16 ショックが一杯
ウーン……。
ちょっと唸《うな》って、辻山は寝返りを打つ。
「危いわ」
と、和代が言った。「ベッド小さいから、落っこちるわよ」
「うん……」
眠ってる。聞いちゃいないのだ。
和代は、しかし、目を覚ましていた。
小さなホテルの狭いベッドで、二人で寝ているのは窮屈だったが、構わなかった。
こんなに幸せだったことがあるだろうか?
和代は、辻山と愛し合った後、こっそり一人で泣いた。——悲しかったのではなく、幸せだったからである。
島崎との暮しの中で、こんな気持になったことは一度もない。島崎との生活は、「戦争」みたいなものだった。
確かに、和代は島崎を愛していたつもりだし、時として、二人の間は火山のように燃え上がることがあった。
でも、その後には、涯《はて》しない憎しみとののしり合いがつづくのが常だった。——それに比べてこの「平和」はどうだろう。
辻山は、逞《たくま》しい男ではないし、見た目もパッとしない。女に慣れているわけでもなくて、至って不器用な愛し方しかできない男である。
しかし、辻山の優しさが、どんな男の逞しさよりも和代を慰めてくれる。
こんな人がいたんだ。——和代は素直に驚いていた。
「ウーン……」
と、辻山がまた寝返りを打つ。
「危い……」
と言っている間に、ドサッ、と辻山の体は床に落っこちていた。
「辻山さん。——大丈夫?」
と、和代はのり出して床を見下ろしたが、辻山の方は、床に落ちたまま、そこで眠りつづけているのだった。
「呆《あき》れた」
と、呟《つぶや》いて、和代は笑ってしまった。
何て呑《のん》気《き》な人だろう。——きっと、人間を信じていられるから、こんな風に眠れるのだろう。
和代は、仰向けになって、天井を見上げた。
幻が——「二人の新しい暮し」という幻影が、天井の暗がりの中に浮かんでくる。
可能だろうか? この人と二人で、どこか遠い所へ行き、新しい暮しを始める。もしそんなことができたら……。
いや。——とても無理だ。
警察だけでなく、安東たちも和代を捜している。たとえ、当座は何とか逃げのびたとしても、いつか見付かってしまうだろう。
そのとき、和代だけでなく、辻山までがひどい目に遭わされることになる。
いけない。いけない。
この人に、そんな危険を冒させるわけにはいかない。
そうだ。初めの約束通り、「辻山の妻」の役を演じた後は、どこかへ一人、姿を消す。それが一番だ。
でも……それまでは。ほんの何日かのことであっても、この人の「妻」だ。
和代は、うつぶせになって、頭だけベッドの端から出し、床で寝ている辻山の、少し間の抜けた寝顔を見下ろした。
何時間でも——いや何日でも、こうして飽きずに見ていられそうな気がした……。
「——オス!」
ドアが開いて、涼子が立っている。
「やあ……。本当にいたんだ」
と、邦也は言った。「凄《すご》いホテルだな」
「凄いでしょ! さ、入って」
涼子は、邦也の手を引張って中へ入れると、まるで自分の家みたいに、あれこれ説明して回った。
「——ね、こんな所にずっと住めたら、すてきよね」
すっかり涼子の機嫌が直っているのは嬉《うれ》しかったが、
「どうしてこんなホテルに入ったんだい?」
と、邦也は訊《き》いた。
「話せば長いの」
と、涼子は言った。「ともかく、座ろうよ」
「うん……」
ソファに寛《くつろ》ぐ。——高級なソファなので、本当に「寛ぐ」という感じになる。
カクテルを飲みながら、涼子の語る「〈ホテルF〉へ辿《たど》りつくまでの物語」を聞いて、邦也は目を丸くした。
「じゃ、やっぱり涼子だったのか、リムジンの中にいたの」
「何のこと?」
邦也が、あの室井という刑事からの電話のことを話すと、
「へえ! 全然こっちなんか見てないと思ってた。凄いもんね。プロって」
何だかやたらと「凄い」ことのつづく日である。
「そうか……。じゃ、この部屋も、安東の払い?」
と、邦也は部屋の中を見回した。
「まずかった?」
「いや……。そうじゃないけど」
と、邦也は首を振って、「後で、これと引きかえに何か、って言われないかな、と思ってさ」
「その点は大丈夫」
と、涼子は請け合った。「安東さんって、そういう人じゃないと思う。——もちろん、暴力団で、人を泣かせてるんだろうけど、あの人の中にはこだわりがあるのよ」
「こだわり、か……」
「どうせ、ここから出ても、むだになるだけよ。——ね、今夜はともかくのんびりしましょ」
「明日は——」
「一日ぐらい大学、さぼってもいいわ。ちゃんといつも真《ま》面《じ》目《め》に出てるもん」
「そうだな……」
と、邦也は言った。
二人は何となく黙って——そして唇が触れ合った。
「これで仲直り」
と、涼子は言って微《ほほ》笑《え》んだ。「ともかく今夜はね」
「うん」
邦也としても、多少引っかかるところはあるにせよ、涼子と仲直りするのには、全く異存がなかったのである。
「——お風《ふ》呂《ろ》、入る?」
「そうだな」
「一緒に入ろうか。あんなに大っきいんだもん」
「いいね!」
というわけで——二人は恋人同士になったばっかりのころのような気分に戻っていたのである。
二人して早速バスルームへ、と行きかけると、
「何てざまだ!」
と、大声が廊下から聞こえて来た。
「何だ、あれ?」
と、邦也が振り向く。
「ああ、さっき間違ってこの部屋のチャイムを鳴らしたおじさんじゃないかしら」
「おじさん?」
「そう。連れの女の人と喧《けん》嘩《か》してたみたいよ」
そこへまた、同じ声で、
「いい年《と》齢《し》をして! ちっとは人目ってもんを考えなさい!」
「大きな声ね」
と、涼子が笑って言った。
あの声……。邦也は首をかしげた。どこかで聞いたことがある。
「ちょっと」
と、邦也は言って、入口のドアまで歩いて行くと、廊下を覗《のぞ》いた。
凸レンズで歪《ゆが》んで見えるが、廊下でわめいている、がっしりした体つきの男が見える。
「——やっぱり」
と、邦也は呟《つぶや》いた。
あれは、辻山の父親だ!
