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シングル10
日期:2018-06-28 21:08  点击:297
 10 一時的別居
 
「——困ったわ」
 
 と、涼子はため息をついた。「どうしたらいい、これ?」
 
 そう訊《き》かれても、邦也の方だっていい考えなどあるわけがない。
 
 例の安東の子分が置いていった「シャネルのスーツ」の袋を前に、二人とも、途方にくれるばかりである。
 
「リカだって、どういうことか説明しろってうるさくて。いつまでも逃げてられないわ。おまけにあんなことがあって、大学中の評判になってるし……」
 
 涼子と真田邦也は、大学から少し離れたレストランで夕食をとっていた。
 
 できるだけ外食はしないようにしている二人だが、何かと忙しいと、ついそうなる。特に今夜の涼子は、食事の仕度なんかする気分ではなかった。
 
 もちろん、ごく普通のレストランで、決して高級店というわけじゃない。
 
「僕の方も困ってるんだ」
 
 と、邦也が言った。「何しろ辻山さんの頼みも、そうむげに断れないしね。いい人なんだ」
 
「分るけど……。あのマンション、辻山さんに貸したら、私たち、どこへ行きゃいいのよ?」
 
「うん……。そこなんだ」
 
 と、邦也はため息をついた。
 
 涼子も、邦也と毎日暮しているのだ。邦也が考えていることぐらい、見当がつく。
 
 辻山という男にマンションを貸すなんてわけにはいかない。上京して来た母親が何と言い出すか——。
 
 それに、結婚していることも、今はまだ母親に知られたくない。だから、母親が来ている間、涼子にどこかへ行っていてほしい……。
 
 それが、おそらく邦也の本音である。しかし、そう言えば涼子が怒るに決まっているから、口に出せない。
 
「凄く高いんだろ、このスーツ」
 
 と、邦也が言った。
 
「そうね。安く見ても三十万かな」
 
 と、涼子は言った。「でも、返すっていってもね……」
 
「それで怒らせたりしたら、怖いしな。もらっとくしかないんじゃないか?」
 
「そうね」
 
 と、涼子は言った。「リカに何て説明するかなあ」
 
「それより——」
 
 と、邦也は言いかけて、ためらった。
 
「なに?」
 
「いや……。差し迫った問題があるからさ、その……」
 
「私のことね」
 
「僕らのことだ」
 
「同じでしょ」
 
 と、涼子は言った。「でも、難しい問題じゃないわ。私と結婚してるって、お母さんに話す。それしかないじゃない」
 
「うん……。それはそうなんだけど……」
 
「じゃあ、何なの?」
 
 分っていても、つい意地悪く訊《き》いてみる。
 
「つまり、その……話はするけど、いきなり二人で住んでるってのを見たら、きっと、お袋、カッとなると思うんだ。だから、順序立てて、僕が君のことを話し、それから君を紹介して——」
 
「妻です、って? 同じことよ。どっちにしろ、お母さんを一度は怒らせることになる。そうでしょ?」
 
「そう……だね」
 
 と、邦也は煮え切らない。
 
 涼子は苛《いら》々《いら》して来た。
 
「はっきり言ったら? 私に出てってほしいのね」
 
「いや、そんな……」
 
「じゃ、何なの?」
 
「つまり、その……一時的にマンションを留守にして……」
 
「同じことでしょ。私がいちゃまずいってことに変わりはないわ」
 
 涼子の言葉に、邦也も何とも言い返せない。
 
「もし、私がお母さんのいる間、マンションを出てたとする。そしたらあなた、お母さんに、結婚してるってこと、隠し通すつもりでしょ」
 
「いや、ちゃんと話すよ」
 
 とは言ったが、いかにも自信なげである。
 
「当てにならないわ」
 
 涼子は、カッカしていた。「いいわよ。いくらでも、あなたの好きなだけ、マンションを出ててあげる! その代り、二度と戻らないかもしれないから、そのつもりでいてよね!」
 
 叩《たた》きつけるように言うと、涼子は立ち上がってさっさとレストランを出て行く。
 
 残った邦也が、ため息をついて、頭をかかえる。
 
 一人の男が、涼子の後から急いでレストランを出て行ったことに、邦也はまるで気付かなかった……。
 
 
 
