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シングル14
日期:2018-06-28 21:11  点击:294
 14 二つのホテル
 
 
 ビジネスホテルの小さな部屋。
 
 しかも、換気もよくないのだろう。小田切和代が風《ふ》呂《ろ》に入っている、その湯気が、細く開けたドアから洩《も》れて来て、窓ガラスがくもっている。
 
 辻山は、狭いベッドに腰をおろして、何となく落ちつかなかった。——やはり、和代が今、すぐそこでお風呂に入っていて、ドアが開いているというのは、刺激的な状況に違いない。
 
「——ねえ」
 
 と、和代が言った。「聡子、何だって?」
 
 もちろんドアの細い隙《すき》間《ま》から、声だけが届いたのである。
 
「うん、大丈夫らしいよ。あの連中がウロウロしてるんで、誰か近所の人が一一〇番したらしくて、パトカーも来たって」
 
 辻山は、バスルームの方へ背を向けたままで言った。
 
「じゃあ、良かったわ」
 
 と、和代がホッとした様子で、「他に何か言ってた?」
 
「君が運の強い子だって。きっと何もかもうまく行くわ、と伝えてくれってさ」
 
「聡子らしいわ」
 
 と、和代がちょっと笑った。「——ああ、少しのぼせちゃった。ドア、開けてもいい?」
 
「うん、構わないよ……」
 
 辻山は、こう続けようかと思ったのだ。もう帰るから、僕は、と。
 
 しかし、結局辻山は言わなかった。言葉の方が遠慮でもしているかのようで、出て来ないのである。
 
 ドアが開くとき、少しキーッときしむ音がした。——辻山は、じっと正面の壁を見つめていた。
 
 もちろん——そうだ。山崎聡子とも約束したのだ。決して和代に手は出さない、と。
 
 しかし、今、和代は風呂上がりで、もちろん——いや、バスタオルを体に巻きつけてはいるだろうが……。
 
 和代の方が、辻山に残ってくれ、と頼んだのだ。子供ではない。ああ言った以上、辻山が一緒に泊ることだって、考えていただろう。
 
 それに甘えていいってものではないが、しかし……。
 
 暑いのか、フーッと息をつく、その息が辻山の首筋に感じられるほど近かった。
 
「辻山さん……」
 
「は、はい」
 
 と、あわてて返事をする。
 
「私……今夜は一人になりたくないの」
 
 と、和代が、反対側からベッドに座って、辻山の体が上下に揺れた。
 
「あのね……」
 
「聡子との約束は知ってるわ」
 
 と、和代は言った。「でも、お互い、子供じゃないし……。私、そうしたいの」
 
「和代——さん」
 
 と、辻山は言った。
 
「和代って呼んでいいのよ」
 
「どうでもいいけど、呼び方は……。ともかくね、今夜のことで、僕に礼をしようというつもりでそう言ってくれるんだったら、ありがたいけど、その気持だけでいいんだよ。君が無事だった、ってだけで、僕は充分に嬉《うれ》しい。——君は、男なんか、もうこりごりなんだろ」
 
 辻山の肩に、和代の手がかかった。辻山がそっと振り向く……。
 
 バスタオルを着けただけの和代の肌は、薄いピンクにほてって、つややかに光っている。
 
「——あなたのことを知る前だわ、それは」
 
「僕なんか……つまらない男だよ」
 
「そんなことない。私——もっと早くあなたを知っていたら、と思うわ。悔しいの。きっと、島崎を殺すなんて馬鹿なこと、せずにすんだわ」
 
「和代……」
 
 肩に置かれた白い手に、辻山は自分の手を重ねた。
 
「お願い」
 
 と、和代は言った。「力一杯抱いて。それだけでもいい」
 
 ——ここまで来て拒めるわけはない。
 
 辻山は、こわごわ(?)和代の方へ体を向けると、そっと抱きしめた。ハラリとバスタオルがとれて落ちる。
 
 ベッドは小さいが、二人にとっては充分だった。辻山は和代を抱いて、もちろん、「それだけ」ではなかったのである……。
 
 
 
