エピローグ
山崎聡子は、ウトウトしていた。
何しろ入院生活を送るのは初めてのことである。——寝る以外にすることがない(当り前ではあるが)というのは、妙な気分だった。
ふと——夢を見た。
新婚家庭の朝。和代が可《か》愛《わい》いエプロンをつけて、せっせと朝食の用意をしている。辻山が、
「いかん! 遅刻する!」
と、あわててトーストを口へ押し込み、目を白黒させる。
だめじゃないの! ちゃんと和代の作った朝ご飯を食べてから出かけなさい! ちゃんと私が仕事はしといてあげるから! 辻山さん!
「辻山……」
「呼んだかい?」
と、声がして……ふと目を開けると、辻山がこっちを覗《のぞ》き込んでいる。
一瞬、聡子はあの光景が自分と辻山のものだったのかと……。いや、そうじゃない。辻山は和代のものだ。
「あら、見舞に来てくれたの?」
「来なきゃ、ばちが当るよ」
辻山は花束をかかえている。
「もうじき退院よ。——いい休暇だった」
「山崎君」
辻山は、真顔で言った。「君のように勇敢な人はいない。君の恩は一生忘れないよ」
「何よ、照れるでしょ」
と、聡子は笑って、「そんな風に言われるより、『君のように魅力的な女はいない』って言われたいわね」
「もちろんさ!——和代の次にね」
「馬鹿」
と、聡子は笑って言った。「あなたは、和代が罪を償って出て来たら、ちゃんと幸せにしてあげてくれればいいの」
「もちろんだ。約束する」
辻山はまるで別人のように、逞《たくま》しく、力強く見えた。
聡子の胸はチクリと痛んだが……。
でも——残りものに福がある、とも言うしね。
「今度来るときは、食べれるものを持って来てね。花より団子」
と、聡子は言ってやった……。
「涼子!」
リカが手を振ってやってくる。
涼子は席を一つずらして、リカを隣に座らせた。——昼の学食はいつもながらの混雑。
「——久仁子のこと、うまくすんだわ」
と、リカが言った。「もう二度とこんなことしないって言ってた」
「自分を大事にしなきゃね」
「涼子と真田君のこと聞いて、感動してたよ。私も頑張る、って」
涼子は苦笑した。
——まあ、何もかもうまく行ったと言うべきかもしれない。
あの辻山と小田切和代ほどドラマチックじゃないにしても、辻山の父親と、邦也の母も結婚すると決めたようだし、自分と邦也の仲も、晴れて公認となった。
事情を聞いた邦也の母は、アッサリと一言、
「そう」
と言っただけで、邦也をひっくり返らせてしまった。
問題は誠実であること。——そう、涼子は思った。
でも、今も邦也に言っていないことがある。一度だけ、あの安東にキスされたこと。
あれはたぶん涼子が一生抱いていく、小さな秘密になるだろう。もちろん、もう安東と会うことはないだろうが。
「あら、ご主人よ」
と、リカが冷やかすようにつつく。
邦也がやってくるのが見えた。
「すてきでしょ、私の夫」
涼子はリカにそう言ってやると、「あなた、こっちよ!」
と、大きな声で呼んで、手を振った。
「——ごちそうさま」
リカは少々ふてくされて呟《つぶや》いて、「あ、まだ何も食べてなかったんだ」
と、気が付いたのだった……。