母と一緒に来たというのだから、当然ここに泊っているわけだが……。「連れの女の人と喧嘩」? つまり、母と、ということか?
邦也は面食らった。
もちろん、母と辻山勇吉が昔から知り合いというのは分っている。しかし——それ以上の仲ではない。そのはずだ。
「どうかしたの?」
と、涼子がやって来た。
「あ——いや、別に」
邦也としては言いにくい。それに、今ここで母と顔合せたら、どんなことになるか。
「じゃ、風呂へ入ろうか」
と、邦也は涼子の肩を抱いて、言った。
涼子と二人で大理石を貼《は》った豪華な浴室で大きな浴槽に身を沈める。
——まあ、ちょっとヨーロッパ映画の一場面という感じである。喧嘩していたことも忘れて、邦也と涼子は少々はしゃぎながら、のんびりとお湯につかっていた。
「——ああ、いい気持!」
涼子はタオル地の大きなバスローブをはおって、ベッドルームへ入ると、ベッドに引っくり返った。
「暑い!」
と、息をついて、「何か冷たいもの、冷蔵庫から出して」
「うん」
邦也もバスローブを着て、冷蔵庫を開ける。「——何がいい?」
「甘いものはちょっとね。——ウーロン茶、ある?」
「あるよ。じゃ半分ずつ飲むか」
「そうね」
二人は、ベッドに座って、コップにあけた冷たいウーロン茶を飲んだ。
「明日はやっぱり、大学休もうよ」
と、涼子が言った。
「うん?——そうだね」
邦也としては迷うところである。
明日の昼は母と食べることになっているのだ。
「邦也も休むでしょ?」
「いいよ。明日はどうせ二限しかないし……」
「じゃ、のんびり寝てられるね」
「そうだな」
二人は互いのほてった肌から立ち昇る湯の匂《にお》いをかぎながら、軽くキスした。
「——ね、さっき、隣の女の人がね、若い男の子を呼んでたのよ」
と、涼子が言った。
「男の子?」
「そう、何か、薄気味悪いの。ドア開けたとき、見ちゃったんだけど」
「男の子って……」
「相手させるんじゃない? 二〇歳そこそこかな」
「隣の女の人が?」
「うん。もう……四〇過ぎかなあ。和服姿のね、ちょっと色っぽい感じ」
邦也は、少しポカンとしていたが、
「隣って……どっちの隣?」
「え? ええと——そっち」
と、指さして、「ここ、端よ。隣って、そっちしかない」
「まさか?」
邦也は青ざめた。涼子がびっくりして、
「どうしたの?」
と、言った。「——知ってる人?」
邦也には、ショックだった。母がそんな若い男の子を?
まさか、そんなことが……。
「邦也。どうしたのよ」
涼子も、ただごとでないと気付いた。「隣の人って——」
突然、思い出した。あの女の人の声を、どこかで聞いたことがある、と思ったのだが……。
「あの人……邦也のお母さんね」
と、涼子は言って、視線は唖《あ》然《ぜん》として、隣の部屋の方へと向いていた。
——邦也が、やっと話ができるようになるのに、十分近くかかった。
「じゃあ、急に早めに出て来たの」
「そうなんだ。このホテルが評判だからって——。しかし、参ったな!」
「じゃ、あの大きな声のおじさんって、辻山さんって人?」
「うん。見《み》憶《おぼ》えがあるよ」
「辻山さんって、あなたのお母さんと……」
「いや、何もないはずだ」
「そうよね。だから、謝ってたんだから」
と、涼子は肯《うなず》いて、「じゃ、さっき騒いでたのは……」
「きっとお袋が、その若い奴といるのを見て、怒ったんだ。でも——何考えてるんだ、お袋の奴!」
邦也はがっくりと肩を落している。
「邦也……。お母さんだって、ずっと一人でいたわけでしょ。仕方ないよ、子供じゃないんだし」
と、涼子が慰めた。
「冗談じゃない! そりゃ、たとえば辻山さんと、っていうのなら分るよ。でも、いくら何でも僕と同じくらいの年齢の——」
「見た目より老けてるのかも……」
涼子の言葉も、あんまり慰めにはならなかったようだ。
「辻山さん。——そうだ、何号室だろう?」
と、邦也は立ち上がった。
「邦也! どうするの?」
「やめさせる! いくら大人だからって……」
邦也は電話を取ると、「——あ、辻山勇吉さんのお部屋へつないで下さい」
と言った。
止めるわけにもいかず、涼子は複雑な表情で、邦也を見ているのだった……。