 六本木のレストラン。
 
 深夜まで開いているとみえて、涼子と安東が食事をしている間にも、次々と新しい客が入ってくる。
 
「——これからどうします」
 
 と、安東がパンをちぎりながら言った。
 
「え?」
 
 涼子は、ナイフとフォークを持った手を止めた。
 
「もうこんな時間だ。別荘へ着いたら、眠る時間もなくなりそうですよ」
 
「ああ……。そうですね」
 
「どこかホテルへ泊りますか」
 
 安東の言葉に、涼子が一瞬ギクリとすると、
 
「いや、ご心配なく」
 
 安東は笑って、「ちゃんと一人で泊ってもらいますよ。こっちもミキの奴に引っかかれたくない」
 
 涼子も照れ隠しに笑った。
 
「何だか、すっかりご迷惑かけたみたい」
 
「それはこっちですよ。妙なことに付合せちまった」
 
 安東は、食事を終えて、ウエイターを呼んだ。「——コーヒーだ。ブラックで」
 
「私、紅茶。——眠れなくなりません?」
 
 と、涼子は言った。
 
 安東は何となく不思議そうな顔で涼子を見ていたが、
 
「おい」
 
 ともう一度ウエイターを呼んだ。「——俺はミルクをくれ、ホットミルクだ」
 
「はあ」
 
 ウエイターが面食らっている。
 
 涼子もびっくりした。当の安東は何だか愉《たの》しげに、
 
「いや、こんな風だとね、やっぱりコーヒーもブラックでないと、格好がつかないでしょう。ちっとも好きじゃないんですよ。苦いばっかりで、あんなもん」
 
 涼子は、フッと笑ってしまった。
 
 不思議だった。——きっと恐ろしい男なのだろうが、こうしていると、目つきもとてもやさしい。
 
「いや、お嬢さん、あんたは面白い人だ。おっと失礼。奥さん、でした」
 
「ええ」
 
 涼子は少し顔を赤らめた。「——安東さん」
 
「何です」
 
「一つ、うかがってもいいですか」
 
「お答えできることなら、答えます」
 
「あの女の人——小田切和代さんっていう人、本当はあなたも殺したくないんじゃありませんか」
 
 安東の顔から笑みが消えた。涼子は、いけないことを訊《き》いたかしら、と思った。どうしよう?
 
「——怒りました?」
 
 と、涼子はこわごわ言った。
 
「いや、そうじゃありません」
 
 安東は首を振った。「確かに、その通りです」
 
「やっぱり。何となくそう思えたものですから」
 
「あの女には、強くひかれるものがあります。——頭もいい。度胸もある。それに……何というか、『情の濃い女』とでもいいますかね」
 
「何となく分ります」
 
「死なせるにゃ惜しい、と思っています」
 
「それなら——」
 
「いや、結局、やはりこっちの手で始末することになるでしょう」
 
 と、安東は首を振った。「組織を守るためです。一人を見逃したら、もう誰も俺にはついて来なくなる」
 
「安東さん……」
 
「ご心配なく。あんたの目の前じゃやりたくないので、今夜は内心困ってたんです。あの禿《は》げ頭の刑事さんに感謝したいところですな。——いずれ和代はこっちの手に落ちる。しかし、それはもう、あんたとは何の係りもないことです」
 
 涼子は、何も言えなかった。
 
 自分が口を出せる世界ではないのだ。
 
 しかし——もちろん二人とも、涼子と小田切和代とが、まんざら無関係でもないことを、知るはずもなかったのである。
 
「どうです」
 
 と、安東が話を変えた。「新しくできた、〈ホテルF〉。泊ってみますか」
 
「あそこ……凄《すご》く高いんでしょ?」
 
 最近評判になっているホテルである。
 
「ご心配なく、請求書がそちらへ行くことはありませんよ」
 
 と、安東は微《ほほ》笑《え》んで言った。
 
 
 
