欠伸《あくび》のてんまつ
「あら——」
坂上エリは、ふっと目を覚まして、「いやだわ。私ったら、寝かしつけるつもりが——」
いつしか、自分が眠ってしまっていたのである。ま、そんなことは珍しくもない話ではあるが。
亜紀子は、母親より早かったのか遅かったのか、ベビーベッドで、スヤスヤと眠っている。——エリはホッとした。
これで、何時間かは「平和」が訪れる。
もちろん、その平和は、朝までは続かないのだが。
エリは欠伸をしながら、寝室を出て、リビングルームへと歩いて行った。——3LDKのマンションは、親子三人には充分な広さだが、子供が二人になったらどうなるか……。
もう、エリはそんなことを心配していた。
——ゴトッ、と玄関の方で音がした。
エリはギクリとして足を止めた。じっと様子をうかがったが、誰も上がって来る気配はない。
あの音は——確かに玄関の中で聞こえた。もし夫の坂上勝之が帰ったのなら、とっくに上がって来ているはずである。
エリの頭に、この近くに空巣や「居直り強盗」が出没しているので、ご注意を、という回覧板の文句がよみがえった。——まさか! ここに強盗?
でも——用心に越したことはない。
エリは、リビングの中を見回して、空っぽの花びんに目に止めるとそれを両手でつかんで、いざとなれば、相手を一撃すべく、ソロソロと玄関の方を覗《のぞ》いた……。
玄関の明りの下で、上がり口に座り込んで頭をかかえ込んでいる男の背中が……。
「あなた。何してるの?」
エリが声をかけると、坂上勝之はびっくりしたように、立ち上がった。
「エリ。起きてたのか」
「今、亜紀子を寝かせたとこ。しばらくは起きないと思うわ」
「そうか……」
勝之は、何だか元気なく肯《うなず》いて、「変わりないか、亜紀子?」
「ええ。今日はミルクもずいぶん飲んだわ」
「そうか……。良かった。僕にとっては、君と亜紀子さえいれば、生きる支えになる」
「——大丈夫? 熱があるんじゃない?」
と、エリは夫の額に手を当てようとして、まだ花びんを持ったままでいるのに気が付いた。
「何で、そんな物持ってるんだ?」
と、勝之が不思議そうに訊《き》く。
「え? ああ、これね。これ——ちょっと置き場所を変えようと思って、今考えてたのよ」
「そうか。それでぶん殴られるのかと思ったよ」
と、勝之は、やっと笑顔を見せた。
もちろん、自分が本当のことを言い当てていたとは、思ってもいない。
——殴ってほしいよ、全く。
リビングの入口で、ネクタイをむしり取るように外しながら、勝之はそう思った。
俺みたいな間抜けは、いくら殴られたって仕方ないんだ!
そもそもは——欠伸《あくび》のせいだった。
「坂上!」
と、課長が怒鳴った。「何だ、その態度は!」
確かに、会議の席で大欠伸をするというのが、賞讃に値することだとは、勝之も思っていない。
しかし、人にはそれぞれ事情というものがあって、決して不真面目だから欠伸をしているとは限らないのである。
「すみません」
と、勝之は素直に謝《あやま》った。
しかし、課長の前田は、今朝はことのほか機《き》嫌《げん》が悪いようだった。
「俺の話がそんなに退屈か?」
「いえ、とんでもない。ちょっと——あの——」
「何だ? 言ってみろ。課長の話をろくに聞かずに欠伸をしてていいという、納得できる理由があるというのなら、聞いてやる」
会議室の中はシンと静まり返った。
課の全員の会議である。新入りの女子社員など、顔をこわばらせて息を殺し、成り行きを見守っていた。
「——何もありません」
と、勝之は少し青ざめた顔で言った。「申し訳ありませんでした」
前田は、見た目は太っ腹な重役タイプだが、その実、しつこくて細かい性格だった。もちろん、それなりにいい所もあるのだが、ここでは最悪のパターンになってしまったのである。
「俺の話が退屈でつまらんと思う奴《やつ》は、何も貴重な時間をこんな所で費《ついや》してもらわなくていい!」
と、一人でカッカと腹を立て、「いつでも出て行っていいぞ!」
——いくら何でも言いすぎじゃないか、という表情で、課員たちがそっと目を見交わす。何も居眠りしていたというわけじゃないのだ。欠伸したくらいで、そこまで言わなくたって……。
「課長——」
と、穏やかな声で言ったのは、課長補佐の橋口だった。
いかにも高血圧タイプの前田とは対照的に、学校の教師のような、地味な印象を与える。
「先月の、交際費の件は、幹部会でどういうことになったんでしょうか」
橋口が、話題を変えようとしたことは、誰にも分った。前田は、まだ何か言いたげだったが、渋々ファイルを開けて、
「いつだったかな、あれは」
と、ぶっきらぼうに言った。
ホッとした空気が、会議室の中に流れる。——勝之は、しばらく血の気のひいた顔を、じっと下へ向けていた。
そして午後のことだ。
勝之は、コピールームで、資料をコピーしていた。他に誰もいないと思うと、また大欠伸が出て来る。
フフ、と笑う声がして、振り向くと、田代令子が入って来るところで、
「坂上さん、眠そうね」
と、勝之の肩をポンと叩いた。
「子供の夜泣きでね。——このところ、ろくに寝てないんだ」
「あ、そうか。大変ね」
「女房は、まだ完全に体調が戻ってないから、ぐっすり眠らせたいんでね。つい僕が無理して起きちまう」
「優しいんだ。奥さん、幸せね」
「どうかな。——あんまり出世の見込みはないけど」
と、勝之はため息をついた。
田代令子は、勝之より二年ほど下の、しかし女性社員としては、かなりのベテランの一人である。独り者の気楽さで、なかなか優雅な暮らしをしているらしかった。
そこへ——勝之の課の新人の女の子が入って来ると、
「坂上さん」
「何だ? 君もコピーかい? 僕のは、もう終わるよ」
「いえ、あの……」
と、少し言い辛そうにして、「これ、コピーしろって、課長さんが」
ドサッ、と何百ページもありそうなファイルを置く。
「僕がこれをコピーするのかい?」
「私がやりますって言ったんですけど……。でも、課長さんが、坂上さんにやらせろ、って……」
「分った」
勝之はムカッとしたが、この子に当たっても仕方ない。——自分の仕事に必要なコピーならともかく、関係のない資料までコピーしろなんて!
