22 思 惑
「こ、これでいいのかね……」
と、辻山勇吉は口ごもりながら言った。
「そう! すてきよ」
と、涼子は励ますように言った。「凄《すご》く若く見える。私だって誘惑しちゃいたいくらい」
「おい、おどかさんでくれ」
と、勇吉は情ない声を出した。「本当に、伸子さんに笑われんかな」
その辺は、涼子にも自信はない。何せ、真田伸子のことをよく知っているわけじゃないのだし、特に、その「美意識」となると、さっぱりである。
しかし、どんな意味であれ、辻山勇吉の今のスタイルが、パッと目立って人目をひくものであることは確かだった。
——ここは〈ホテルF〉の地階、ショッピングモール。
一流ブランドの店がズラッと並んでいるのだが、そうそう客はいない。涼子は、勇吉をここへ引張って来て、
「この人をダンディに仕上げて下さい」
と、店の女性に頼んだのである。
何しろ向うもヒマだ。他の店の女性も出て来て、
「ネクタイはこれ!」
「シャツの色は——」
「靴はね……」
と、やり出した。
勇吉は照れまくる間もなく、ほとんど「着せかえ人形」扱いで、一時間かかって、今のなりにさせられたのだった。
まあ、涼子の目にも、絹のネッカチーフだの、紫のシャツだのは少しやりすぎかな、と思えたが、
「——ね、おじさん。大切なのは自信を持つこと。分る? 自分は魅力的だって信じるの。そうすれば、少しくらい派手な格好してたって、ちっともおかしくないわ」
「うん……。そうかね」
辻山勇吉はため息をつくと、涼子を見て、ちょっと笑った。「ま、いい。あんたがこんなに親切にしてくれたんだ。恥をかいても後悔はせんよ」
その言葉の暖かさに、涼子は打たれた。
いい人だわ、この人。——邦也の母と、一緒にさせてあげたい。涼子は心からそう思った。
「——あ、もう部屋へ戻らないと」
と、腕時計を見る。「伸子さん、きっとこのホテルのレストランを予約してるわ。電話して時間を確かめるのよ」
「そうだな。そうするか。いや、色々とありがとう。支払いをして行くから、あんた、急ぐならいいよ」
「ええ。じゃ、またね」
涼子は、地階からロビーへと、大理石の階段を上った。
すると——ちょうどロビーに入ってくる邦也と母の伸子が見えた。邦也は、両手にデパートの紙袋を一杯さげている。
邦也が涼子に気付く。涼子はしっと唇に指を当てて見せ、ちょっとロビーの奥のラウンジを指さして見せた。邦也が小さく肯《うなず》く。
涼子が五分も待つと、邦也がラウンジへ入って来た。
「——やあ。部屋は?」
と、邦也が座りながら言った。
「もう一晩。あの人が借りてくれたの」
「あの人って……」
「安東さんよ」
プールへ安東がやって来たことを話すと、
「どうするんだ? もし夜も一緒に、って言われたら」
と、邦也が青くなる。
「私に任せて。それより、今夜はここのレストランね?」
「うん。君たちも?」
「そうなると思う。あと……四十分くらいで、安東さんが部屋へ迎えに来るはずよ」
「心配だな」
「辻山さんたちも来るのよ」
「辻山さんたち?」
「辻山勇吉さんから聞いたわ。息子さんが奥さんを連れてくるって」
「奥さんを?」
と、邦也は目を丸くした。「じゃ、辻山さん——」
「何とか見付けたようね」
と、涼子は肯いた。「ともかく、何とかしてあなたのお母さんと辻山勇吉さんを近付けるのよ。きっと、うまく行くわ」
「そうかな……」
邦也は、母の「結婚無用論」を思い出して、いささか悲観的にならざるを得なかった。
「ともかく、もう部屋へ戻って仕度するわ」
と、涼子は立ち上がった。「じゃ、後で部屋へ電話くれる?」
「隣へかい?」
「そう。近くて遠い仲ね」
と、涼子は笑って、足早にラウンジを出て行く。
邦也は一人、コーヒーを頼んで、肩をもんだ。荷物持ちも楽じゃないのである……。
ミキは、その女がラウンジを出て行くのを、ずっと目の端で追っていた。
あれが?——安東が熱を上げている女?
「馬鹿らしい!」
と、呟《つぶや》く。
あんなの子供じゃないの。どこがいいの? 胸だってペチャンコで、お尻《しり》だって出ちゃいない。まだ幼稚園の制服か何かが似合いそうだわ。
と、ケチをつけてみたものの……。
確かに、その娘に初々しい魅力と、ミキにない若々しさがあることは否定できない。
ミキは、その娘と少し離れて座っていたので、話の中身までは聞きとれなかったが、どうやら、一人で残っている男の子は、あの娘の彼氏らしい。
安東は、娘に彼氏がいるのを知っているのだろうか?
