24 交錯する思い
レストランは満席というわけではなかった。
しかし、そこは一流ホテルのレストランで、〈辻山〉と〈真田〉という客が、一緒にチェックインしていることを、ちゃんとフロントの方から連絡してもらっている。
で——決して悪気ではなく、いや、むしろ「気配り」のつもりで、その二つのテーブルを隣同士にしておいたのである。
「辻山様でございますね。お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
マネージャーがにこやかに言って、レストランの奥へと案内する。
辻山はこういう場にあまり慣れているとは言えないので、大分緊張し、表情もこわばっている。和代がちょっと笑って、
「そんな怖い顔してないで」
「別に……普通だよ」
と、辻山が引きつったような笑顔を作った。
「こちらでございます」
マネージャーがテーブルの前で足を止める。ウエイターが素早く寄って来ると、椅《い》子《す》を引いてくれた。
「や、どうも」
と、辻山勇吉は腰をおろして、やれやれと息をつく。
勇吉も、この手の店には不慣れである。何を食やいいんだ?
「なかなか立派な店だ」
と、中を見回し……隣のテーブルに、真田伸子がいるのを見て、ギョッとした。
辻山房夫の方は、和代に見とれてボーッとしていたが、そういつまでもボーッとしているわけにもいかず、父親に、何か飲むかい、と言おうとして——気が付いた。
「あ……真田のおばさん」
と、あわてて腰を浮かす。「どうも、お久しぶりです」
「どうも」
と、伸子の方は冷ややかである。
邦也は気が気でない様子で咳《せき》払《ばら》いすると、
「お母さん」
「なに?」
「あの……房夫さんの奥さん、初めてだろ?」
伸子も、もちろん「その女」に気付いていたのだ。見逃すはずはない。
しかし、少々しゃくであった。何しろ辻山の息子にはもったいないような美人なのである。どこであんな人を見付けたのかしら?
何だか、伸子は(自分は別に関係ないのだが)いやに不機嫌になっていた。
「あ、あの——」
と、辻山も少し固くなりつつ、「家内の洋子です。真田伸子さん。凄《すご》く大きな旅館をやってらっしゃるんだ」
和代が、腰を浮かして——その瞬間、サッと顔から血の気がひいた。
間に真田伸子と邦也のテーブルを挟んで、その向うのテーブルについているのは安東だった。安東も、和代を見ている。
二人の視線は、ほんの一、二秒、つながって、二度ととけることのない結び目ができたようだった。
「——どうかした?」
と、辻山が不思議そうに和代を見る。
「いいえ」
和代は首を振って、「失礼しました。洋子と申します」
真田伸子に向かって頭を下げる。
「よろしく」
と、伸子の方も、こんな所で感情を表に出すほど馬鹿ではない。
にこやかに会釈したのである。
マネージャーは、二つのテーブルのやりとりを見ていたが、
「もしよろしければ、テーブルをおつけしましょうか」
と、気をきかせた。
「いえ、結構」
と、すかさず伸子が言った。「この方がいいの」
「でも、母さん——」
と、邦也が言った。「房夫さんとも久しぶりだろ。話もあるんじゃないの?」
伸子も、そう言われると、何とも言い返せない。辻山勇吉の方は黙っている。
というわけで——マネージャーの指図で、たちまちテーブルはつなげられて、真田伸子と邦也、辻山勇吉と房夫、和代の五人が、テーブルを囲むことになったのである。
——なかなかやるじゃない。
涼子は、邦也の機転に感心していた。——こういう食卓で、もろにいやな顔を見せるような人ではない。涼子は、真田伸子を一目見て、そう思っていた。
それにしても、あの辻山さんって人の奥さん、不思議な雰囲気のある人だわ。どこかかげがあり、寂しげですらあるが、すてきだ。
「ご注文は」
と、ウエイターがやって来た。
涼子が先にオーダーしてしまうと、安東がふっと我に返った様子で、
「あ、いや、失礼」
と言った。「そうだな。何にするか……」
和代は、食前酒に軽いカクテルを飲みながら、そっと安東の方を見ていた。
安東がここにいるのが、偶然であるはずがない。——和代は安東のことをよく知っている。気紛れに何かをする、ということの決してない男である。
「あと一人、来ることになってるんだ」
と、辻山がウエイターに言っている。「オーダーはそれから」
「でも」
と、和代は言った。「大丈夫よ。注文しておきましょう」
「そうかい? じゃ、メニューを眺めて……。考えるだけでも、時間がかかりそうだしな」
と、辻山が笑った。
「私はもう決めたわ」
と、真田伸子が言って、ウエイターが急いでそのそばへ移動する。
——聡子、と和代は思った。ごめんなさい!