「どうかしたの?」
と、田代令子も、気になった様子。
「畜生! あの豆ダヌキめ!」
「前田課長のこと?」
「そうさ。午前中の会議で一つ欠伸をしたら、いつまでも根に持ちやがって!」
「そうだったの。——大変ね」
「あんな肝《きも》っ玉の小さい奴は、あそこでストップさ。上に立てるような器じゃないよ」
田代令子は何となく肯《うなず》いて、自分の分のコピーが終わると、出て行った。——一方、新人の女の子が、何だか奇妙な顔で、まだ立っているので、
「君、戻っていいよ。課長命令だからな。僕がコピーする」
「ええ、でも……」
「何だい?」
「いいんですか? 田代さんに、あんなこと言って」
「どうして?」
「ご存知ないんですか。田代さん、前田課長と……あの、親密なんですよ」
「何だって?」
「女の子なら、誰でも知ってます。男の人だって……。坂上さん、本当に知らなかったんですか?」
勝之は、知らない間に、コピーのボタンを押しっ放しにしていた。——白紙のままのコピー用紙が、次々に吐《は》き出されて来た。
翌日の勝之が、およそ楽しい気分でなかったのは、当然のことであろう。
昨日のことは、エリにも話さなかった。もし——もし、クビにでもなったら……。いや、クビにはしないまでも、前田のことだ、またネチネチといびり続けるに違いない。
ゆうべ、田代令子が前田と会ったかどうか、そこまで知りようもなかったが……。
午前中は幹部会だった。——社長、部長、課長たちが集まっている会議。もちろん、勝之はお呼びでない。
十一時ごろだった。——前田が、いやに青い顔をして席へ戻って来ると、一言も口をきかずに、仕度をして帰ってしまった。
「——どうしたんだ?」
と、誰もが顔を見合わせていると、お茶出しをしていた女性社員から、話が伝わって来た。
社長が、今期の目標について大演説をぶっている時、グーグーといういびきが聞こえ、話は中断された。何と、前田が大口を開けて、居眠りしていたのだった。
「出て行け!」
と、社長に一《いつ》喝《かつ》されて、さすがに目は覚めたらしいが……。
勝之は笑い出したいのを、何とかこらえた。
見ろ! 天罰ってもんだ!
いい気分で、お茶をいれに給湯室へ行くと、田代令子が茶《ちや》碗《わん》を洗っていた。
「お茶? おいしいのがあるわ。幹部会に出したのがね」
「じゃ、もらうよ」
と、勝之は言った。「ねえ、田代君——」
「私、今朝の幹部会でお茶を出してたの。もちろん私一人じゃなかったけど」
と、田代令子は遮《さえぎ》って、言った。「私、ここんとこ、不眠症の気味があってね。睡眠薬を使ってるのよ」
「え?」
「前田課長のお茶に、カプセル一つ分、溶かして入れちゃった」
勝之は唖《あ》然《ぜん》として、
「田代君……。でも、君は——」
「これで許してあげて」
と、田代令子は、勝之の湯呑茶碗へお茶を注ぎながら、「気の小さい人なのよ。いつも失敗しないかってびくびくしてる。だから、つい下に当たってみたくなるのね、きっと」
「うん……」
「夜泣き、ねえ」
と、田代令子は、ちょっと目を伏せて、「私も、起こされてみたいわ。どんなに眠くてもいいから」
「田代君……」
「でもね、きっと無理でしょうね。前田課長には奥さんがいるし。それに——」
田代令子は、ちょっといたずらっぽく笑って、「坂上さんにもいるしね」
と、言うと、オフィスの方へ歩いて行った。
それを見送って、勝之は熱いお茶をゆっくりと飲んだ。
ステレオのボリュームつまみを上げて行くように、亜紀子の泣き声が高くなった。
「はいはい」
エリは、頭を振りながら起き上がった。「オムツをかえましょうね。——どうせ、しばらくは眠らないんだから」
「僕がやるよ」
と、勝之が起き出して来た。「君は疲れてる。寝てろよ」
「いいわよ。あなた、会社で眠くてしょうがないわよ、今ごろ起きたら」
「大丈夫。これが永久に続くわけじゃないさ。なあ亜紀子」
勝之は、亜紀子を抱き上げた。亜紀子は泣くのをやめて、少しキョトンとした目で勝之を見ている。
「すっかり目が覚めちまってる。——ま、少しお付合いしようじゃないか、我が子に」
エリは笑って、台所へと歩いて行く。
「——とても静かね」
と、エリが言った。
「うん」
こうして三人でいると、この静けさもいいもんだ、と勝之は思った。
一人きりの夜の静けさは、寂しいものかもしれないが……。
亜紀子が、小さな口を精一杯開けて欠伸をした。