しかし、ふざけた女だ! 安東に甘えて、何か高い物でもせしめようってつもりだろうか……。
「そうはいかないわよ」
と、ミキは、そっとバッグを開け、中を覗《のぞ》いた。
しっかりとふたをした硫酸のびん。——これを、たっぷりあの娘の顔へかけてやるんだ。きっとお肌にいいからね。
ミキは一人で小さく笑った。
「——俺だ」
と、安東は言った。「どうした?」
〈ホテルF〉の中の、会員制クラブ。
夕食に、涼子を迎えに行くまで、安東はそこで一服していたのである。
傍に置いた電話が鳴り出したのは、そろそろ涼子を迎えに行こうかと思ったところだった。
「あ、親分」
と、子分の声が、少し上ずっている。
「どうした」
「あの……けが人が二人出たんです」
安東は、ちょっと眉《まゆ》をひそめた。
「どういうことだ?——誰と誰だ?」
名前を聞いて、いやな予感がした。二人とも竜の可《か》愛《わい》がっている弟分だ。
「——やったのは誰だ」
「それが分らねえんです。相手は一人だったってんですが」
「一人か。——おい、竜は見かけねえか」
「竜の兄貴は温泉に——」
「知ってる。確かに行ってるかどうか、確かめろ」
「へい」
「分ったら連絡しろ。いいか」
「分りました」
——気に入らねえ、と安東は思った。
何かある。何か、勝手にことが運んでいる。
安東は気に入らなかった。
また電話が鳴り出した。
「——俺だ。——どこだって?」
「すんません。竜の兄貴がどうしても親分へかけろってもんですから——」
「竜はそこにいるのか」
「へえ、今ここに」
「かわれ」
「それが——電話させといて、そのまんま酔い潰《つぶ》れて眠っちまったんですよ。全く……。兄貴! 起きて下せえよ!——どうしてもだめです」
「そうか」
と、安東は肯《うなず》いた。「分った。無理に起すことはない」
「じゃ、明日でも、目を覚ましたら、またお電話しますんで」
「ああ。のんびりしろと言ってやれ」
「へえ」
——安東は電話を切った。
竜の奴……。ゆっくりと首を振る。
もちろん、今のは芝居だ。ということは、竜はこっちに残っている。つまり、何か「やること」があったのだ。
——和代を見付けたか。
騙《だま》されたふりをしておく。そうしなくては竜が動くまい。
しかし、安東はもう竜が「動けなく」なっていることを、知らなかった……。
「——タクシーが来た」
と、辻山房夫は言った。
「ちょっと待って」
和代は、鏡の前にもう一度立った。「ねえ、おかしくない?」
「すてきだよ」
と、辻山は心から言った。
「ちょっと。——口紅つけたばっかりよ」
和代は、短く辻山にキスした。「さあ、遅れるといけないわ。出かけましょう」
「うん」
——〈ホテルF〉で夕食である。
一応、辻山も一番上等の(大して持っていないが)スーツ。和代は、急いでスーツを買って来たのである。
二人は、アパートを出た。
「あら、辻山さん」
と、すれ違いかけて足を止めたのは、隣の主婦。
「やあ、今晩は」
「お出かけ?」
と、辻山へ訊《き》きながら、その主婦の目は和代を見ている。
「ええ。ちょっと食事にね」
と、辻山は言って、「ああ、ご紹介しますよ。家内の洋子です」
「初めまして」
と、和代が頭を下げる。
「さ、タクシーが待ってる」
「ええ。じゃ、失礼します」
「はあ……」
自分がいつも「洋子」の役をやっていた隣の主婦は、呆《あつ》気《け》にとられて、二人がタクシーに乗り込むのを見ていたのだった……。
——タクシーの中で、辻山から事情を聞くと、
「それで、あんなに面食らってたのね」
と、和代が笑いながら、「幻の妻が現われたわけですものね」
「ふき出すのをこらえるのが大変だったよ」
と、辻山も笑いながら言った。
「でも——あなたの妻ですって、挨《あい》拶《さつ》できるの、幸せだわ」
と、和代は言った。「ほんの何日かの間でもね」
辻山は、少し間を置いて、小声で言った。
「和代……」
「え?」
「二人で——どこかへ行かないか。二人だけで暮すんだ。何とかやっていけるさ」
「あなた……」
「辛《つら》いこともあるだろうが、君と離れている辛さに比べりゃ」
「ありがとう」
和代は、辻山の手に、自分の手を重ねた。「でも、いけないわ」
「どうして?」
「あなたは一人ぼっちじゃない。あんなすてきなお父様もいらっしゃるのよ」
「親父は親父さ。僕はもう大人だ」
「嬉《うれ》しいわ。あなたの気持……。でも——」
と、言いかけて、息をつくと、「湿っぽくなるのはよしましょう。これからごちそうを食べるっていうのに」
「そうだな」
と、辻山は肯くと、深呼吸して、「食うぞ!」
和代がそれを聞いてふき出した。
「——山崎さん。——山崎さん」
トントン、とドアを叩《たた》く音。
誰かしら? 山崎って……どこかで聞いた名前ね。
聡子は、部屋の中に倒れて、半ば眠り込んでいた。頭がボーッとして、かすみがかかっているよう。
「山崎さん。——いるんですか」
山崎。——山崎聡子って、私の名前じゃなかったっけ?
「室井です。警察の室井です。——山崎さん?」
少し静かになったと思うと、ガン、と何か叩きつける音がして、室井刑事がドアをこじ開け、入って来た。
「何てことだ! 山崎さん!」
室井刑事が聡子へ駆け寄る。
同時に、室井の目は、倒れたきり動かない男の方へも、向けられていた。
——竜だ。死んでいる。
室井は、部屋の電話線が切られているのを見て、急いで隣の部屋へと駆け出して行った。