17 もつれる心
「——どなたもお出になりませんが」
と、交換手が言った。「どうなさいますか?」
「そうですか……」
邦也は少しためらってから、「——じゃ、結構です」
と、電話を切った。
「邦也……」
肩に置かれた涼子の手を、邦也は軽く握ると、
「大丈夫だよ」
と、言った。「辻山さんがいなくても……。そうだろ? 何しろ隣にいるんだ、お袋は。ここを出て、隣のドアをノックすりゃ、それでいい。ドアが開いたら、お袋が息子みたいな年齢の男といちゃついてるってわけだ」
「やめなさいよ」
「うん……。こんなこと、ぐちゃぐちゃ言ってても、仕方ないんだよな」
邦也は立ち上がった。
「どこへ行くの」
「隣の部屋」
「でも——」
「大丈夫。息子として、母親に説教してやるだけだ」
邦也はドアの方へ歩き出した。涼子も、ほとんど足が勝手に動いているというように、ついて行く。
「——ね、ここに泊ってるって知れるわよ」
「どうだっていいさ」
相当に投げやりになっている。そしてドアを開けて廊下へ出たが——。
「待って」
と、涼子が邦也の腕をとる。「あの子だわ!」
さっき隣の部屋へ連れられて行った男の子が、廊下をぶらぶらとやってくるのである。しかし、何だか首をかしげて、妙な表情であった。
「こいつが?」
邦也は、大きく深呼吸すると、「ちょっと」
「ん? 何か用?」
と、少しなまめかしい口調で、「さっきの人だね」
と、涼子の方へ目をやる。
「話があるのは僕の方だ。今、何して来た?」
と、邦也は訊《き》いた。
「え? 何って……。別に」
と、肩をすくめる。「僕が何しようと、あんたに関係ないでしょ」
とたんに、邦也がその男の子の胸ぐらをぐいとつかんだ。相手は青くなって、
「何するんだ! 離してよ!」
「言え! 何して来たんだ!」
「苦しいよ……」
「邦也!」
涼子が、邦也の肩をつかんで、「他の部屋に聞こえるわ」
「分った」
邦也はその男の子を部屋の中へ引張り込んだ。涼子も急いで入り、ドアを閉める。
「乱暴しないでくれよ」
と、男の子は怯《おび》えている様子。
「何もしてないだろ。隣の部屋で何して来たんだ! 言え!」
邦也の剣幕に、男の子は後ずさった。
「分ったよ……。でも——何もしてないんだ。本当だよ」
と、あわてて早口に言う。
「何も?」
「うん……。こっちもよく分んないんだよ。どうなってんのか。電話で呼ばれてさ。——いつもは、もちろん、おばさんたちのお相手で、こっちも金になると思うからやってるけど、たいていはうんざりしちゃうんだ」
「だったらやめりゃいいでしょ」
と、涼子がもっともな意見を述べた。
「だって、働くのなんて面倒だしさ。これはこれで、勉強もしなきゃいけないんだよ」
「そんなことどうでもいい。それで?」
「うん。——この隣の『おばさん』は、でも凄《すご》くいい女でさ。こりゃいいや、と思ったんだ。でも、部屋へ入れても、何もしなくて、僕のこと色々聞いて、『そんなことしてちゃだめよ』とか意見されて」
「それだけってことはないだろ」
「でも——。何か、変なおっさんが来てさ。そいつが来たときだけ、突然、おばさんが僕のことギュッと抱きしめて。こっちはもう、わけ分んなくて、目を白黒さ」
さっき、辻山勇吉が廊下で騒いでいたときだろう。
「それで、そのおっさんがカンカンになって、わめいてんのを、あのおばさん廊下へ押し出して……。で、少しして、おっさんがいなくなったんだ。そしたら、おばさんが『もういいわよ』って……。で、金も余計にくれて、それじゃ、って」
「——で、廊下にいたの?」
「うん。何もしないで金もらっていいのかな、と思ってたんだ」
変なところで律儀である。
「本当だな」
と、邦也は念を押した。
「あんたに嘘《うそ》ついてもしようがないだろう」
そりゃそうだ。——邦也は、その男の子を解放してやった。
「ああ、気味悪い奴」
と、邦也は息をついて、「でも、本当だろうな」
「あんだけ脅かしたんだもの、大丈夫よ」
涼子はホッとしていた。「安心した?」
「まあね。でも——お袋、何だってそんなことしたんだろ?」
と、邦也は首をかしげている。
涼子にはある考えがあった。もちろん、当っているかどうか分らないが、邦也の母の気持が、涼子なりに分るような気もしていたのである。
「——ね、邦也。ともかく今夜は寝よう。お母さんにはどうせ明日会うんでしょ。今、行くことないよ」
と、涼子は言った。
「そうだな……」
正直、邦也もホッとしている様子である。「ただ——」
と、続けようとして、ためらう。
「お昼ご飯でしょ。分ってる。私は遠慮するわよ」
「怒らないのかい?」
「怒っても、邦也のこと、嫌いになれないってことが分ったの」
涼子は微《ほほ》笑《え》んで、邦也の肩に手をかけた。「それにね、私、ちょっと考えてることがあるの。——八方丸くおさまるかもしれないわ、うまくいけば」
