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ハ長調のポートレート02
日期:2018-06-29 10:28  点击:286
送迎バスの客
 
 
 楽な仕事というものは、しばしば退屈である。
 
 しかし、退屈な仕事が必ずしも楽でないことは、言うまでもない。
 
 そのバスの運転手は、その日、既に十回も同じ区間を行き来していた。もちろん普通の路線バスではない。
 
 ターミナル駅前から、あるデパートまで、ほとんど切れ間なく客を運ぶのが、彼の仕事だったのである。
 
 片道五分。それぞれ、駅前とかデパート前での停車に十分——多少のずれを見込んでも、三十分足らずで一往復してしまう。
 
 こうなると、次はどの信号で引っかかるか、とか、次のバスには男が何人乗って来るか、とか、自分にクイズでも出して楽しみながら走らせないことには、やり切れなくなる。
 
 ——そろそろ夕方だった。
 
 午前中は、もちろん駅からデパートへ行く客が圧倒的に多い。それが、今は逆転し始めていた。
 
「——どうもありがとうございました」
 
 運転手だから、別にいちいち礼を言うこともないが、まあ言って減るものでもないし……。
 
 駅前で停め、あまりもう乗る客はなく、運転手は、今日初めてホッと息をついた。
 
 そして——ふと気が付くと、バスの奥の方に、初老の男性がポツンと座っている。
 
 あの男——確か、大分前にこのバスに乗ったんじゃなかったかな?
 
 何しろデパートにしか行かないバスなのだから、九割方は女性だ。ああいう年配の男は珍しいので、何となく記憶に残っていたのである。
 
 じっと顔を伏せて動かないので、眠ってるのかな、と思った。立ち上がって歩いて行くと、
 
「着きましたよ」
 
 と、声をかける。
 
「え?——ああ」
 
 眠っていたわけではないらしい。「いや、失礼。ついぼんやりしていてね」
 
「いえ、構いませんがね。駅ですよ」
 
「そうか」
 
 と、その初老の男は立ち上がりかけて、「もし良かったら、少し座らせといてくれないかね」
 
「別にいいですけど……」
 
 いわゆる住所不定風の男ではない。かなり立派な服装は、会社の重役かと見えるくらいだ。
 
「考えごとをしていてね。ともかく、どこへ行っても、やかましいし、人は多いし。ゆっくりできる所がないもんだから」
 
 運転手は、ちょっと笑って、
 
「いいですよ。じゃ、まあごゆっくり。でも十分したら、デパートの方へ行きますよ」
 
「ああ、気にしないでやってくれ」
 
 何を考えているのやら……。
 
 その次に駅へ戻った時も、またその次に戻った時も、その男は一番奥の席から立とうとしなかったのだ。
 
「——お客さん」
 
 空っぽのバスの中を、また運転手は歩いて行った。「すみませんが、もうこれでバスの運行、終わりなんですよ」
 
「そうか。いや、迷惑をかけてすまんね」
 
「迷惑ってことはありませんがね。——一体何をそう悩んでるんです?」
 
「うん……」
 
 その男は、ちょっと息をつくと、「実はね、つい先日、孫が産まれて」
 
「へえ! それはおめでとうございます」
 
「いや、それでもめてるんだよ」
 
 と、男は顔をしかめた。「名前を誰が考えるか、でね」
 
「お孫さんの?」
 
「女の子で……。私は当然のように自分が付ける気でいた。私の息子の名は、私の父が考えたものだ。今度は私が孫の名前を考える番だ、と楽しみにして来た。産まれると分ってから、何か月も、男の子ならこれ、女の子ならこれ、と一体いくつ考えたか。——そして、産まれた」
 