安東がここにいる。聡子がやって来ない。
十中八、九、聡子は、和代がここに来ることをしゃべらされ、何か——ひどい目に遭わされたか……もしかすると殺されたのかもしれない。
何てことをしたのだろう。自分一人、死んでいれば良かったのだ。それが……聡子やこの人まで巻き込んでしまった。
和代はもう一度、安東の方へ目をやった。安東が料理を頼んでいる。
一緒にいる女の子はずいぶん若い。確か、安東にはミキという恋人がいたはずだが。
ともかく、和代は覚悟を決めた。
生きて、ここを出られることはあるまい。いや、こんな所では殺さないとしても、子分が外に待っていて、和代をどこかへ連れて行く手はずになっているのだろう。
もう逃げることはできない。一緒にテーブルについている人たちにまで、どんな迷惑が及ぶか、分ったものではない。
騒がず、おとなしく連れられて行こう。できることなら、辻山に気付かれないように。
別れを言っている時間はない。しかし——分ってくれるだろう。
「お決まりでございますか」
と、ウエイターが傍に立つ。
最後の晩餐ね。和代は、ちょっと息をついて、オーダーした。
「おいしいわ」
と、涼子は言った。
「悪くない」
安東は、白ワインを少しずつ飲んでいた。
「——どうかしまして?」
「何が?」
「いやに無口になったわ」
「そうですか?」
安東は、静かに言った。「運命ってものについて、考えてるんです」
「あら。私と出会ったことかしら」
と、涼子は微《ほほ》笑《え》んだ。
「それもありますが……」
安東は、オードヴルを食べ終えて、ナイフとフォークを静かに皿に置いた。
隣のテーブルでは、専《もつぱ》ら辻山勇吉が故郷の町の話を、息子と嫁、そして邦也に向かって聞かせている。伸子は面白くもなさそうにパンをちぎって食べていた。
「他にも何か?」
と、涼子は訊《き》いた。
安東が、水を一口飲んで、
「旨《うま》い水だ」
と言った。「何か入っているからこそ旨い。純粋じゃないから、おいしいんです。世の中もそうだ。はみ出し者がいるからこそ面白い」
「はみ出し方によりますわ。人を傷つけるのは、間違ったはみ出し方です」
「親に黙って結婚するのもね」
涼子が赤くなって、
「かもしれませんね」
「あなたを悲しませたくない」
と、安東は言った。「こんな気持になったのは初めてです」
「私が……どうして悲しむんです?」
安東は隣のテーブルに目をやった。
「あそこに座っている女。——あれが和代です」
と、低い声で言う。
「——嘘《うそ》」
と、涼子は言った。「本当ですか?」
安東は微笑んで、
「運命のことを考えている、と言ったでしょう」
「そんな……」
辻山の「妻」が——。何てことだろう!
「安東さん。見逃してあげて。お願いです」
と、涼子は言った。
「ここであの女を逃したとなれば、僕の立場は微妙なものになる。分りますか? すぐそばにいたことは、必ず知られる。何をしてたんだ、ということになる」
「お願い」
と、涼子はくり返した。「私、あなたの言う通りにします。何でも。ですから、あの人を見逃してあげて」
「どうしてそんなことまで? あの女はあなたと何の関係もない」
「あの人のためだけじゃありません。あなたにあの人を殺させたくないの」
安東は、しばらく涼子を見つめていたが、
「さ、スープが来た」
と、ナプキンを取って、「飲んでいて下さい。電話を一本かけてくる」
和代は、安東が席を立って行くのを、目の端で見ていた。
「——洋子さん、っておっしゃったわね」
と、伸子が言った。
「はい」
「房夫さんとはどこで?」
「ええ、あの……」
「それは極秘」
と、辻山が冗談めかして言った。「この後、バーででも付合って下さったら、お話しますよ」
「酔うと、変なくせが出ない?」
と、伸子が言うと、辻山勇吉がむせた。
「あの——ちょっと失礼します」
和代はバッグを手に立ち上がった。
レストランの入口の方へ歩いて行く。
安東はどこに行ったのだろう? マネージャーが電話を受けている。
和代は、レストランから出て、左右を見た。電話ボックスが、いくつか並んでいる。そこに安東らしい姿があった。
ここで話をつけよう。ともかく、辻山に害が及ぶのを、何としても避けなくては。
「——静かに」
いつの間に近寄っていたのか、全く気付かなかった。その男は、ピタリと和代の背に体を押し付けるようにして、
「声を出すと、ナイフが腹を貫くよ。いいね」
さっき、ロビーで見かけた、あの男だ。
和代は小さく肯《うなず》いた。
「いい子だ。このまま、ロビーを歩いて行こう」
これが安東の手だったのだろうか?
いずれにしても、和代は相手がプロだということを、知っていた。
「ここで殺さないでね」
と、和代は言った。「ホテルに迷惑だわ」
「感心な気のつかい方だ。——気楽に行こう」
二人は、ゆっくりとロビーに向かって歩き出した。
涼子は、邦也がこっちを見ているのに気付くと、ちょっと目配せして、立ち上がった。
化粧室が、入口のすぐ手前にある。そこで待っていると、邦也が来た。
「びっくりしたよ、ああ近くに——」
「それどころじゃないわ」
「え?」
「辻山さんの『奥さん』、安東さんたちが捜している女なのよ。ヤクザを殺して逃げた人」
「何だって?」
邦也が唖《あ》然《ぜん》とする。
「何とか逃がしてあげたい。今——化粧室にいたら、連れてくるから」
「ああ……」
邦也は、何だかわけが分らず、肯くだけだった。