 トントン。
 
 ドアを叩く音で、それが辻山だと見当がつく。
 
 しかし、一応は用心しなくてはならない。
 
 小田切和代は、そっと玄関の方へと近寄って行った。すると、
 
「辻山です。いますか?」
 
 と、タイミングを見はからって、声をかけて来る。
 
 和代はチェーンを外した。
 
「——どうも」
 
 と、辻山は中へ入って来て、「あれ? 山崎さんは?」
 
「まだです」
 
 と、和代は言った。「たぶん、途中で買物して来るんじゃないですか? 上がって下さい」
 
「はあ」
 
 辻山は、上がり込んで、「毎晩、悪いですねえ」
 
 と言った。
 
「いいえ」
 
 ——山崎聡子の提案で、少しでも「本物の夫婦」らしく見せるために、夕食は毎晩ここへ寄って取っているのである。
 
「もう仕度、できますから、座ってて下さいな」
 
「はあ」
 
 二人は、ちょっと顔を見合せて笑った。
 
「——山崎さんに叱《しか》られちまうな」
 
「そうですね。でも、何だか照れくさいわ、やっぱり」
 
 と、和代は再び台所に立つ。
 
 聡子は、
 
「ちゃんと夫婦らしい口をきかなきゃだめじゃないの!」
 
 と、いつも二人に文句を言っているのだが、人間、そう突然に、親しげな口がきけるものではない。
 
「慣れとかないと、いざってとき、困るわよ」
 
 という聡子の言葉は正しいと思うのだが、二人きりだと、ついていねいな口をきいてしまう。
 
「お部屋の方のめど、つきまして?」
 
 と、和代が鍋《なべ》の様子を見ながら言った。
 
「捜してるんですがね。なかなか適当なのが見付からなくて」
 
 と、辻山は首を振って、「邦也君の所が借りられるといいんですけどね」
 
「でも、あんまり無理は言えないでしょ」
 
 と、和代は言った。「あちらにも都合のあることですし……。あ、ちょっと味を見て下さい」
 
「はあ」
 
 辻山は立って、台所へ行った。「——うん、旨《うま》い! おいしいですよ」
 
「そう?」
 
 和代は嬉《うれ》しそうに言った。「自信なくて。——あなたのお父様に何を出したらいいのかしら」
 
「親父は何でも食べます。それに、この味なら本当に——」
 
「そう」
 
 和代は、ちょっと間を置いて、「——島崎は、何を食べても『おいしい』なんて言ったこと、なかったわ」
 
 と言った。
 
「もう忘れることですよ」
 
 と、辻山は言った。
 
「ええ……」
 
 和代は、ちょっと肯《うなず》いて、「そう思うんですけどね……。もちろん死んで悲しいなんて思いません。あの男は、どうしたってまともな死に方はしない人だったんです」
 
「あなたが罪を犯したわけじゃない。奴は自殺したんです。そうですよ」
 
 辻山の言葉が、和代の胸にしみた。
 
「ありがとう……」
 
 と、和代は辻山を見て言った。
 
 ガステーブルの前で、二人はじっと立っていた。
 
 たぶん、二人がこんなに間近に、向き合っていたことはなかっただろう……。
 
「——ただいま!」
 
 と、ドアが開いて、山崎聡子が大きな包みをかかえて入って来た。
 
「僕が持つよ」
 
 辻山があわてて玄関へと駆けて行った。
 
「お願い。——冷凍食品があるの」
 
「冷凍庫ね。分った」
 
 袋を開けて、中のものをせっせととり出している辻山を、和代は眺めていた。
 
 いい風景をぼんやりと見ているときのような、快い感覚がある。
 
 恋だの愛だのと、互いを縛るのでなく、「他人である」ことを前提にして、こうして男を見ていられる……。
 
 それは何という安心感だったろう!
 
 こんな人もいるのだ。世の中には。
 
 和代にとって、この平凡な勤め人は、大きな驚きだった……。
 
「どう? ちっとは夫婦らしくやってる?」
 
 と、聡子が言うと、
 
「ああ。——やってるよ。なあ、和代」
 
「ええ、あなた」
 
 と答えて、和代は微《ほほ》笑《え》んだ。
 
 
 
 カッカしながら夜の道を歩いていて……涼子は、足を止めた。
 
 手にボストンバッグ。——身近なものだけ詰めて来たが、洋服だの下着だの、マンションに残したままだ。
 
 邦也が何とか片付けるだろう。そこまでやってやることはない。そうよ!
 
 とはいえ……。
 
 もう一度、邦也と話し合えば良かっただろうか?
 
 しかし、涼子は邦也と決定的にケンカしてしまうのがいやだったのだ。やっぱり邦也のことは好きである。
 
 しかし、結婚となると——どうなんだろう? やっぱり、邦也はまだ若すぎたのだろうか。
 
 ——今ごろ、きっとマンションへ戻って、邦也は涼子がいないので、焦っていることだろう。それとも、ホッとしているかしら。
 
 いやいや、そこまで言っては可《か》哀《わい》そうだ。邦也は、涼子を愛している。それは確かなのだから……。
 
 すると——車が近付いて来て、スッと涼子のわきに停《と》まった。涼子はびっくりして退《さ》がった。
 
 車といっても——目を丸くするような、長い車体のリムジン。とてつもなく大きく見える。
 
 スーッと窓が下りると、
 
「乗りませんか」
 
 と、その男が言った。
 
「え?」
 
「命を助けてもらった男です」
 
 サングラスを外すと、安東の顔が現われた。
 
「あ——どうも」
 
 と、涼子は言った。
 
「どうぞ」
 
 ドアが開く。——しかし、涼子はためらった。
 
「ご心配なく」
 
 と、安東は言った。「いくらヤクザでも、命の恩人に妙な真《ま》似《ね》はしませんよ。信じて下さい」
 
「はあ……」
 
 涼子は、何だか自分でもよく分らない内に、そのリムジンに乗り込んでいた。
 
 向かい合って座れる座席。——間にちゃんとテーブルもある。
 
「凄《すご》い車」
 
 と、素直に驚くと、
 
「不便なもんですよ」
 
 と、安東は言った。「見栄で乗ってるが、こうでかくちゃ、狭い道には入れない。急なカーブは曲がれない。全く、日本向きじゃないです」
 
 その言い方がおかしくて、涼子は笑った。
 
「おや、笑ってくれましたね」
 
 と、安東は愉《たの》しげに言った。「あの室井という刑事から何か聞いていますか」
 
「いえ……」
 
「まあいい」
 
 と、安東は肯《うなず》いて、「あなたのお役に立ちたい。それだけです」
 
「役に?」
 
「そう。——結婚はしたものの、彼の母親が上京して来る。それで二人は冷い戦争。そうでしょう?」
 
「どうしてそんなこと——」
 
 と、涼子は唖《あ》然《ぜん》とした。
 
「情報集めは得意でしてね」
 
 と、安東はニヤッと笑って、手もとのボタンを押した。
 
 パソコンのディスプレイがスッと現われる。
 
「あなたがどうしたらいいか、一緒に考えましょう」
 
 と、安東は言った。

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