「それで?」
 
 と、運転手も席に腰をかけて、訊《き》いた。
 
「私は、早速、病院に嫁をねぎらいに行った。そしてその時に、私が決めた名前を教えてやったんだが……」
 
「どうしました?」
 
「嫁は、けげんな顔で、『その子の名前はもう考えてあるんです』と言うんだよ」
 
「なるほど」
 
「えらくモダンな名前で、いかにも若い子が好みそうだ。しかし——姓名判断とか、色々やった上で私が決めた名前を、『そんなの古いですよ』と一言で片付けた。私も、ちょっと意地になって、息子に、絶対に私の決めた名前にしろ、と怒《ど》鳴《な》ってしまった……」
 
「そうでしたか。——息子さんは何と?」
 
「間に立って、困ってるよ。嫁もなかなかしっかり者で気が強い。ま、息子は少しのんびり屋で、人はいいが気が弱いから、少し強いぐらいの嫁でいいんだがね」
 
「今度ばかりは困った、というわけですか」
 
「その通りだよ。——私も、もちろん年寄りなりに頭の固いところはあるだろう。しかし、何かというと『今の若い者は——』とグチをこぼす、分らず屋の老人ではないつもりだ。しかし……」
 
 と、首を振って、「今度ばかりは譲れないんだ。これだけはだめだ」
 
「それで、このバスに?」
 
「いや——別にどこへ行くでもなく歩いていて、つい乗ってしまったんだよ。すまんね、もう降りる」
 
 と、腰を浮かしかけ、ふと、「君はどう思うね」
 
 と、訊いた。
 
「私、ですか?」
 
 運転手は、ちょっと面《めん》喰《くら》った様子だった。
 
「見たところ、四十代かな? 子供さんもあるんだろう」
 
「まあ……」
 
「君のとこは、誰が名を付けたんだね?」
 
「うちでは私が……」
 
 と、運転手は言った。
 
「君のご両親は何ともおっしゃらなかったかね」
 
「結婚した時は、もう二人とも生きていませんでしたからね」
 
「なるほど。それなら、もめようもないわけか」
 
 と、初老の男は肯《うなず》いて、「私は頑《がん》固《こ》爺《じじ》いなのかな。どう思うね」
 
「さて……。私には何とも申し上げられませんね」
 
 と、運転手は微《ほほ》笑《え》んで言った。
 
「そうだな。いや、妙な話を聞かせて悪かった」
 
「とんでもない」
 
 運転手はそう言ってから、「ですが——」
 
 と、言いかけてポケットを探ると、定期入れを出し、中から一枚の写真を取り出した。
 
「これが娘です」
 
「どれ。——可《か》愛《わい》い子だ。中学生かね」
 
「二年生です」
 
「ほう。これからが楽しみだね」
 
 と、写真を返すと、運転手はそれを見つめて、
 
「もう、こいつは大きくならないんです」
 
 と、言った。「去年、事故で亡くしましてね」
 
「それは……。すまなかった。余計なことを——」
 
「いえいえ」
 
 運転手は、その写真をしまい込むと、「どうなんでしょう。名前というのは、結局、誰が付けようと、違いはないんじゃないでしょうか。それを背負って行く当人が、自分で選べるわけじゃないんですからね。それなら同じことですよ」
 
 初老の男は、しばらく黙っていた。そして立ち止まると、
 
「いや、すっかり邪魔してしまったね」
 
「どういたしまして」
 
 と、運転手は言った。「お気を付けて」
 
「ありがとう」
 
 と、バスを降りかけて振り向き、「君の娘さんは何という名だったのかね」
 
 と訊いた。
 
 
 