 電話が鳴ると、邦也はあわてて手をのばした。
 
 きっと涼子からだ!——邦也は、ずっと寝る気にもなれずに起きていたのである。
 
「もしもし!」
 
 と、勢い込んで出ると、
 
「あ、真田……邦也さん?」
 
 男の声だ。
 
「そうですけど……」
 
「やあ、室井刑事です。頭を殴られた」
 
「あ——どうも」
 
 と、拍子抜けしてしまう。
 
「誰かから電話がかかるんですか?」
 
「あ、いえ、別にそういうわけじゃないんです。あの——何か?」
 
「ゆうべ一緒だった女子大生、涼子さんといいましたかね」
 
「え? ええ。涼子がどうかしました?」
 
「いや、実は、さっき例の安東と会ったんです。あのヤクザですね」
 
「憶《おぼ》えてます」
 
「あいつは、でかいリムジンに乗ってましてね。私はそのそばで奴と話をしたんですが……。真田さん、今、彼女はそこにいますか」
 
「——涼子ですか? いいえ」
 
「そうですか……」
 
「何か?」
 
「いや、リムジンの中に女がいて……。よくは見えなかったんですが、どうもあの涼子さんに似てると思ったんです」
 
「まさか!」
 
「いや、もちろんそうでしょう。どうも気になり始めると、止められない性格でしてね」
 
 と、室井は笑って、「じゃ、彼女によろしくお伝え下さい」
 
「はあ、どうも……」
 
 電話を切って、「——いくら何でも!」
 
 と、つい言っていた。
 
 涼子があの安東って奴と?
 
 そんな馬鹿なこと……。あるわけない!
 
 しかし——あのシャネルの服をプレゼントして来たことを思い出すと、邦也は急に不安になって来た。
 
 もし安東が涼子に目をつけていたとしたら? 涼子を脅して、自分の車へ無理やり——。
 
「どうしよう!」
 
 と、青くなる。
 
 涼子は今ごろ、あの安東って奴の手で手ごめにされているかも……。そう思うと、いても立ってもいられなくなる。
 
 室井って刑事に連絡しようか? でも、証拠があるわけじゃないし、警察だって、そんなことまでしてくれないかもしれない。
 
 といって、放っておくわけにも——。
 
 また電話が鳴り出した。パッと受話器をとって、
 
「もしもし!」
 
 ——少し間があって、
 
「何て大きな声を出すの」
 
 と、呆《あき》れた声がした。「そんなに遠くにいるわけじゃないよ」
 
「お母さん」
 
 と、邦也は息をついた。
 
「どうかしたの?」
 
「いや、別に。——今、家から?」
 
「〈ホテルF〉」
 
「え?——そんなホテル、できたの」
 
「何言ってんの。今、有名なんだろ、ここ?」
 
 邦也は、確かに〈ホテルF〉という名前は知っている。しかしそれは東京にあるのだ。
 
「お母さん……もう東京に?」
 
「そうだよ。こっちも旅館業だからね。一応今はやりのホテルへ泊ってみようと思って。明日、お昼でも食べに来ない?」
 
「あ、ああ……。いいね」
 
「じゃ、待ってるよ。〈1604〉だからね、部屋は」
 
「〈1604〉ね」
 
 あわててメモをとる。「——お母さん、辻山さんと一緒に来るんじゃなかったの」
 
「一緒だよ」
 
 と、真田伸子は言った。「もちろん部屋は別だけど」
 
「じゃあ、もう二人とも……」
 
「でも、あちらは房夫さんの所へ電話しても出ないんだって。夫婦でどこかへ行ってんのかね」
 
「そ、そうだね……」
 
「じゃ、明日お昼にね。待ってるよ」
 
「ああ……」
 
 邦也は、電話を切ると、頭の中が混乱の極。
 
 しばし、呆《ぼう》然《ぜん》と座り込んでしまっていたのだった。

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