいね。一度聞きゃ分る」
室井が合図すると、警官たちが、倒れたワゴンや、落ちている拳《けん》銃《じゆう》の写真をとったりし始めた。
何となくホッと息をついて、運ばれて来たデザートに涼子が手をつけると、
「失礼」
と、室井刑事が声をかけて来た。「どんな様子だったのか、聞かせて下さい」
涼子が、起ったことを説明すると、室井は肯いて、
「分りました。——安東は命拾いしたわけだ。四人もついてて、一人もそのウエイトレスを怪しいと思わなかった」
子分たちが、いやな顔でジロッと室井を見る。
「いや、どうも」
と、室井は立ち上がった。
「あの——」
涼子は我知らず、声をかけていた。「あなたを殴った女の人って……。どんな人だったんですか」
室井は、ちょっと面食らった様子だったが、
「——いい女ですよ。どんな奴でも、必ず心を入れかえてくれると信じていた。それが結局、あんな悲劇を招いたんですがね」
室井は、軽く会釈して、「そうそう。——連絡先とお名前を一応」
と、手帳をとり出した。
「——変な夜だったわね」
と、涼子は暗い部屋の中で言った。
「うん……」
手探りでベッドへ潜り込むと、涼子は、大きく体を伸した。
「あの刑事……。なかなか貫《かん》禄《ろく》あったじゃないか」
「そうね。でも、小田切和代って殺人犯のこと、本当に心配してるのね。私、感激したわ」
「あの殺された男が、安東って奴の『兄貴分』だったんだな」
「そうらしいわね。ああいう世界って、必ず仕返しするんでしょ?」
「よく知らないけど……。そうだろうな。だからあの刑事も、あんなに念を押してたんだ」
「でも——」
「あの安東って奴、見るからに人殺しなんて、何とも思ってないって感じだ。きっと、その女も……」
「——もうやめましょ」
と、涼子は寝返りを打った。
女——小田切和代という女のことが、何となく、他人でないように感じられる。
いや、男と暮していても、自分のように楽しく日々を送っている「二人」と、憎み合い、ついには殺し合う「二人」——しかも、そうなるまで、一緒にいずにはいられなかったという「二人」……。
色んな「二人」が、この世の中にはいるのだ。
「——邦也」
と、涼子は言った。「もう寝た?」
「いや……」
涼子は、邦也のベッドへと滑り込んで行った。
「抱いて」
と囁《ささや》くと、邦也の唇に、そっと自分の唇を押し当てる。「——明日、寝不足になっても、我慢してね」
「ああ」
邦也は、涼子を抱きしめた……。
涼子は、大欠伸《あくび》した。
「——涼子」
と、隣へやって来たのは、リカ。
「あ、リカか」
と、涼子は言って、「ちょっと寝不足なの」
「そりゃ、新婚さんじゃね」
と、リカが冷やかす。
午後の講義。——さぼる学生も多いので、教室はガラ空きだが、それでも、涼子は周囲を見て、
「リカ。しゃべってないでしょうね」
と、小声で言った。
「大丈夫。——しゃべりたくても、もっと詳しいこと聞かないと、しゃべりようがない」
「ちょっと……」
「信用してよ。こっちは、久仁子のことでも涼子に頼ってるしさ」
妊娠したという一年生だ。
「そうね。——あっちはどうなってるの?」
「うん。涼子の口ききで、ずいぶんお金、集まってるの。もう少しよ」
「そう……」
もちろん——堕《お》ろしてしまえればいいというものではない。
女の体と心には、消しがたい傷が残るのである。それを「不道徳」と非難しても始まらないだろう。
「今日はちゃんと話してね」
と、リカが肘《ひじ》でつつく。
「うん……」
涼子は、口をすべらしたことを後悔していた。——何と説明しよう?
真田邦也と結婚している、と正直に話せば、一日の内に大学中に知れ渡るだろう。
「——あ、先生よ」
と、涼子は少しホッとして言った。
中年の、いかにもくたびれた感じの講師は、ガランとした教室を見回して、
「今日も静かでいいですね」
と、皮肉を言った。「テストのとき、悔むことになるんですけどね」
「——陰険」
と、リカが呟《つぶや》く。
「じゃ、始めます」
と、本を開いて、「ええと……。この前の続きで——」
バタン、と教室のドアが開いた。講師は腹立たしげに、
「遅れて来て、何だね! もう少し静かに——」
と、言いかけて……。
どう見ても学生ではない。
涼子は青くなった。ゆうべのレストランにいた、安東の子分の一人である。
何やら大きな紙袋をさげていて、教室の中を見回していたが、
「——いたいた」
ドタドタ足音をたてて、涼子のそばへやって来ると、「ゆうべはどうも」
と、頭を下げる。
「あ、いえ……」
と、あわてて頭を下げ返す。
「ゆうべ汚れたお洋服の代りを、と、親分がおっしゃいまして」
「は?」
「親分のご指示通りに買って来ましたんで。もしお気に召さなけりゃ、とっかえてくれるってこってす」
机の上に、紙袋が置かれる。
「あの……結構です、そんな……。クリーニングに出せば、落ちる汚れですから」
「いや、受け取っていただかないと困りますんで。持って帰ったりしたら、親分に殺されちまいます」
涼子は一瞬ドキッとした。
「では、これで。——お邪魔しやした」
「いいえ……」
ドタドタと足音をたてて、出て行く男——どう見てもヤクザ。
教室の中が、しばし静まり返っていたのは当然だろう。
「——見て! シャネルのスーツ!」
と、袋を覗《のぞ》いて、リカが声を上げた。「凄《すご》いじゃない! 何十万よ」
「リカ……。やめて」
と、涼子はあわてて紙袋を手にすると、「先生——すみません」
と言って、教科書を引っつかみ、教室から、駆けるように出て行った。
唖《あ》然《ぜん》として見送っていた講師は、
「——近ごろの大学は、色々変わったことがありますね」
と、ため息をついて、「では……」
「先生、私もちょっと——」
と、リカも立ち上がって、「用を思い出したんで」
学生が「用を思い出した」もないものだが、リカも教室を出て行き、やる気の失せた講師も、
「じゃ、僕も失礼」
と、出て行ってしまったのだった……。