「——父さん」
 
 ベッドのわきの椅《い》子《す》にかけて赤ん坊の顔を見ていた坂上勝之は、父親が入ってくるのを見て立ち上がった。
 
「どうだ、元気か」
 
 坂上康俊は孫の顔を覗《のぞ》き込んで、「よく寝るもんだな」
 
 と、言った。
 
「そりゃ、赤ん坊だからね」
 
「エリさんは?」
 
「うん、ちょっと売店に。すぐ戻るよ」
 
 と、勝之は言った。「ね、父さん。この子の名前のことだけど——」
 
「あ、お義《と》父《う》さん」
 
 エリが、ゆっくりとした足どりで戻って来た。お産が重かったせいもあって、大分やつれているが、童顔の愛くるしさは、いつもの通りだ。
 
「動いて大丈夫なのか?」
 
「ええ……。でも、体が軽くなっちゃって」
 
 と、笑顔で言うと、ベッドに腰をおろした。
 
「横になってくれ。——いや、名前のことではすまなかった。苦しい思いをしてこの子を産んだのは、あんただ。あんたが名前を決めるべきだよ」
 
 と、康俊は言った。
 
 横になったエリは、夫の勝之とちょっと顔を見合わせた。
 
「いや、父さん。二人で話し合ってね。父さんの決めた名にしようってことになったんだよ」
 
 と、勝之は言った。
 
「いや、しかし、それは——」
 
「もうそう決めたんですもの、お義父さん」
 
 三人は、ちょっと黙って、それから笑い出した。
 
「じゃ、どうだろう」
 
 と、康俊は言った。「前の二つは、なかったことにして、〈亜紀子〉というのは、どうかな」
 
 と、字を書いて見せた。
 
「すてきだわ」
 
 と、エリは言った。
 
「実はね。今日、バスに乗っていて……」
 
 康俊は、バスの運転手のことを話して聞かせた。
 
「じゃ、その人の娘さんの名前?」
 
「そうなんだ。——どう思う?」
 
「これに決めましょう。ね、あなた」
 
 と、エリが言った。
 
「OK。じゃ、決まりだ!」
 
 勝之が、ポンと手を叩《たた》く。
 
「——ホッとしたな」
 
 と、父親が帰ると、勝之は言った。「じゃ、また明日、来るよ」
 
「ええ。帰ったら、忘れずに支払いをしといてね」
 
「大丈夫だよ」
 
 勝之が廊下へ出ると、
 
「あ、お兄ちゃん」
 
 と、やって来たのは、学校帰りの勝之の妹、美由紀。
 
「やあ、遅いじゃないか」
 
「クラブよ。高二ともなると、忙しいんだから」
 
 一七歳の美由紀は、やたらに元気な娘である。本人は、「タレントを目指す」と言っているが、確かになかなか可愛い。
 
「ね、決まった?」
 
 と、美由紀は言った。
 
「うん。今、親《おや》父《じ》が来て、三人で話し合ってな」
 
「お父さん、来たの。ゆうべは怒ってたよ」
 
「丸くおさまったのさ、それが」
 
「へえ」
 
 と、美由紀は目をパチクリさせて、「あの頑固親父が折れたのか」
 
「おい、何だ、その言い方は」
 
 と、勝之は苦笑した。
 
「で、何て決まったの?」
 
 と、言いながら、美由紀は鞄《かばん》から何やらメモを取り出した。
 
「亜紀子だ。——何だ、それ?」
 
 勝之は、美由紀の広げた紙を見て、目を丸くした。
 
 紙一杯に、女の子の名前がズラッと並んでいる。
 
「友だちと賭《か》けをしたの」
 
「賭け?」
 
「この中に、私の姪《めい》っ子の名があるかどうか。なけりゃ私の勝ちで、千円」
 
「呆《あき》れた奴だな」
 
「どの字?——これじゃないね」
 
「違うよ。〈亜《あ》細《じ》亜《あ》〉の〈亜〉と〈紀《き》元《げん》〉の〈紀〉」
 
「やった!」
 
 美由紀がパチンと指を鳴らした。「千円儲《もう》かった」
 
「しょうがない奴だな」
 
「さすが、我が姪っ子! 見込みがあるよ、将来!」
 
 美由紀は、鞄《かばん》を勝之へ押しつけて、「持ってて。可愛い姪の顔を見て来るから」
 
 と、さっさと行ってしまう。
 
 勝之は、妹を見送って、
 
「将来は、亜紀子もああなるのかな」
 
 と、思わず不安げに呟《つぶや》いたのだった。

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