「涼子……」
「さ、いくら明日さぼるからって、いつまでも起きてちゃ、明日欠伸《あくび》ばっかりしてるはめになるわよ」
と、涼子は言った。「寝る前に、ちょっとすることもあるでしょ?」
「そうだね」
二人はそっと顔を寄せて、唇を触れ合った。
そして——。
翌朝。
といっても、「朝」というより「お昼」に近い時刻。
「もしもし」
と、辻山房夫は電話をかけていた。「あ、山崎君?」
「おはよう」
と、山崎聡子は少し声をひそめて、「どう?」
「生きてるよ」
と、辻山は正直に答えた。「今、彼女はシャワーを浴びてる」
「今日はお休みって出しといたわ。風邪ひいたって連絡が入ったことにしてある」
「悪いね。起きるつもりだったんだけど」
と、辻山は狭いホテルの部屋を見回して、「床で寝てても、こんだけ寝ちまうんだから、大したもんだ」
「辻山さん」
と、聡子が言った。「もう私の所は危いわ、あなた……」
「うん。僕のアパートへ一《いつ》旦《たん》連れて行く。他に手がないものな」
「すまないわね、とんでもないことに巻き込んじゃって」
「いや、そんなことは……」
と、辻山は言いかけて、「あのね、山崎君——」
「辻山さん」
そう言ったきり、二人はしばらく黙っていた。浴室から、和代がシャワーを浴びる音が聞こえている。
「辻山さん。私との約束、破ったんでしょ」
と、聡子が穏やかな口調で言った。
「すまん」
とだけ答える。
「いいのよ。——そうなって良かったのよ」
と聡子は言った。
「本当かい?」
「ええ。喜んでるの、私」
「そう言われるとホッとするよ」
辻山は本当に息をついた。「叱《しか》られる覚悟をしてた」
「じゃ、お詫《わ》びのしるしに、明日のお昼をおごりなさい」
と、聡子が笑う。
「分った」
と、辻山も笑って、「彼女と代るかい?」
「いえ、いいわ。課長、戻ってくるから。今日、帰りにあなたの所へ寄る」
「分った。じゃあ」
電話を切ると、和代が浴室から出て来た。
「——暑い」
と、赤い顔をして、「でも、さっぱりしたわ」
辻山は黙って、湯上がりの、バスタオルを体に巻いた和代をじっと眺めている。
「何見てるの?」
「すてきだよ」
二人は、見つめ合った。辻山は夢心地で。和代の方は哀しく切ない愛着をこめて。
「もう出ましょう」
と、和代は言った。
聡子は電話を切ると、自分でもどうかしたのかしら、と思うほどの勢いで、仕事に没頭し、我を忘れた。
いや、正直に言えば、忘れられなかった、自分の中の動揺を。
辻山に言った言葉に嘘はない。心から、和代と辻山のことを喜んだ。しかし、同時に——自分でもあまりに意外なことだったが——聡子の胸がキュッとしめつけられるように痛んだのである。
辻山を? 私が辻山さんを恋してる?
「まさか」
と、声に出して呟《つぶや》いてみる。
でも、和代を救おうとして、必死になっている辻山の姿に、胸の熱くなるのを覚えなかったか。ゆうべ、おそらく辻山と和代が結ばれただろうと察して、まんじりともしなかったのは、なぜか……。
自分をごまかしても仕方ない。
確かに、聡子もまた(和代もということだが)、辻山に恋をしているのだ。
皮肉なものだ。こんなに長く机を並べて来て、悪い人ではないと知っていたが、それだけのことだった。それが、こんなとんでもない出来事のおかげで……。
しかし、この気持は、辻山にも和代にも隠し通さなくてはいけない。そう聡子は決心していた。
——聡子は席を立って、お茶をいれに行った。
給湯室へ行こうとして、誰かとぶつかりそうになる。
「おっと——」
「失礼しました」
と、聡子は謝った。
「いや、こっちこそ」
何だかパッとしない男である。二、三秒もしない内に、顔を忘れてしまいそうだ。
そして実際、聡子は忘れてしまった。
その「パッとしない」男は、聡子とぶつかりそうになってから、オフィスの中へ足を踏み入れた。
「何かご用ですか」
と、受付の子が訊《き》く。
「あの……山崎聡子さんはいらっしゃいますか」
と、男は言った。
「山崎さんでしたら、今、そこから出てった人ですけど」
男はちょっと振り向いて、
「じゃ、今、ぶつかりかけた……。そうですか」
と、肯《うなず》くと、「どうもありがとうございました」
「いえ……」
男がさっさと出て行ってしまったので、受付の子は首をかしげた。
「何かしら、今の人?」
しかし受付の子も、あの男のことは、すぐ忘れてしまったのである。
男の方は、山崎聡子の顔を、しっかりと頭に叩《たた》き込んでいた。
そうでなければ、「殺し屋」などという仕事はつとまらない。
「サメ」は、獲物を見付けたのである。
いや、そのものでなくても、その「魚」を追っていけば、必ず目指す「大物」に辿《たど》りつく。
「サメ」は今日の成果に満足して、静かにエレベーターに姿を消した。